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「世間から、狩野英孝を忘れさせない」スキャンダル救った〝イジり〟
ナルシストからポンコツへ…天然の面白さ
先月10月30日に放送された特番「土曜プレミアム『トークィーンズ』」(フジテレビ系)に出演し、相変わらずの天然キャラでスタジオを沸かせた狩野英孝。YouTubeのゲーム実況動画でも話題だが、そもそもはネタに対する熱量が高い芸人だった。早い段階でポンコツの扱いを受け、3度目のスキャンダル発覚時には5カ月の活動自粛を余儀なくされた。それでもなお、狩野が愛され続ける理由とは何か。(ライター・鈴木旭)
狩野は宮城県出身。約1500年の歴史を持つ桜田山神社の長男として生まれた。本来なら家業を継いで神主になるところだ。しかし狩野は、どうしてもそれが嫌だった。高校に入ると、バンドをやったり金髪にしたりして、両親に「神主は無理だな」と思わせるような行動をとり始めた(現在は、芸人と並行し神職も務めている)。
高校3年の時、専門学校案内冊子を見たことで日本映画学校・俳優科への進学を決意する。テレビっ子だった狩野は、漠然と芸能の世界に行きたいと思っていた。卒業生にウッチャンナンチャン、出川哲朗の名がある。このことだけで、当時の狩野は心が躍った。
意気揚々と日本映画学校に進学するも、年を追うごとに何もできない自分に気付いていく。卒業を控えた3年生の半ば、芸人志望の同級生からマセキ芸能社のお笑いライブに誘われた。軽い気持ちでついていくと、若手時代のいとうあさこやナイツが生き生きとネタを披露し、会場を沸かせていた。
名前も知らない芸人が、たくさんの人を笑わせている。バンドマンや役者と同じように格好いいと思った。俺もマセキにいこう――。これが狩野の芸人人生の第一歩だった。(2019年4月10日に公開された「新R25」の『「二度と呼ばれなかった番組」が転機に。狩野英孝が“ボケずに語る”仕事論』より)
2003年、ピン芸人として活動をスタート。駆け出し時代は事務所ライブのオーディションに落ち続け、たとえ舞台に立っても笑いはとれなかった。この時期、ストレスから人生初の血尿も経験している。それでも自分に鞭を打ち、舞台を沸かせるピン芸人のネタを見て研究し続けた。
スポットが当たったのは2007年のことだ。『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)に登場すると、白スーツのナルシストキャラで注目の的となった。「ラーメン、つけ麺、僕イケメン」「スタッフゥー、スタッフゥー」といったキャッチーなフレーズも功を奏し、一躍人気芸人の仲間入りを果たす。
当時はリズムネタ、ショートネタの全盛期である。ネタ番組では、小島よしおの「そんなの関係ねぇ!」、髭男爵の「ルネッサ~ンス!」、藤崎マーケットの「ラララライ体操」など、キャッチーでインパクトの強い芸人が活躍していた。
しかし、後にこうした芸人たちは“一発屋”と評されることになる。ブレークの最大瞬間風速もすごかったが、消費され下降する速度もまた異常だったのだ。
2000年代後半は、ネタ番組のピークであると同時に終焉だった。そんな頃に放送されたのが、2008年の『THE THREE THEATER』であり、その流れを継いだ『爆笑レッドシアター』(2009年4月~2010年9月。ともにフジテレビ系)である。1分ネタの『爆笑レッドカーペット』に対し、こちらは長いコントを主としていた。
総合司会はウッチャンナンチャン・内村光良。狩野以外のレギュラーメンバーは、しずる、ジャルジャル、はんにゃ、フルーツポンチ、柳原可奈子、ロッチ、我が家だ。狩野は、若手をまとめるリーダー役として配置された。しかし回を重ねるごとに狩野のポンコツぶりが露呈し、ネタ作りに長けたメンバーからイジられる立場へと追いやられていく。
番組では、あらかじめ用意されたシチュエーションで、ユニットコントおよびメンバーそれぞれのネタを披露するのだが、狩野単体のネタにほとんど笑いが起きない場面も見られた。プレッシャーで狩野の手が震え、あり得ないほどセリフを噛んでいたのを今でも思い出す。狩野はキャラクターに反し、センシティブで人一倍準備を怠らない芸人だった。
この時期、再ブレーク中だった有吉弘行とも共演。今年5月27日に放送された『櫻井・有吉THE夜会』(TBS系)の中で狩野は当時を振り返り、有吉が「ラーメン、つけ麵……」のツカミで沸いたスタジオの観覧客に向かって「お前ら半年後、何でこんなギャグで笑ってたんだろうって恥じるからな!」と言い放った衝撃について語っている。
私もこれを鮮明に覚えている。ちょうどアイドル的な人気を誇る芸人が影を潜め、実力派の芸人が支持されるようになった頃だ。その後、同業者から「華だけがない」と言われていたサンドウィッチマンが不動の人気を獲得していったのは周知の通りである。徐々にではあるが、明らかに時代は変わりつつあった。
