地元
「なんでサボった?」松田丈志さん育てた名コーチが伝えたかったこと
「周りに応援される選手になれ」
東京五輪でも活躍を見せた競泳日本代表の選手たち――。開幕前の春、オリンピック競泳日本代表コーチを過去に2度務めた久世由美子さん(74)が、指導者を引退しました。約45年にわたって子供たちに水泳を教えてきた久世さん。指導歴28年に及んだ教え子・松田丈志さん(37)を支え、オリンピック4大会連続出場と4つのメダル獲得に貢献したことでも知られています。そんな伝説のコーチには、練習を〝サボった〟幼い松田さんを叱った際の忘れられない思い出があるそうです。自己最長の教え子とともに世界で闘った日々を振り返ります。
久世由美子(くぜ・ゆみこ)
「もし『先生になりたい』という夢をかなえていたら、松田丈志と出会えていないなって真っ先に思うんですよ。だから良かったんだと思います。巡り合わせって不思議なもんじゃね」
宮崎県で国体が開催された1979年。延岡市立東海中学校(同市無鹿町)のプールを利用し、有志と共に「東海スイミングクラブ」を開いた。
設立した目的は、泳げない子供たちに水泳の楽しさや泳げる喜びを教えるため。指導を始めて10年が経つころ、姉につれられてプールにやってきた当時4歳の松田丈志さんと出会う。
「とにかく負けん気が強い子だなという印象でした」
松田さんは就学前からどんどん上級クラスに進んだ。子供たちが互いに競うゲーム方式の練習では、がぜんやる気をみなぎらせた。
「『なんやこの子、おもしろいやん!』って思いました。私自身が負けず嫌いなんですが、この子もなかなかだなと。だけん、強烈に記憶に残っていますね」
コーチ、どんげやったら速くなると? プールサイドで他の選手に指導していると、決まって松田さんが隣に来ては聞いた。週3日あった練習時、毎回欠かさず同じ質問を受け続けた。
速く泳げるようになりたい―。だれにも負けたくない―。泳ぎへの飽くなき向上心には目を見張った。
小学生になった松田さんは、スイマーとしてめきめきと頭角を現し始める。好タイムを出したり、大会で良い結果を残したり。そんな時こそ、久世さんはこんこんと諭した。
「いいか? 丈志。ここで強くても、あんたより速い人はたくさんおるよ」
小学校低学年の時は高学年の試合を、中学に進学したらさらにその上を――。常に〝現在の実力より一歩先の泳ぎ〟を見せ続けた。
「頑張るのは本人だから、その子が頑張らない状況で周囲がいくら手を尽くしても、それは〝一方通行〟になってしまう。それはだめだと私は思っていました。だけん、彼とはそういうキャッチボールがうまくいったんでしょう」
忘れられない出来事がある。松田さんが小学校高学年の時だった。当時、地元の化粧品販売会社で働いていた久世さん。終業後に指導していたため、自分の到着までに子供たちは準備体操などのウォームアップを済ませておく決まりだった。
だがその日、久世さんが練習場に着くと、教え子たちは楽しそうに遊んでいたという。いわゆるサボりだ。集団のなかに松田さんの姿もあった。
「腹が立ったけん、その日はみんな帰らせたんです。でも、丈志だけ泣きながらその場をじっと動こうとしなかった。今でも覚えています」
「なんで帰らんのか聞いたら『泳ぎたい』と繰り返すんです。それならなんでサボったの?って2人で話し合いました」
松田さんがサボるのを見たのは、それが最初で最後だった。
「もちろん強い選手は丈志だけじゃありませんでした。教え子たちのなかには、全国レベルの選手はたくさんいましたから。ただ、こちらが話した内容をきちんと身につけ、自然と行動できてしまうのが『松田丈志』という人間だったんです」
松田さんは、その後も着実に実力をのばしていく。松田さんの高校進学を機に、久世さんは会社を辞めて指導に専念した。中京大学(愛知県)に進むと、国内外の練習にも同行して行動をともにするように。国内外での遠征が続き、大学の授業に出席できない日が多かった。
