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「おいしくない」マッコウクジラ、それでも狙う理由 伝統漁の生活
30年かけて追い続けた日本人監督に聞く
インドネシアで400年前から続く捕鯨のようすを記録したドキュメンタリー映画「くじらびと」が9月に公開されました。伝統的な漁を営む人びと姿が、ドローンや水中カメラも駆使した迫力ある映像で紹介されています。おいしなくない「マッコウクジラ」を現地の人が狙う理由。そして予想外の料理法。30年にわたって追い続けた石川梵監督(61)に、クジラとのリアルな暮らしを聞きました。
石川梵(いしかわ・ぼん)
映画の舞台、インドネシアのラマレラ村に暮らす人びとが捕獲の対象として狙うクジラはマッコウクジラです。
現在90種ほど確認されている「クジラ」は、大きく「歯」をもつハクジラと「髭(ひげ)」をもつヒゲクジラに分類されます。このうち、マッコウクジラは世界最大のハクジラです。
ラマレラ村の沖にはマッコウクジラ以外にもヒゲクジラの一種ナガスクジラなどが現れるそうですが、石川さんによるとヒゲクジラは基本的に捕獲の対象にはならないそうです。
「船の上でみんな寝ているときに(クジラの)音がしても捕りにいかないからどうしたのかなって思ったら、ナガスクジラ。潮の吹き方でわかるんです」
一部の氏族にはヒゲクジラを捕獲してはいけないという言い伝えもあるそうですが、泳ぐスピードが速く追いつけず、死ぬとすぐに海のなかへ沈んでしまうという現実の問題のほうが狙わない理由としては大きいようです。
これは19世紀のアメリカで最盛期を迎えたヤンキー捕鯨にも共通します。メルヴィルの小説「白鯨」で有名な当時の捕鯨は、木造の帆船で世界中を航海しながらクジラを探し、見つけると手こぎボートで近寄いてから銛を投げて捕獲していました。
彼らが主に狙っていたのはマッコウクジラとセミクジラ。目的の「鯨油」が豊富な種でもありますが、泳ぐスピードが遅く死んでもすぐには沈まないので捕獲に適していました。実際に捕鯨船の乗組員でもあったメルヴィルもナガスクジラについて「驚異的な遊泳力と速度にめぐまれ」「追跡は不可能」(八木敏雄訳)と語っています。
一方、水産庁の資料によると、現在マッコウクジラを目的とした捕鯨を続けている国は確認できている限りインドネシアだけ。エンジンの付いた船から捕鯨砲で銛を打ち込む近代捕鯨の登場でどんな種類でも狙えるようになったのもありますが、石川さんの話からは他の理由もみえてきます。
「マッコウクジラってまずいんです。筋肉のなかに血が多くて。僕は食べられるけど、そんなにおいしくないんです」
石油が普及した現代、鯨油の需要もなくなり、捕獲するとすれば食用がほとんどです。食べておいしくないクジラであればあえて狙わないのは納得です。
しかし、ラマレラの場合は違います。周囲を火山岩に覆われ作物が育ちにくく、コメやトウモロコシといった主食は内陸に住む人たちとの「物々交換」で得ているそう。
トビウオやマンタなども捕りますが、商品としての価値や量はクジラにかないません。クジラが捕れないと日に日に食生活が質素になる一方、「年にクジラ10頭捕れれば村人全員が暮らしていける」とも言われているそうです。
クジラが捕れると昔から決まっている方法で、部位ごとに、厳密に、骨以外の全てが村人たちへ分配されます。その後は保存するために細かく切り分けて干し肉にするのですが、このときの様子も「商品」としての扱いが象徴的です。
「干し肉にするために切っているシーンが映画にありますが、すごい均等に切っていたでしょう。それは一切れがバナナ何個という風に決まっているからです」
さらに「食べたらもったいないといって彼らはあまり自分たちでクジラを食べない」と石川さん。それでも食べ方が気になるので尋ねると、「非常にシンプル。ゆでて食べるか炒めて食べるか。栄養が減ってしまうからといって血抜きもしません。料理というよりは、食べられるようにして食べている、という感じです」と教えてくれました。
また、クジラ漁についての石川さんの話からは、私が2年前に取材したノルウェーの捕鯨を思い出す点もありました。
「マッコウクジラが潜ったときに、いかにして次の浮上場所を見極めるかが非常に大事です。潮の流れと風向きとの勝負。誰が見極めるかはケースバイケースで、一番経験のある人が決めていました」
ソナーの使用が禁止されているノルウェーでも、海に潜ったクジラが次にどこに現れるかを予測するのが重要です。ベテランの船員の場合はうまいのですぐに捕獲できることも多いのですが、若手の場合は捕獲まで3時間かかったこともありましたし、見失ってしまうこともしばしばでした。
見失う原因の一つが、波が高くなってクジラが見えなくなるから、というのも共通点でした。歴史的にも世界の最先端を走り続けてきたノルウェーの捕鯨ですが、遠く離れたインドネシアの辺境で続く伝統漁と、ほんの一部でも通じるものがあるというのは感慨深く思いました。
もう一つ、深く印象に残ったのがクジラの「目」です。
映画ではクジラの「目」が重要な場面でたびたび登場します。意図的だったというそのきっかけは、石川さんが最初にラマレラと出会った1990年代までさかのぼります。
1994年に初めて捕獲シーンを撮影した石川さん。ですがその後、「それまで海の上の物語、人間の物語ばかり撮っていて、海のなかの物語がないと気づいたんです」と振り返ります。
捕獲されたクジラが最期に上げた断末魔の叫び声が耳から離れず、「クジラの気持ちを撮らないとフェアじゃない」と感じたといいます。
「クジラの心をどうやって撮ればいいのか悩んだ結果、目だということになりました。哺乳類のクジラは魚と違って死んだら目をつむります。目に感情が表れるのではないかと考えました」
石川さんはラマレラで取材を続けます。そして捕獲シーンの撮影に成功してからさらに3年後の1997年、石川さん自身が海に飛び込み、クジラに打ち込まれた銛の綱につかまりながら息絶える直前のクジラの目を撮影しました。
「(映画では)目というものに神秘性をもたせて象徴的に扱いました。クジラの目は見方によってはある種、神の目でもある。この映画の最初の英題は”Eye of the Whale(クジラの目)”だったんです」※実際の英題は現地で銛の打ち手を意味する”LAMAFA(ラマファ)”
私はノルウェーで死んで船に揚げられたクジラを初めて生で見たとき、「神々しい」と思ったのを覚えています。今回、石川さんの映像を見て話を聞き、その理由は静かに閉じている目にあったのかもしれないとあらためて感じました。
狩り・狩られる、食べ・食べられる、という生き物としての営みに、クジラの側にも立とうと努めながら迫った石川さんの映像作品。そこには賛成か反対かといった議論に終始しがちな捕鯨への立場を超えて、私たちが「生きる」とはどういうことなのかを考えるヒントがあふれているように思いました。
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