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#医と生老病死
「死」の不安とどう向き合う? 医師・漫画家・僧侶が本音でトーク
医師「死は分からない」僧侶「私も死んだことないのでねぇ」
比叡山延暦寺東塔大講堂の大日如来像前で行われた伝教大師最澄1200年大遠忌法要。中央右は読経する森川宏映・天台座主=2021年6月4日、大津市、小川智撮影 出典: 朝日新聞
普段から人の死に触れているお医者さんですが、病理医・ヤンデル先生は「死は分からない」と明かします。一方、〝亡くなった後〟の葬儀をおこなう立場である比叡山延暦寺の僧侶、小鴨覚俊さんは、「私も死んだことないのでねぇ」から話を始めるそうです。分かりたいし、分かりたくない死について、ヤンデル先生と仏教をテーマに描いたマンガ『阿・吽』の作者・おかざき真里さんが、小鴨住職と語り合う〝場〟を開きました。
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たらればさん:全員に訪れるのに、おそらく多くの人にとって分からない最大のもの、「死」についても話していきたいと思います。分かりたいと思うのだけど、分かりたくないとも思う。
この「死」というものについて、まず、小鴨住職に口火を切っていただきたい。例えば「死について教えてください」と言われたらどう答えるのでしょうか?
小鴨住職:これも難しいんですよ。「私も死んだことないのでねえ」から始まって、「死んで戻ってきた人の話も聞いたことないんでね」と話し出します。
「分かりませんが」という前提を置いてしゃべるのは、「又聞きでしゃべっているだけで僕の責任ではないよ」という風なガードをしているのではないかと思います。
「死はこんなふうに書いてありますよ。こうらしいですよ」…そういう話しかできないですよね。
そこでお話するのは、やはり「命の連続性」です。命とか魂というものの連続性は色んなお経に書かれているし、お釈迦様だってそれを何度も表現されていますから。
だから、私という存在は決して私一人ではない。過去からも私一人が私一人になったわけではない。この先もそうではありません。だから死ぬことは終わりじゃないんじゃないかな、ということを話します。
納得していただいているかどうかというのは、なかなか分からないところがありますね。
おかざき真里さんがSNS医療のカタチTVに寄せたイラスト 出典: SNS医療のカタチ提供
ヤンデルさん:いまお話いただいた、過去・未来というのはどういう意味でしょうか。
小鴨住職:「過去から未来という連続性の中に、私という存在が、今一瞬ここにあるということに過ぎない」ということです。
私は53歳なので、私という人を見た場合には53年間を見るかもしれません。そうではなく、お父さん、お母さんがいて、おじいさん・おばあさんが4人いて……という「それ以前」も時間軸がつながっています。
以前、お医者さんに教わりましたが、全細胞が入れ替わるのに何日だか、何週間だかかかるといいますよね。じゃあ「細胞がすべて入れ替わったそれは誰?」ということですよ。
また、食べた物にはすべて1つ1つ命があります。私はたまたまその命を預かっている存在に過ぎない。この先もそうです。
今は亡くなるとほぼ火葬にしますけれど、それが灰とガスに分かれたとしても、わ~っと広がってまた何かになって、どこかにいくわけですよね。
「私」というものはそこにやはり、連続性があります。それが仏教の基本的な考え方だと思います。
たらればさん:おかざきさんは「死」というものをどう捉えて、どう描こうと思ったのか伺いたいです。
おかざきさん:漫画はもちろん、エンターテインメントですし、うそなんですけれど。でも、それを信じていらっしゃる方がいるものは、できるだけ裏切りたくないと思っています。なので描くときも「はい。死にました」みたいな話ではないですね。
漫画って生きている人のためのものでしかないんですよね。
漫画で「死」を描くというのも、生きている人のために描くものなので、「死」そのものというよりは、生きている人に対する方便というか、そういう風に漫画の中でも常に死を描くつもりでいます。
完結したマンガ『阿・吽』の第1話 出典: ©おかざき真里/小学館
