話題
「死ぬ前からすでに残りかす」哲学者の言葉から考える〝死の恐怖〟
死に意味を求めてしまう私たち
【眠れぬ夜の死の話】
感染症の拡大や医療崩壊は、普段は考えない死について、自分ごととして受け止めるきっかけにもなっています。自分の死が向こうの世界の何ものかと交換される――。科学技術が進展し、良くも悪くも古代から信じられていた思考に拘束されなくなった現代、「死んだらモノになる」といった死の物理的な側面ばかりに目を奪われがちになっています。「死ぬ」ということを、なぜ恐怖するようになったのか。評論家で著述家の真鍋厚さんに、つづってもらいました。
「人は死ねばゴミになる」――これはある法務官僚が著した闘病記のタイトルで、90年代末に出版されると同時に話題になった。
このような台詞はかなり身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれないが、少なくない人々が抱えている直観を見事に凝縮している。
曰く「僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思うよ。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、当人は、まったくのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ」(以上、伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』小学館文庫)……。
確かに、近親者の死などに立ち会い、遺体に直接触れたりするなどして、故人の生きている時との落差を言葉にする際、「『人』が『モノ』になったような」という直喩が使われることがある。
もちろん、死後硬直などの感覚的な面もあるだろうが、最も大きな背景要因として挙げられるのは、死を交換のロジックで考えなくなったことにある。
その昔、わたしたちは、生が生物学的な個体発生とは別の次元からもたらされる〝何か〟と捉え、その〝何か〟は死によって元のところに戻ると解釈していた。
宗教学者の宮家準(ひとし)は、日本の民俗宗教に関する著書で、「死は人間の体から霊魂が去ることによっておこると信じられている。そこで臨終の際には、死者の側などで大声でその名前をよんだり(魂よび)、口に水をふくませたりして霊魂をよびもどそうとする」と述べている(『日本の民俗宗教』講談社学術文庫)。
「魂呼び」「魂呼ばい」といわれる呪術行為で、全国的に広く見られる習俗であった。現在のように呼吸停止、心停止、瞳孔散大の三徴候で死が判定されることはなく、数日程度の猶予期間が設けられていた。人は臨終に際しては「生者の世界」から少しずつ離脱していき、「死者の世界」に入っていくプロセスを経ることになっていた。
つまり、生者でも死者でもないどっちつかずの「中間的」な段階が存在していたのだ。
これに関しては、未開社会の誕生と死について、社会学者のリュシアン・レヴィ=ブリュルが言及していたことが参考になるだろう。
共同体のメンバーは、死んだ直後はすぐに死者として扱われることはなく、「何も未だ決定していない」状態にあるとされる。これは生まれた直後の子供も同様であり、「いわば誕生は、死と同じく、順次的な階梯※を経て完成される 」という認識が定着していた(『未開社会の思惟』山田吉彦訳、岩波文庫)。※引用者注 階梯(かいてい)=段階の意
誕生も死も、自然の営為などではなく通過儀礼によって確定され、線引きされるものであった。
けれども、ここで最も肝心なことは、霊魂の存在が固く信じられていたことよりも、かつては「生者」も「死者」も「1つの循環的な秩序に組み込まれた社会的な存在であった」ということである。
ここには「生者の共同体」が「死者の共同体」との関係ありきで考えられていた事情がある。要するに、死者の世界からの贈与によって初めて生者の世界が成立するという世界観があった。
文化人類学者のマルセル・モースは、『贈与論』の中で、多数の民族誌学資料を読み解きながら、「贈与」が「与える義務」「受け取る義務」「返礼の義務」の三つの義務から構成されることを明らかにした。そこで非常に興味深いことは、この贈与のシステムが働いている領域が「死者の共同体」を当然のように含んでいたことである。
現代において社会といえば「生者の共同体」のことしか意味しないが、元来は「生者の共同体」と「死者の共同体」とが対になる関係を前提にしたものであったのだ。
