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自宅療養、ワクチン待つ若者の行列…まるで戦時中の無責任体制
兵站無視した無策の先にある〝絶望的事態〟

「自宅療養」という名の、医療崩壊が進む中、渋谷ではワクチン接種を望む若者たちが行列を作る事態になっています。評論家で著述家の真鍋厚さんは、「一坪あたり14人」という劣悪な環境で将兵を乗船させた戦時中に重なると訴えます。一方で、目の前の惨状に対して他人事として構えてしまう人々の意識があるとも指摘。今、進んでいる〝最も恐ろしい事態〟について、つづってもらいました。
「一坪あたり14人」という密度
なんと廃船同然のボロボロの貨物船に3000人もの将兵を乗船させるために、「船倉一坪あたり14人」という異常な人口密度で詰め込んでいたからです。
一坪といえば、およそ3.3㎡、畳2畳分で、大人が大の字になって寝転べる程度の広さです。方法としては、いわゆるカイコ棚式で、二段ベッドのように空間を上下に区切り、上に7人、下に7人というふうに棲み分けさせるものですが、山本曰く「ただその高さはやっと胸までの二段であり、従って、ひとたび船艙に入れば、その人は直立することはできない」のです(『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条』角川書店)。
もちろんエアコンなどというものが存在しない船倉は、人いきれが充満する蒸し風呂であり、湿度はほぼ100%、天井からは絶えず水滴が落ち、濃密な空気が支配していました。人々は思考力を失い、まるでコンベアに乗せられた貨物のように積み込まれていたのです。
「そうやって積み込んだ船に魚雷が一発あたれば、いまそこにいる全員が十五秒で死んでしまう――」(同上)。実際、そのようにして制空権も制海権も奪われた海原に連れ出され、数十万人もの人々が海の底に沈んでいきました。それが当時の兵員輸送の実態でした。

戦時中の無責任体制に重なる「自宅療養」
いわば「生物としての人間」を無視した机上の空論がまかり通っていて、あらゆる異論が退けられていたからです。しかも、ここで重要なことは、山本が戦後も同様の問題が解決されず温存されていることをしっかりと強調していたことなのです。
このようなエピソードがコロナ禍の惨劇を耳にする度に、繰り返し脳裏に浮かぶのを止められないのは恐らく偶然ではないでしょう。
例えば、中等症あるいは重症化しつつある人々に「自宅療養」を強いるという事実上の医療提供の放棄。第5波の真っ只中にある東京では、病床の逼迫(ひっぱく)が深刻化し、自宅療養者の死亡が相次いでおり、入院患者は初めて4000人を超え、自宅療養者は2万5000人に上る状況になっています(8月27日現在)。
東京都の新型コロナウイルス感染症モニタリング会議における「医療提供体制は深刻な機能不全に陥って」「救える命が救えない事態となる」「自分の身はまず自分で守ることが必要である」という言葉には、「生物としての人間」を維持するために不可欠なロジスティクス(兵站)を軽んじた代償を、すべて現場の指揮官や兵士、軍属や民間人に押し付けた戦時中の無責任体制を髣髴(ほうふつ)とさせるものがあります。
まともな医療の提供どころか、保健所から健康観察の連絡や、食料など支援物資が届かない事態が続出し、多くの人々が容態の悪化などの不安に怯える孤立無援の状態が出現していることはその再来といえます。
国や行政や医師会がそれぞれの諸事情から医療提供体制の拡充に消極的という構図も非常によく似ています。
元厚労省医系技官で医師の木村盛世氏は、既存の病床をICUとして使用できるといった法整備、人工呼吸器を扱える医師やスタッフをかき集めるのに十分な時間があったはずなのに、厚労省も日本医師会もこのような取組みを一切してこなかったと批判。
「その結果として、欧米に比して極めて少ない感染者数と死亡者数でいとも簡単に医療がひっ迫してしまった」と述べ、「現在の医療のひっ迫は、実際には新型コロナウイルスの登場から1年以上がたったにも関わらず、重症化対応に関して、なんの努力もしなかった厚労省と日本医師会の責任」と怒りを露わにしました(『新型コロナ、本当のところどれだけ問題なのか』飛鳥新社)。