私は数年前に父を亡くしました。お葬式もして、家族みんな思うところは色々あったと思います。けれど、たぶん「死」というものは、もう生きている人たちのためのもので、死の解釈はそれぞれなのではないでしょうか。漫画も何となく、それぞれの解釈がある「死」を描いています。
だから、できるだけ解釈を広く取ってもらえるように私は漫画を描きがちです。あとは読者さんを信用して解釈をしていただこうという感じです。
ヤンデルさん:ご住職が死についての話を連続性の中で位置づけるようなお話をしていました。
僕は正直に言って、医療者側として、生きている間は我々が何とかするので、死についてはお坊様方に「何とかしてほしい」とちょっと投げている感があります。我々は「死」が分からないどころか、触れるのもちょっと怖い。
小鴨住職:お医者さんは、命を長らえて病気を極力治していくのを使命とされてきたわけです。先人たちがそれを目標に努力をしてきたことによって、克服された病気はもう山ほどあり、平均寿命が本当に延びた。このこと自体は決して悪いことではなく、本当に素晴らしいことだと思います。
その陰で「死」というものにどこか「死ぬのは悪いことなのだ。お医者さんからすれば殺してしまったことは失敗だったのだ」というようなニュアンスがあったかもしれません。特に日本では、そういう傾向が強かったかもしれない。
地域でも学校でも宗教をあまり教えず、ここ何十年かで「死」そのものを、やや遠ざけてきたようなところがあります。核家族になって、おじいちゃんやおばあちゃんといった「死にゆく人」を見ることもなくなりました。
「久しぶりに会ったときには写真の中」といった経験をする人の方が多くなって、地域でも死を順番に受け入れていきながら送っていくという儀式もなくなってしまいました。
これは誰が悪いとかということではありません。少なくとも、日本ではそういう状況が今起こっています。
小鴨住職:東日本大震災以降、特に注目された「臨床宗教師」というものがあります。
お坊さんに限らず宗教者が、死を迎えようとする人の抱える痛み、これは身体の痛みや精神的な痛み、社会的な痛みではなく「霊的」という表現をされますね。スピリチュアルペイン(霊的な痛み)に寄り添えるのは、お坊さんといった宗教者しかいないと言うんですよ。
そこはもう、投げるというよりも、お医者さんの仕事ではないです。だから「一緒にやっていきましょう」という働きがどんどん生まれてきて、今、注目されるようになっています。
お坊さんも「亡くなったという連絡を待ってたらいいわ」としていたところを、「いやいや、やはりダメだよ」ということになりました。遠ざけていたことに向き合わなければならないということに気づいたんですよね。
僧侶たちが傾聴する移動喫茶「カフェ・デ・モンク」の取り組み。僧侶が被災体験を語る女性に寄り添う光景もあった=2012年6月、福島県相馬市 出典: 朝日新聞
医療現場の臨床宗教師は、いわゆる末期の方で、治療することがないという方に寄り添って、精神的な霊的な痛みや不安を柔らげていこうという取り組みです。前提として「こう拝むとこうなりますよ」とか、宗教的な教えは絶対に言ってはいけないんです。
とにかく聞く。お相手から尋ねられたら「私が信じている教えでは、こういう話もありますけれど」くらいは言ったとしても、「お釈迦様がこうした」などと言ってはダメなんです。
「葬式仏教」なんて言い方もありますが、臨終を迎えた人をどのように送っていくかという形はもう昔からあります。本来仏教は生きている人のものであって、はっきり言うと死んでいる人はあまり相手にしていません。
その「死」をみんなで共有して悲しんで、咀嚼していこう……というものがいわゆる「葬送」という葬儀の儀式です。これは仏教であろうと、何であろうと世界中に何千年も前からずーっとある儀式ですから。
たらればさん:「周縁が大事ですよ」という話になっていて、すごく示唆的ですね。
僕も数年前に母を亡くしていて。亡くなる本人よりも周囲のほうが「死」の話を知りたがりますが、当然、目の前に死にそうな人がいると聞けないんですよ。
お医者さまが死の話をしたがらないし、亡くなる前にお坊さんに話を聞きにいくわけにいきません。それで何が起こるかというと、不安なので分かりやすい話に取りつきたがるわけです。
「分かりやすいものに惹かれてしまう危うさ」がありますよね。ディスコミュニケーションや、だまされることへの危険について、小鴨住職はどう思いますか?
