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テレビやネットを犯人にする前に…映画『由宇子の天秤』の揺さぶり
みんなでわかりやすさ求めてしまう理由
なぜネットリンチが起こるのか。なぜ人々は正義感に駆られて愚かな振る舞いをするのか。なぜ偏向報道やメディアスクラムがなくないのか。なぜ誤った情報が急速に拡散され、陰謀論にハマる人々が跡を絶たないのか……。それらの背景に横たわるメディアリテラシーの問題とともに、コミュニケーションの普遍的な難点までを浮き彫りにした映画が現在公開中だ。そこから見えてくるのは、「真実は一つである」という思い込みに対する強烈な批評であり、情報過多とされるわたしたちの社会が陥っている〝情報欠乏〟への警鐘である。(真鍋厚)
第71回ベルリン国際映画祭パノラマ部門に正式出品され、第25回釜山国際映画祭でニューカレンツアワードを受賞し、海外でも高評価を得ている映画『由宇子の天秤』(2020年、監督:春本雄二郎)が、9月17日から渋谷ユーロスペースなどで公開されている。
3年前の女子高生いじめ自殺事件を追うドキュメンタリーディレクターの女性・由宇子(瀧内公美)が主人公だ。
シャープな感性が持ち味で、強い野心があり、真相を解き明かすことに労を惜しまないその性格ゆえに、分かりやすい構図にこだわるテレビ局の方針と真っ向から衝突している。
取材がいよいよ佳境に入ろうとしていたとき、学習塾を経営する父親・政志(光石研)から〝衝撃の事実〟を告げられ、彼女は自らの欺瞞と向き合うことを余儀なくされる。
本作の重要なポイントは、観客を決して「自分には関係ない」という態度で鑑賞させないよう、客観性という神のごとき視座を周到に排除しているところだ。
被害者と加害者という単純な解釈は通用せず、すべてが濃淡のついたグレーの色合いを帯びる。
由宇子は、〝衝撃の事実〟がもたらす良心の呵責や葛藤によって「真実の探求者」というこれまでの立場が大きく揺らぐことにとなる。これが根幹にあるテーマと密接につながっている。
観客は次々とその時点での事実(と思っていたこと)を覆されることで、「真実は一つしかない」という先入観自体に疑いを持ち始め、自分事として受け止めざるを得ない寸法になっている。
白黒つけられない世界に翻弄され続ける由宇子は、物事を見極めることは可能だという傲慢さを隠さない、わたしたち自身の自画像として現れるのだ。
恐ろしい事件が起こる。正義の遂行が叫ばれ、犯人捜しが始まる。噂が飛び交い、疑われた人々が罰せられる――。このような負の連鎖は枚挙に暇がない。
今年、北海道の公園で中学生の遺体が発見され、いじめや暴行によるものと週刊誌が取り上げ、ネット上で犯人捜しが先鋭化した。
現地に乗り込んだYouTuberが虚偽の情報を流し、犯人と間違われた生徒と家族が被害を受けたのは、まさにその最新版といえるものである。
ソーシャルメディアの影響力ばかりに目を奪われがちだが、情報発信する人々の拙速な判断が起点にあることは、テレビがお茶の間の主役だった時代から何も変わってはいない。
事実誤認があったとして放送できないと話す由宇子に対し、プロデューサーの富山(川瀬陽太)が返した台詞「青いこと言うな。おれたちがつないだものが真実なんだ」は両義的である。
ドキュメンタリー作品が典型だが、いくら実際の映像を撮り溜めたところで、撮る段階で物事の取捨選択があり、特定の文脈に従ってつなぎ合わせている時点で、すでにそれは虚構の産物といえる。
また、カメラを向けられれば誰でもそこに映る自分を意識し、演技する。制作者がわかりやすくまとめようとする単純化の誘惑以前に、撮られる側も含めた実に多くの作為が介在している。そのため、〝ヤラセなしのドキュメンタリー〟という謳い文句は、厳密には語義矛盾だ。
けれども、そこに一片の真実も含まれていないという訳ではない。真実はある。しかしそれは少なくとも複数あるのだ。