渋谷の行列、悪い冗談
コロナ戦争において感染爆発に備えた医療提供体制の構築を怠り、「救える命が救えない事態」を作り出してしまったのは、大戦中と同じく政治決定における重大な過ちに基づくものと言わざるを得ません。
これはひとえに「生物としての人間」を考慮しなかったかつての失敗と同根なのです。これはワクチン接種においても、国からの供給不足に伴う大混乱、打ち手不足解消のための規制緩和に対する抵抗等々、今もなおわたしたちを翻弄し続けているものです。
若者たちが渋谷におよそ1キロもの行列を作り、抽選に当たらないとワクチンが打てないとは何の悪い冗談でしょうか。経済学者のジャック・アタリが言っていたように「国民は勘付き始めた」のです。「指導者は、自分たちを守るためになすべきことをしかるべき時期に実行しなかったのではないか」と(『命の経済 パンデミック後、新しい世界が始まる』林昌宏・坪子理美訳、プレジデント社)。
これら一連のしわ寄せを受けるのは、とりわけ感染しやすい就業環境にいたり、基礎疾患を持っていたり、あるいはワクチン接種を受けられなかったり、様々な理由により社会的に不利な立場にいる人々なのです。
バブルに閉じてしまったわたしたち
そこで、いっそのこと日本が潰れてしまえば、そこから新しい世界が立ち上がるなどといった願望とも予言ともつかない観測に飛び付く傾向がありますが、そこまでの行動が起きるわけがないという意味で、これはあまりにもおめでたい希望的観測といえるでしょう。
快適な個人生活というバブルに閉じてしまったわたしたちは、真に何が重要な事柄なのかを見定める以前に、自分の運の良さをメディアの扇情的な報道を一瞥することで確かめ、憂いと同情のため息をついてみせるのが関の山であり、具体的なアクションを起こすには至らないのです。
そういう意味において東京五輪で注目された「バブル方式」という概念は、すでに広義に定着していた人々と人々の隔たり、数多の階層や健康状態、情報環境などから生じる差異によって囲い込まれ、泡(バブル)の膜で外部を遮断することに慣れ切っていたわたしたちの処世を、目に見えるグロテスクな形で再現した模倣に過ぎなかったのです。
要するに、その真意とは、どれだけ社会が悪化しようともバブルの中にいる人々は痛くも痒くもなく、パニック映画のような分かりやすい破局はついに訪れず、統計的に犠牲者だけが緩慢なペースで積み重なっていくものの、それは別のバブルで発生した偶発的な悲劇のように受容され、総体として社会は何事もなかったかのように現状維持を決め込むという苛立たしいものです。
哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、現在のようなパンデミックは、これまでハリウッド映画が描いてきたいずれのディストピアとも異なると主張し、実に意味深な未来図を示しています。
つまり、待てど暮らせど終末は来ないのです。「感染爆発による日本の崩壊」もあり得ません。崩壊するのは個々の現場の医療、個々の現場の家族であり、ずさんな支援体制の下、最前線で職務に当たっている医師や看護師、保健所の職員などが軒並み疲弊し、、健康リスクの高い人々とその家族が重症化と死の恐怖にさらされ、ほとんど人災に近い構造的欠陥の犠牲者として積み増しされてゆくだけなのです。

その先にある最も恐ろしい事態
コロナ禍のうんざりするような異常性とは、ジジェクのいう〝ヴァイラルワールド〟という終わりなき悪夢が、エゴイスティックな失政によりもっと熾烈なものへと変わり、被害が取り返しのつかない甚大なものになり得るという側面、それが正常性の顔を装っていることにこそあるのです。
コロナ禍の次に何が来るかは不明ですが、わたしたちの社会の目詰まりを正さない限りは、「いつまでも続く」危機が二重にも三重にも大きくなっていくのです。
このような終わりなき悪夢がいつまでも上演され、観客のつもりであったわたしたちは自分の身に降り掛かって初めて、その悪夢の実相に驚愕することになるのです。非人間的なボロ船でフィリピンに渡った山本のように。
けれども、最も恐ろしい事態はその先にあります。
その悪夢の実相すらまたバブルの1つとして受け取られ、シェアされ、消費され、忘れ去られてしまう……わたしたちが常に立ち返らなければならないのは「生物としての人間」を考慮しているか否かという一線なのです。