「ボクのネタのスタンスは、どうすればカッコいい人がカッコ悪く見えるか。イケメンネタでやってるのもそうで、カッコつけている人がカッコ悪く見えるシチュエーションをいかに笑いに変えるか。だから、ライブのネタを探すために、常に人間観察ばっかりしてますね」(2010年3月15日発行の「お笑いハイブリッド!! Vol.2」(メディアボーイ)より)
この言葉からは「笑われる」ではなく、「笑わせる」という意識が垣間見える。しかし、奇しくも狩野の芸人人生は真逆の方向へと進んでいく。その大きなきっかけとなったのが、2009年2月に放送された『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)のドッキリ企画だった。
学生時代からロックバンド「L’Arc~en~Ciel」に憧れていた狩野にCDデビューの話を持ち掛け、1000人の観衆を集めたライブ会場で落とし穴に落とすという壮大な内容である。これより以前に「マジックメール」のドッキリを仕掛けられた際、狩野がラブソングを作ったことから発展した一大プロジェクトだった。
ここで注目されたのは、狩野特有の天然キャラだ。おだてられて調子に乗り、デビューに向けてまっしぐら。企画を信じて疑わず、愚直にひた走る狩野の姿は何ともかわいげがあった。現在の狩野の持ち味は、本人の思いとは裏腹にドッキリによって拡張されていったのだ。
新たな魅力が開花し、ネタ以外でも注目を浴びるようになった狩野。その勢いをせき止めたのは、自身のスキャンダルだった。
2012年に不倫報道が出ると、ブログで謝罪。2014年に離婚している。また2016年に2股疑惑(後に本人は8股だと言及)が浮上し『ロンドンハーツ』で謝罪したにもかかわらず、すぐさま翌2017年に未成年との交際疑惑が報じられた。これを受け、狩野は芸能活動を自粛。まさに身から出たさびだった。
ここまで問題が続けば普通ならタレント生命さえ危うい。しかし狩野は、半年足らずの自粛期間で芸能活動を再開した。スムーズに復帰できたのは、狩野を“イジられキャラ”に仕立て上げた面々の力が大きいようだ。
「昔、『他の人だと“やりすぎだ”ってなっちゃうことも、英孝ちゃんだとかわいそうな感じにならないから、すごくイジりやすいんだよ』って誉め言葉みたいに言われたことがあるんですけど、いや俺、傷つきますから! (中略) ただ、強くイジってくるスタッフさんや芸人さんは、スキャンダルで僕がほんとうに落ち込んでいたときに『世間から狩野英孝を忘れさせない』と言って一番手を差し伸べてくれた人たちでもあった」(前述の「新R25」の『「二度と呼ばれなかった番組」が転機に。狩野英孝が“ボケずに語る”仕事論』より)
その後、ナルシストキャラの“えぐみ”は完全に消えた。何よりも狩野自身が“笑われる自分”を受け入れ、持ち味を生かした笑いをとるようになった。
スキャンダル後の狩野は、番組スタッフや先輩芸人からの信頼も厚い。それは今年8月に吉本興業公式YouTubeチャンネル、ABEMAで配信された「雨上がり決死隊解散報告会」に出演していたことからも見受けられる。
また、同じ事務所の先輩・後輩のつながりが弱いと悟った狩野は、ある時期から率先して飲み会を開いたり、後輩にお年玉を配ったりと交流を図り始めた。今年9月30日に放送された『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の中で、後輩の三四郎・小宮浩信から「裏で“金づる”って言われてました」とイジられていたが、こうした事務所エピソードが出て来たのも狩野が行動を起こしたからにほかならない。
YouTubeチャンネル「狩野英孝【公式チャンネル】EIKO!GO!!」では、ゲーム実況動画が大ウケしている。コントローラーの不具合なのか、操作中のキャラクターが意図せずハンマーを振り続けたところで「勝手に斧振らないで」と連呼した場面はもはや伝説だ。天然の面白さは、メディアを問わないのだろう。
早い段階でポンコツだと指摘され、ドッキリ企画のターゲットとなって葛藤し、3度のスキャンダルで活動自粛にも追い込まれた。こうした不遇を乗り越えられたのは、どんな場面でも真っすぐな狩野の人柄に尽きる。魅力の根幹は、天然ボケよりもその純真さにあるのではないだろうか。
言い間違えたり噛んだりして笑いが起きることを、本人は“自分の力じゃない”と落ち込むようだが、そんなジレンマを抱える姿にまた視聴者は笑ってしまう。この最強ループは、きっと狩野が芸人を辞めない限り続くだろう。
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