モースに従えば、「死者の霊と神々」と(生きている)「人々」は、とりわけ優先的にコミュニケーションすべき関係にあったわけである。そのため、誕生と死の場面では通過儀礼が重視されることとなる。
「与えられたものは受け取らなければならず、与えられたものは元の場所に返さなければならない」――これが「死の現実」を全体の枠組みにおいて理解するための重要な鍵となっているのである。
この点に関しては、解剖学者の養老孟司と齋藤磐根(いわね)が明快な説明を試みている。
もちろん、ここで論じている埋葬の起源についての仮説の核心は、死が生との交換によって意味付けされていたことにある。しかも、モースの論考を踏まえれば、贈与と返礼の関係にあったわけである。贈与としての生、返礼としての死が長い年月をかけて儀礼化されていたともいえる。
「死は与えられ受けとられてこそ意味をもつ。すなわち交換によって社会化されてこそ意味を持つ」という思想家のジャン・ボードリヤールの言は、まさにこの事実を表明している
その上で、ボードリヤールはわたしたちが生と死の交換がない世界にいることを突き付ける。
「われわれのところでの死とは、誰かがこの世からずらかることである。彼はもう交換すべきなにものももたない。彼は死ぬまえからすでに残りかすなのである」(前掲書)。この「残りかす」という表現と先の「ゴミみたいなもの」は、完全に同じではないがその意味するところは近い。
もはや死者の共同体とのつながりを失ったわたしたちは、生が彼岸からの贈与ではなく、生物学的な個体発生としてしか意識されず、死が返礼などではなく、有機物の崩壊にしか映らないというわけだ。
自らの生が贈与として現れず、死によって生が返されないとなると、死は、単に生命を奪う恐ろしい災厄、避けられない重大なアクシデントとなる。
人類学者のナイジェル・バーリーがいみじくも述べているように、「死は期待外れの機能喪失」(『死のコスモロジー』柴田裕之訳、凱風社)として認識されやすくなるのである。肉体という物質のみであるからには、それ以上の何ものかが存在し、何かがやり取りされるということはなく、文字通り「交換すべきなにものももたない」存在となる。
けれども、実は交換のロジックは、今でも、そこここに偏在し、影響を及ぼしている。特に死に関しては何かが取引されているように想像してしまうことを止められない。
非業の死や早すぎる死などに際してはその傾向がより強くなる。目に見えない何ものかが裏で糸を引いていて、それが死者との関わりや、果ては超越的な存在の意思をにわかに浮かび上がらせたりもする。
そのようなものが本当に実在するかどうかはさておき、わたしたちの人生の重要な局面を解釈するよう促している。わたしたちは極めて物質的な変化の背後に、常にそれを超えるものの働きを探そうとし、かつ読み取ろうとする。
俗っぽい例を挙げれば、ぼんやりとしたイメージとして流布している「先祖の祟り」や、よく耳にする「この子はおじいちゃんの生まれ変わり」といった挿話が分かりやすいが、もっと抽象のレベルでは、ある人物の死が多くの人々に何がしかの社会的な衝撃をもたらすことも、交換のロジックの片鱗を多分に含んでいるといえる。少なくとも集団的な返礼が期待される。
それゆえ、厳密には、この状態は自分の死が誰かの誕生と交換されるという円環的なサイクルの中にあった生者と死者の対称性の喪失だといえる。そして、自分の死を「死者の共同体」に返さなくてもいいと考える固定的な互酬性(義務としての贈与の原理)の衰退となる。
今や生と死の不条理は、科学の力で解明されるしかないように見えるが、自分は何であるか、自分の死は何を意味するのかという実存的な意味までを解き明かすことは不可能だろう。そのため、このどうしようもない空白に対しては、自由な議論によって答えを見つけていかなければいかない。
しかしながら、前述のごとく昔、信じられていた「死者の共同体」のような特定の枠組みが消えても、依然として、死を意味付けようとする交換のロジックは作動し、何かが与えられ、受け取られ、返されるという思考はなくなりはしない。
わたしたちは、古代人のような、自分の死が次の生につながっていると考える感受性へと先祖返りすることはできない。さりとて、自分の死に何か意味を見いだそうとする交換のロジックの外に出られない運命にある。これらのことを甘受しつつ、人生の最後の最後まで生と死のニュアンスをカスタマイズし続けるしかないようだ。
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