「課題レポートは絶対出すように本人には言っていました。私も、大学の先生たち宛てに手紙をこまめに送って近況報告をしていました。周囲の理解と協力をひしひしと感じた6年間(大学院まで)でしたね」
松田さんの主な競技種目はずっと自由形(クロール)だった。フォーム調整のため、バタフライを練習に取り入れたところ、世界レベルに対応できると判断。バタフライでも世界を目指すことになった。一方で、久世さんは「自由形は何が何でも持たせ続ける」と決めていた。
「一時的な視点ではなく、その子が息の長い選手になるにはどうしたらいいか。そこを一番の軸にして選手を見ようというのが私のやり方でしたから」
この指導方針が、後に〝オリンピック4大会連続出場〟につながることになる。
松田さんが4大会連続で出場したオリンピック。久世さんは、全ての大会にそれぞれ違った思い出と思い入れがある。
大学2年で初出場した2004年のアテネ五輪。400メートル自由形に出場し、結果は8位入賞でメダルには届かなかった。試合後、久世さんと松田さんは互いに「勝っておごらず、負けてくさらず」と言い合った。
「オリンピック出場」という松田さんの夢が、「オリンピックメダリストになる」に変わった時だ。
「じゃあ、すぐに動かんとね。2008年には間に合わんよ」
松田さんにそう声をかけて鼓舞し、すぐに2人で4年後を見据えたという。
「2008年の北京五輪と2012年のロンドン五輪は、やっぱり彼の全盛期ですね」
2度目の北京五輪では、200メートルバタフライで日本記録とアジア記録を更新し、銅メダルを獲得。
3度目のロンドン五輪には、競泳チームのキャプテンとして出場した。200メートルバタフライでは、王者マイケル・フェルプス選手(アメリカ代表)とデッドヒートを繰り広げた末に再び銅メダルを、そして400メートルメドレーリレーでは日本初の銀メダルをそれぞれ獲得した。
「金メダルじゃないから悔しさは残っているだろうけど。フェルプス選手とは0.25秒差でしたからね……本当にあと少しだった」
400メートルメドレーリレーの決勝後、松田さんが口にした「(北島)康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」という言葉は、その年の流行語トップテンにも選ばれている。
この後、松田さんは久世さんから離れ、別の指導者のもとへ。
今春、自分がコーチを引退する時はちっとも思い浮かばなかった「ゆっくりしたい」という考え。だが、松田さんと離れていた時だけは「ゆったり過ごせた」と振り返る。選手を受け持つ重責は他に例えようがない。
「選手を受け持っている時は、何をしていてもやっぱり選手のことが一番気になるんですよね。(松田さんは)それだけ実力のある選手でしたし。もちろん離れていた時でも気になってはいましたし、応援もしていましたけど」
離れていた約1年。オリンピックを目指すアスリートの指導者が対象のプログラムを受講したり、国体開催にも関わったり。新たなことに挑戦しながら、充実した日々を過ごしていた。だが、すぐに生活は一変することに。
コーチ、練習を見てください――。
久世さんが世界ジュニアのコーチとして指導していたある日、松田さんに声をかけられた。
「『見て』と言われたら、それが自分の役割だと思えてね。今後どうしたいのか聞くと、『もう1回オリンピックに行きたい』って言ったんです」
はっきりとした口吻だった。
「今のままじゃ行けんよ? 今の考えじゃ無理」と久世さんが答えるも、「本気です。どうしても出たい」。松田さんは決して折れない。
「その後も、頑として『出たい』と強い覚悟を感じましたね。だったらやろうじゃないかと私も決めたんです。もう1回、心意気を見せろよって伝えました」
こうして、ともに世界を目指す日々が再び始まった。
松田さんは、既にアスリートとしての最盛期は過ぎていた。心拍数の回復機能は著しく低下。厳しい現状を分析した上で、久世さんは松田さんが熱望する「オリンピック出場」をかなえるために策を練り続けた。