小鴨住職:確かにその問題はありますね。いくら説明をしたところで、字面では分かったとろこで、怖いものは怖いのです。
実は今でも後悔していることがあります。私とすごく近い存在の兄貴分のような方が、7年前にがんでお亡くなりになったのです。お医者さん嫌いだったので、あまり検査に行かず進行してしまいました。
最後の半年くらいはもう本当に苦しみながら、でも一生懸命仕事をしておられました。実は、会うたびに「死に近づく気分はどうですか?」と聞きたかったのです。
「お坊さんとして人に説法していたことが、いよいよ自分の物語になった。その時にどう自分の中でその気持ちを処理するのか。人にそれを伝えようとしたらどう表現するのか」と。聞きたかったけど、よう聞けなかったですね。
ヤンデルさん:そりゃそうだ。
小鴨住職:でも、お坊さんならば、それは自分で納得しないといけないはずです。兄貴分は、どこかで納得しようと努めていたというか。
「死」にまつわる情報が少ない一般の人が不安になるのは、より当たり前のことです。だから、信仰なりに縁があった人は不安が柔らぐところがあるのかもしれません。そういう意味では、これまでのお坊さんは生きている方に対しての接触が足りていなかったのだろうと思います。
たらればさん:小鴨住職は「死に近づく気持ち」を聞かれても大丈夫なんですか?
小鴨住職:日記ぐらいつけようかな、と思います。後の人が読んで気持ちの変化が分かるように。
今は個人的なSNSでは発信していませんが、そうなったら「あと2カ月だそうです。頑張ります」というTwitterを毎日やるかもしれないですね。
たらればさん:医者同士は「死」にまつわる話はしませんか?
ヤンデルさん:お医者さんが、がんになったときに本を出版されるケースがたまにあります。「ドクターが、がんになってはじめて分かったことを語ります」みたいな本があります。
がんの診療をしていた人が、実際にがんになる。そうしたら編集者に連絡をとって「俺はこれから死ぬまで書くから。おれが死んだら、その内容を本にして売れ。もう絶対に売れるから」と言って書いているんですけど。
そういう本を、僕はむさぼるように読んだ。でも、文章がどんどん優しくなっていくんです。そして「絶対、こうじゃない」と分かってしまうんですね。
がんになったドクターが診ている患者さんが、リアルタイムでその本を読むということが分かってしまうからです。患者の気持ちに肉薄しすぎてしまう。自分が今がんという道を進んでいるのを、鼻の差で追いかけているような患者さんを、自分が診ているんです。
すると、すごく優しいことばかり書いて死んでいくんですよ。なので、医者の書く、特に死に向かうものは、信用できないわけではないのですけど、書いた人の辛さばかりが迫っていて……。ひたすら明るく終わっていく様子は……たまらないですね。
だから、できれば本当のところを見たかったけど……いや、もしかしたら本当かもしれないけれど、という気持ちになってしまいます。
だから、僕も業を背負います。仮に住職が書かれるということであれば、僕も書きます。そのときは、もうあけすけに書きますよ!
決して医療に期待させることもなく「この看護師はひどかった」「この治療は痛みは取れなかった」と書きたい。あらかじめ僕は言っておきます。
おかざきさん:お話を聞いていて、たぶん小鴨和尚さまがTwitterや本を出されるよりも、お弟子さんが「どんな気持ちですか?」と聞かれるのをニコニコ延暦寺で見てみたいです。
広く100万人に……と思って本を書くより、一番信頼しているお弟子さんに毎日、刻々と聞いてもらう。本当に一言ずつでもいいですけど、それで出てくる言葉は何か違う気がします。
小鴨住職:面白いですね。そのときにならないと分からないですけど、提案を覚えておきます。生配信はあまりにリアルすぎるのでね(笑)
私が何か発信をしようとすると、やっぱりヤンデル先生がおっしゃったように、優しく、ちょっと変換をして丸く書いてしまう可能性がありますね。そして自分の中のモヤモヤした部分というのは、ひょっとしたら書かないかもしれないですね。
確かに第三者に書いてもらう方がいいかもしれないですね。何らかのかたちで、自分の死ぬ瞬間まで、できれば何か伝えたいと思います。
ヤンデルさん:重いものを背負っていただいた気がする。
