地元
松田丈志を育てた伝説のコーチが引退「夢は子ども本人がもつもの」
45年貫いた教え「スイマーよりも人として」
東京五輪では、世界を舞台に全力で勝負するアスリートたちの姿が多くの人の胸を打ちました。そんな選手たちには、地元で競技に出会った幼少時代の指導者によって才能が花開いた人も少なくありません。元競泳選手の松田丈志さん(37)を4大会連続でオリンピックに導いた久世由美子さん(74)は、約45年にわたり宮崎県で子供たちに水泳を教えました。この春指導者を引退した久世さんに、宮崎第三の都市・延岡市から選手を送り出し続けた〝水泳人生〟について聞きました。
久世由美子(くぜ・ゆみこ)
久世さんは熊本県八代市出身。小学校低学年の頃、祖母のすすめで近所を流れる球磨川でいとこたちと泳ぎ始めました。
「そこから始まったのが私の『水泳人生』でした」
地元中学の水泳部で本格的に打ち込み始め、あっという間に市トップになり、県でも同学年では負け知らずに。強豪の筑紫女学園高校(福岡県)に特待進学すると、3年連続でインターハイに出場するなど実力はさらに開花します。
「強豪だったんでね、インターハイに出るとか決勝に残るというだけでは何とも思われないわけです。みんな強いから。一緒に川で泳いだいとこの一人も同じ学校にいたんですが、彼女は後に東京五輪に出ました」
久世さんは、水泳選手を目指していたわけではありません。現在の旭化成から実業団入りの話を持ちかけられたのは、東京都内の大学に進学がほぼ決まりかけていた時でした。
「小学校6年の時に素晴らしい先生と出会ったんです。本当に心のある先生で『私もこんな人になれたらな』と思って。だけん、自分も教師を目指す気持ちが強かったんです」
家族やまわりの人たちは、大学進学を一様にすすめました。
「やっぱり大学に行った方がいいんじゃない?」
「由美ちゃん、あんな田舎に行ってどうするの?」
そんな周囲の声に対し、「たんかを切った」という久世さん。
「『行ってみな分からんじゃん』って言ってしまったのが、運の尽きというかなんというんですかね(笑)」
自由形(クロール)の専門で3年契約。以降、今も宮崎県延岡市に拠点を置きます。引退後も事務職として働き、次女妊娠を機に30歳で退職しました。
「当時は専門にしている種目だけを泳ぐのがスタイルでしたから。そのうちメドレー種目ができて、オールマイティーで泳げることが普通になっていきましたけど。特定の泳ぎのための体作りではなくて、全部に対応できるように仕上げるのが現在の主流ですよね」
子供たちへの水泳指導は、旭化成を退社する前年にスタートしました。長女が通っていた幼稚園で、園児たちに教えたのがきっかけです。小学校では泳げない児童を募り、10日以内に25メートルを泳げるようにする教室を開いたことも。
「私は指導中とにかくしゃべるからね。『話すことが特技』と言ってもいいくらい。水をこわがらず泳げるように話術でいきます。子供たちの気分をのせてのせてのせるの。そこに的確なアドバイスさえあれば、みんな泳げるようになるんです」
宮崎県で国体が催された1979年。国体関係者や元スイマーら有志が10人ほど集まり、水泳教室を開くことになりました。延岡市立東海中学校(同市無鹿町)の協力を受け、後に「ビニールハウスプール」として知れわたる「東海(とうみ)スイミングクラブ」が誕生します。
「『泳げない子たちを集めよう』『泳げない子たちにこそ教えよう』という考えでした。その前年ですかね、市内で子供の水難死亡事故が起きていたんです。だけん、『その子がもし泳げていたら』って思いも重なってね。早く始めようとクラブ開設を急ぎました」
指導では、常に本気で子供一人ひとりと向き合いました。
「子供たちが練習をいい加減にやっている時には怒りました。相手が嫌いとかいう気持ちは全くありませんでしたよ。『がんばってほしい』、それだけ。こちらも家のことを置いて本気で練習を見ていましたから。みんなよくついてきてくれたなと思います」
いつも全力投球なのは、剣道師範で厳しかった父譲りの性分だと分析。
「私自身がずっと努力するように育てられたから、もう染みついているんです。特に『弱音を吐かない』というのと『自分自身に克たないと他人には勝てん』というのは、小さな頃から父に言われていました。教え子たちにも引き継がれていると感じます」
「そればっかりやないけどね、おもしろいことも言おうと心がけてきましたし。でも、根っこにあるのは父のそういう教えです」
あいさつなどの礼節やマナーを一番大切にして、子供たちと接した理由も「もう完全に父の影響ですよ」と即答します。
「子供たちが『スイマーとして』というよりは、『人として』しっかりやっていけるように。それを常に心がけました」
「『速く泳げる人がえらい』だとか『うまく泳げる人は何をしてもいい』とか、そういった姿勢や態度は絶対にありえません。私は人間性を重視する教えを一貫しました」
松田さんが4回目のオリンピック出場を目指す時もそうでした。当時、アスリートとしての最盛期を過ぎていた松田さん。
「どんどん身体的能力が落ちている中であっても、最終的に勝負を分けるのは一体何? 松田丈志という『人間性』やろ?と信じて闘っていました」
2017年にクラブが活動を終えるまで、ずっとボランティアで続けた指導。長い活動を後押ししてくれたのは「保護者」でした。競技にうちこむ子供、全面的に子供を応援する保護者、そして指導する自分――。