誰かの意図によって視点が構成されるという性質は、ドキュメンタリー番組やネットの情報だけの話ではなく、そもそも個々の意識のメカニズムからしてそうなのだ。わたしたちは様々な出来事によって引き起こされる膨大な感覚を捨て去らなければ、混乱の中で、何をしていいのかわからなくなり、正気を保っていられなくなるだろう。生きていく上で避けて通れない物事の単純化や情報の縮減と短絡の過程がある限り、複数の真実があること、真実の中に虚構が混じっていることは付きまとう。
わたしたちは、日常においてもまったく同じ困難と直面する。これは、いわばコミュニケーションの普遍的な難点を雄弁に物語る寓話でもあるのだ。
先の議論を踏まえてみれば、本人が「真実だと断定したもの」をそっくりそのまま受け手に伝えることが、むしろ誤解を生むかもしれない。そのまま伝えようとすることが、話者と聞き手の関係を悪くするかもしれないし、果たして正しいことなのかどうかすらも分からない。わたしたちは無味乾燥な字面だけでキャッチボールしている訳ではないからだ。
正解や模範解答は存在しない。本作の先の読めない展開以上に不安を掻き立てられるのは、登場人物の言葉に必ず「言葉にされない何か」があると想像させるところにある。虚実があるということではない。言語以外の言語によって語られている何かであり、これは言語以外の領域でしか解消されない何かであるから厄介なのだ。
劇中で何度となく描写される食事のシーンにそのヒントがある。学習塾の女子生徒と由宇子、自殺した教師の母親と由宇子、教師の姉とその娘と由宇子。手作りのおじやや、パンといった食べ物を分け合う行為が関係性に独特の変容をもたらすと同時に、のちの運命を左右するきっかけになっていることが重要だ。
かつて科学評論家のトール・ノーレットランダーシュは、情報社会の危険性として「情報の過多」ではなく「情報の欠如」を挙げた。ここには言語以外の言語への敏感さが失われることに対する懸念が示されていた。
彼は「情報社会がストレスに満ちているように思われるのは、情報が多すぎるからではなく、少なすぎるからだ」と主張し、「そこでは、たいていの人々は、言語の狭い帯域幅を使って懸命に仕事をする」と述べた。
人間にとって共食はとても原初的な行為といえる。
テーブルを囲んで、食事を取り、他愛のない会話が交わされる。しかしながら、それは「言語の狭い帯域幅」の外に出て、何事かがやり取りされる貴重な機会となり得る。
人類学者の山極寿一は、「人間の社会性は、食物を運び、仲間と一緒に安全な場所で食べる『共食』」から始まったと指摘したが、これは言語が発生する以前から機能していた共感や信頼を作り出す社会的な営みでもあったのである(『スマホを捨てたい子どもたち 野生に学ぶ「未知の時代」の生き方』ポプラ新書)。
前述した劇中における共食のエピソードは、言葉だけで現実をとらえようとする「言語の狭い帯域幅」への盲目的な依存・偏重の傾向こそがわたしたちを不自由にしていることを示唆して余りある。
「真実は正しい」も「嘘は間違っている」も、どちらも複数ある真実から、自分にとって好都合な一面を選ぶための方便ともいえ、錯綜した現実を無視した定型文に過ぎない。生身の人間との関係性を抜きにはどのような見解も意味のない空論でしかなく、不用意に自分や相手を傷付けてしまう。
加えて、様々な出来事の真相に辿り着くことは原理的に不可能だ。一人ひとりが体験した出来事があるだけあり、それぞれの視点と認識を寄せ集めても明確な像を結ぶことはできないからだ。
わたしたちは普段、認識できるほんの一部分だけで現実を構成しようとする「群盲象を評す」という状態にある。もっといえば、客観的視点などといった特権的な地位は、世界を外側から観察できるという慢心に基づく幻想なのである。
しかしながら、どのような視点もその人の主観に過ぎないという居直りに逃げるのではなく、真実は一つという信仰にも与しないといった構えに踏み止まることでしか、自分自身の不自由に敏感でいることはできない。
それが、過ちを犯しやすく、かつか弱い、わたしたちが取り得る数少ない生存戦略だからだ。
映画は徹頭徹尾、まるでスマホの画面から他人事を眺めるように、わたしたちは「人生の『外』に立つこと」はできないと戒めている。
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