小鴨住職:仏教は、死ぬ瞬間に「臨終正念」といいまして、臨終の瞬間に「正しい思い」でいられることが大切なんです。
「正しい思い」というのは「よし、納得した!」「あ、阿弥陀様がきた!」と思って亡くなるということです。
「そういう亡くなり方がしたい」というのはすべての共通した願いなんです。貴族といった昔の人は仏教に精通していましたから、「こんな思いで写経するので、どうぞこうなれますように」という願文(願いの言葉)を書いています。
「死ぬ瞬間に心が乱れませんように。阿弥陀様、観音様が迎えにきてくれますように」という願いがいっぱい出てくるんです。
そしてその次に続くのは必ず「私が向こう岸にいったら、すぐにこっちへ戻ってきて、一人でも、二人でもたくさんの人を向こう岸へ連れていってあげるように努力します。だからその瞬間、正しい心でいられますように導いてください。それまで私は努力します」という言葉です。昔の人ってそこまで考えるのがすごいですね。
たらればさん:あっという間に時間がきてしまいました。きょうの感想をいただければと思います。
ヤンデルさん:出てきた言葉に体温が乗っている感じがして、すごい日だったな、という。いつもZoomでやるよりも熱が乗っている感があって、とてもいい汗をかきました。
おかざきさん:亡くなった父は、延命を拒否しておりましたので自宅で亡くなったんですけれど。最後、母親に「ちょっと仕事机に座らせてくれ」と言って、仕事机に1時間ばかり座って「じゃあ、寝かせてくれ」と言ったんです。そしてそのまま息を引き取ったんです。
私は父親とは折り合いがかなり悪かったし、家族が看病を全部やっていたのを大変じゃないかとか色々思っていたんです。
でも、すごく理想の死に方だなあと思って。「ああ。父の娘でよかったな」とそのとき思いました。
ヤンデルさん:正しい念ですね。
おかざきさん:ふだんあんまり「死」が分かっていないんですけど……。これからも勉強しながら描いていきたいと思います。
小鴨住職:おかざき先生のお話、お父さんかっこいいですね。
おかざきさん:最期だけね。ずるいですね、ずるいですよ(笑)
小鴨住職:私もそうなりたいですね。
50年ぐらい前、私のずっと先輩のお坊さんが、病院で息を引き取る直前の話です。
今ならもっと長生きできたかもしれませんけれど、「もう間もなく亡くなる」と言われまして、集まった弟子たちが「師僧は病院で死ぬことを望んでいないから、連れて帰るぞ」といって連れて帰ったんです。
阿弥陀様のお軸や木造を建てて、紐を引っ張って師僧の手と結んでつないで。昔は息か脈かくらいで「死」を判断していましたから、息を引き取る前から、チーンと鐘を叩きながら念仏を唱えます。
「死」という瞬間を迎え、次へ行くときまで、阿弥陀様の念仏を唱えて邪魔が入らないようにします。そして阿弥陀様に迎えにきてもらうんですね。
で、いよいよ、師僧が息を引き取ったと。そう思った弟子たちが、「じゃあ次を唱えるか」と唱え始めたら……師僧が「まだやー」と言ったんですよ。
(一同爆笑)
ヤンデルさん:かっこいい話だなぁ!
小鴨住職:(決して笑わせようと仰ったわけじゃないでしょうけど)私、そういうことをしたいなと思っているんですよ。
最期のときに一瞬戻ってきて息をチっと潜めて、死んだふりして「まだやー」って言って、冗談で笑かしたいですね。最期の一番の望みですね。
SNS医療のカタチとは:
「医者の一言に傷ついた」「インターネットをみても何が本当かわからない」など、医療とインターネットの普及で生まれた、知識や心のギャップを解消しようと集まった有志の医師たちによる取り組み。皮膚科医・大塚篤司/小児科医・堀向健太/病理医・市原真/外科医・山本健人が中心となり、オンラインイベントや、YouTube配信、サイト(https://snsiryou.com/)などで情報を発信し、交流を試みている。
SNS医療のカタチTV2021とは:
2021年8月21,22日、ボランティアによって配信されたオンライン番組。withnewsもメディアパートナーとして協力しています。オンライン番組にあわせて、連載「#医と生老病死」をスタートしました。「SNS医療のカタチTV2021」のアーカイブは、1日目はこちら、「死はわからない」を含む2日目はこちらからご覧ください。