「この『三位一体』の体制が必要なんです。保護者の皆さんには『サイドコーチにはならないで、私と選手がしている練習をただ応援していてください』と、指導を始めた当初からしきりに言っていました。夢は子供本人がもつもの。まわりはサポートしかできないんです」
この頃大切にしていたのも、やはり「しゃべること」。
「泳ぎ終わった子たちに泳ぎのアドバイスをしたり、時には『人生はそんなに長くない』だとか人生談義をしてみたりね。後になって知ったんですけど、これを楽しみにしていた子が結構いたみたいです。私、がんばっている子たちにはしゃべりたくなるんですよ」
「話を聞いた子が何かしら得てがんばってくれたり。指導者としては、そういう〝キャッチボール〟ができればいいと思っていました。頑張るのはその子本人なのだから。本人が頑張らない状況で周囲がいくら手を尽くしても一方通行なので、それでは意味がないと昔から思っていました」
老朽化による施設の建て替えなどで、2017年に東海スイミングクラブの活動がストップ。その後は、市内のスイミングスクールで泳ぎを教え続けました。
指導環境が変わっても指導歴がどれだけ長くなっても、水泳指導を始めた時の初心を貫いた自負があります。
「あの時に抱いた『できるだけたくさんの子供たちに、泳げる喜びや楽しさを知ってほしい』という気持ちはずっと持っていました。『選手を育てる』ではなく、『水泳の楽しさを教えたい』という思いですね。それが始まりであり、ずっと根底にあり続けましたから」
今年3月末、指導者を引退しました。元教え子たちでもある後進の指導者が続々と育ち、「もう任せられると思えたから」。
「もちろん大変だったこともあるけれど、クラブを開く時に声をかけてもらえて本当によかったと心から思います。いつかの私が得た『水泳はきついけど楽しい』という感覚を、多くの子たちに感じてもらえたのであればうれしいです」
そして、こう続けます。
「それにほら、私は次のことを始めないと。体の自由がきかなくなる限界まで指導を続けていたら、新しいことができないじゃない?」
まずは、市教育委員と地元観光大使としての活動を全うしたいと意気込みます。
「私は今までのスポーツ経験で役職を頂きました。子供たちと関わることはやっぱり好きですし、『そんな違った意見もあるんや』と思われても臆せず意見を出していくつもりです。自分が役割にはまるのではなく、そういう立場でも自分の意見が言えるようになりたいと思います」
延岡のPRに力を入れるため、「海デビュー」にも積極的で前向きな姿勢を見せています。
「国内外いろんな海に足を運びましたが、延岡の海は格別です。私は泳げるから、自分が海デビューしてその良さを実感した上で、情報発信していきたいです」
取材時に伺った久世さんの事務所でのこと。スタッフの皆さんも周りにいましたが、久世さん自らがてきぱきと対応され、常に動き回っている姿が印象に残りました。
久世さんは、幼い頃から「人のために何かするのが好きな性格」だそうです。その一端を感じる出来事がありました。
事務所内のあちこちに飾られていたプリザーブドフラワー。引退時に教え子たちから贈られたものと思い、「どれも素敵ですね」と取材前に話しかけると、「ありがとう! 全部私が作ったの」と久世さん。「国立スポーツ科学センターの宿舎には、練習で滞在するたびに作品を置いてきているの。ロビーに飾ってくれていたみたい」と笑顔で話していました。
取材後、冒頭に交わした会話を覚えていた久世さんは、「これプレゼント! 持って帰って! こっちがいい? そっち?」とプリザーブドフラワーを選び、あっという間に袋に入れて手渡されました。この時に頂いた花を眺めると、今も元気がわきます。
引退時に教え子たちから受け取ったアルバムや手紙を眺めながら、「私は厳しいのにみんな本当によく辞めなかったなあ」と不思議そうにしていた久世さん。
一般的なスイミングスクールでは、小中学校への進学や引っ越しなどを機に辞めてしまうことが多いといいます。一方、久世さんのもとには10年、20年と通い続けた教え子たちばかり。その事実に驚きつつも納得しました。
3歳から水泳を習っていた記者自身、中学進学前後に辞めました。久世さんの指導を受けていたら「泳げる楽しさと喜び」を強く感じ、もっと長く続けたのではないかと感じたからです。
引き込まれる話術だけでなく、とにかくパワフルで世話好きな人柄、細かなところにまで行き届いた優しくも鋭い視点、頼りがいと包容力にあふれた雰囲気……こんな久世さんのもと、延岡では多くの子供たちが泳ぎを学びました。
2001年の時点で、累計で約1千人の子供たちに指導したとのことですが、「今はもう数え切れない」とのこと。教え子には、久世さんの教えを引き継いで指導者になった人、引き続き競技に打ち込む人もいます。今後さらに延岡から広がっていくであろう水泳文化の発展に期待しています。
先月閉幕した東京五輪では、世界の大舞台で活躍するたくさんのアスリートたちが注目されました。その土台をつくる――すなわち、一選手の競技人生の始まりを支え、より高いレベルに導いていく――という大役を担うのは、久世さんのような〝子供にスポーツの魅力を伝えられる人たち〟なのだと、取材を通じて切に感じました。
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