「本人にマイナスなことは言えなかったけれど、相当厳しいだろうなと。それくらい身体的な機能は落ちていました」
「ただ、もうバタ(フライ)は難しいけど、オリンピックに出るんやったら自由形ならいけるな、と。だから200メートル自由形だけは絶対に捨てさせなかったんです」
昔から一貫していた「息の長い選手にすることを第一に考える」という久世さんの指導方針が実を結び、自由形で結果を残した松田さんはオリンピック4大会連続出場を果たした。
悲願の出場をかなえた2016年のリオデジャネイロ五輪。800メートルリレーで銅メダルを獲得した。日本勢52年ぶりの偉業達成だった。
「この時、一番よかったって思いましたね……本当に。本当によかった」
競泳でオリンピックに4大会連続で出場した選手は、これまで北島康介さんと松田さんの2人だけだった。
「そこに、東京五輪で入江陵介が加わるんですよ」
久世さんは声を弾ませていた。
「彼(入江選手)はずっといっしょに練習してきた子で、強い思い入れのある選手なんです。なつかしさもありますし、本当にがんばっていてありがたいなと」
「松田丈志は絶対にオリンピックに出て、メダルを取る」――。心に打ち立てたその決意が少しでもぶれたり揺らいだりしていたら、いとも簡単につぶされていたはず。今でもそう思う。
「私は熊本人やからね。人のふんどしで相撲を取るんじゃなくて、どれだけ痛みを伴おうと『自分がやるべきことをやろう』と決めていました」
自分をしっかり持ち続けなければつぶされてしまう環境に身を置き続けることは、「とてつもなく苦しかった」と振り返る。
「国内では絶対に味わえない苦しみでした。男性選手に女性コーチという組み合わせは現在もまだ珍しいけれど、当時はもっとその傾向は強かった。右も左も分からない男社会に1人放り込まれて。でも丈志がいたからね」
「丈志は私の苦しみを分かっていて、しっかりついてきてくれた。『コーチはそこにいて。僕ががんばるから』って。並じゃない闘いなんです、世界って。私が折れてもだめだし、丈志の意識がほんの少し他にいっても絶対だめだった。2人とも本気だったから世界で闘えたんです」
「もちろん、丈志と歩むなかで精神的に鍛えられたところもあるけれど、厳格だった父親の教えが軸にありました。私は幼い頃から、『弱音を吐かない』『自分自身に克たないと他人には勝てん』と言われながら育ちましたから。『負けてたまるか』とずっと思っていました。常に自分を強く持ち続けることができたのは、父のおかげでしたね」
2016年、松田さんは引退した。当時、松田さんは引退後の〝第二の人生〟として「宮崎県延岡市の水泳文化を久世さんと強化していきたい」と話していた。
「でも、丈志は延岡になかなか帰ってこられないから」とほほえむ久世さん。
毎年正月、久世さんの自宅に松田さんが家族連れで訪れ、記念写真を撮影しているという。だが、今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で実現できなかった。
松田さんは東京を拠点に、スポーツジャーナリストとしてテレビに出演したりジムを経営したりするなど、多方面で活躍している。
「忙しそうだけど、子供の行事に参加するとか〝家族を大切にしよう〟という姿勢が何よりうれしい」と久世さんは目を細める。
松田さんを世界に送りだせたのは、家族の理解と応援があってこそ――。久世さん自身、家族には負担をかけ続けたと自覚している。夫が練習場に送迎してくれ、家族が暮らす宮崎には1年の3分の1しか帰れない時期もあった。
「文字どおり、丈志のことは〝久世家一丸となってサポートした〟。本当にそう思います」
大変だけどお母さんがんばって――。そう願う2人の娘と夫の気持ちを感じられたから、指導に専念することができた。
「身近な人が味方してくれる心強さや大切さは、そうやって痛いほど肌で感じました。だけん、私はクラブの子供たちにいつも言っていたんです。『周りに応援される選手になれ』って。自分の体験からきていたんですよ」
1/9枚