コラム
「ブルーベリーは目に良い」アルビノの私が喜べなかった祖父の好意
孫のため信じた「俗説」と偏見の共通項
雁屋優さん(26)は、髪や目の色が薄く生まれる遺伝子疾患・アルビノの当事者です。代表的な症状である「弱視」に、家族とともに、幼少期から向き合ってきました。忘れられないのが、祖父の振るまいです。孫の回復を願い、根拠不明な「俗説」に頼ったのでした。雁屋さんは、その好意をうれしく感じつつ、素直に喜べなかったといいます。成長後に実感した、疾患にまつわる数々の偏見と、祖父が信じたものとの共通項について、つづってもらいました。
私はアルビノとして生まれた。主な症状として、髪や目の色が薄いことを知っている人は多いと思う。ただ、弱視を伴うことが多い点については、あまり知られていないのではないか。
例にもれず、私の視力も0.1程度だ。自動車免許は取得できないし、警察官など視力制限がある仕事にも就けない。今回は、この弱視にまつわる話をしていきたい。
母を始めとした、周囲の大人たちは、「ふつう」と異なる外見の私と向き合ってきた。やがてアルビノという病名にたどり着き、何に気をつけるべきか、どんな症状があるのか、知る必要性を認識した頃だった。
祖父が、自宅の庭に、ブルーベリーの樹を植えたのだ。私の視力が、治療によって改善しないとわかった直後のことだった。「その実が目にいい」との俗説を踏まえ、私の視力改善を願ってのことだったのは言うまでもない。
毎年多くの実をつけるブルーベリーは、朝食のヨーグルトに添えられたり、ブルーベリージャムになったりして、身近な、おいしい食べ物となった。
祖父が私を思って、収穫してくれたブルーベリーは、格別の味だった。わずかながらであれ、視力も改善しているといい。幼い頃の私もそう、願っていた。
しかし、2007年に発表された論文で、一般的な消費量のブルーベリーに視機能改善効果はないことが、示されている。ブルーベリーは、目をよくするものではなかったのだ。
私はアルビノであることをきっかけに、生物学に興味を持ち、大学で専攻した。学部生ながら、研究の一端に触れたことは、今の私にとって大きな糧となっている。
先行研究を知り、そこから仮説を立て、実験によって検証していく。私が大学で取り組んだことは、その繰り返しだ。徹底的に事実を確認し、論理的な筋道を立て考えていく、厳しくも整然とした世界だった。
研究室で行われる論文紹介でも、私の甘い解釈は、指導教官や先輩達の指摘にたたき潰された。当時は世界の全てが敵に思えるほどだったけれど、それぞれの指摘が論理的に正当であったこともまた、事実だ。
そうやって、自身の解釈が甘いことに気付けるようになって、論理的思考の萌芽のようなものができてきたのかもしれない。
先行研究を知り、解釈し、仮説を立て、実験を繰り返す――。それは、何かを疑いなく信じるのとは、正反対の態度だった。
話を過去に戻そう。祖父は、私のためを思って、ブルーベリーの樹を庭に植えた。孫の私を案じての行動であったことは、疑う余地がない。しかし、視力の改善にブルーベリーが有効という言説は、その当時も、うわさでしかなかったはずなのだ。
それでも、祖父は、その説を信じて、ブルーベリーの樹を植えた。そうさせたものは、何だったのだろう。もちろん、孫である私への思いに裏打ちされてはいた。だが、その理解では少し雑すぎるかもしれない。
アルビノという、祖父にはまったく馴染(なじ)みのない病気で生まれてきた孫は、目が悪いらしい。さらには、その目に対する治療法は、ない。つまり、孫は、視覚障害者として生きていくほかない――。そのように、祖父の胸中を推し量ることはできる。
祖父にとって、この事実は、ひどく悲しく、絶望するに十分なものだっただろう。戦前生まれの祖父の世代では、障害者は経済的自立どころか、街に出ることすら大変だったのだから。
その状態を何とかしてやりたい。孫に少しでも明るい未来を開いてあげたい。そう強く思っていた祖父に、「ブルーベリーは目にいい」という俗説は救いを与えたのではないだろうか。
不確かであるかどうかを考えるより、孫の未来がよくなる可能性を少しでも高めかった。そんな祖父の姿勢は、決して否定されるべきものではない。
そうは言っても、アルビノをはじめとした、いわゆる「珍しい」疾患や症状は、相当の偏見に取り囲まれている。無根拠な考え方である点で、ブルーベリーの話と地続きと言えるのではないだろうか。
「病弱なんでしょう?」
「日光に当たると死んでしまう」
「(日焼けに対してだけではなく他の物質に対しても)肌が弱い」
こんなことを、少なくない人々から言われてきた。どれも誤っているのだが、意外に根強い。それほどまでに、アルビノについて正しく知る機会は少ない。それにアルビノの場合、「美しい」といったイメージばかりが先行してしまいやすい傾向もある。
こういった偏見や誤解は、社会の中で広く共有されると、当事者の就労や就学の機会を奪うことにもつながりかねず、ときに有害となる。当事者のことを思っての発言であっても、その情報が確かなものか、いちど考えてもらえたらうれしい。
かくいう私も、生まれつき身体にアザがある人を念頭に、「アザは痛いもの」という偏見を持っていたことがある。痛みのある人もいるが、そうでない人もいる。そのことを、知らなかったのだ。
実際にアザのある人と話して、自身の偏見を自覚し、謝罪した。「知らないと、痛そうに見えるよね」と許していただけたが、本当に恥ずかしい思いをした。
これらの出来事を通し、正しい情報が、わかりやすく発信されていくことの大切さを痛感している。偏見や誤解は、誰しもが持ちうるものだし、それ自体が悪いわけではない。そのことに気付き、意識を改めていく姿勢こそが、必要なのだと思う。
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