コラム
「助けられなくてごめん」障害者が障害者をいじめる〝暴力の本質〟
「傍観者」だった私が一生背負う「罪」
8月8日に閉幕した、東京五輪。開催をめぐっては、様々な課題が噴出しました。開会式で作曲を担当予定だったミュージシャンが、過去に障害者をいじめたとして、役職を辞任したこともその一つです。「いじめとは、心身に対する明確な暴力行為だ」。車いすユーザーの篭田雪江さんは、そう語ります。かつて通った特別支援学校で目の当たりにした、障害がある子どもによる、他の生徒への暴行。パラリンピックの開催を控えたいま、当時を振り返りつつ、思うことについてつづってもらいました。
今年7月、東京オリンピック・パラリンピックをめぐり、世間をざわつかせる出来事があった。各大会の開会式で作曲を担当する予定だった、ミュージシャンの小山田圭吾さんが、役職を辞任したのだ。
原因は、学生時代に障がいのある同級生をいじめ、過去にそのことを複数の雑誌インタビューで語っていた件だった。
発覚直後から問題化し、この話題は、SNSにおいてすさまじい勢いで炎上した。小山田さんはその後、謝罪したが、焼け石に水、といった状態。最後には楽曲担当を降板する事態になった。
私もニュースでその話題を知り、衝撃を受け、ネットに上がっていた当時の雑誌記事も読んだ。内容は凄惨(せいさん)極まるもので、言葉ひとつ出なかった。またインタビューに対し、そんな過去を反省するどころか、武勇伝かなにかのように嬉々(きき)として語る小山田さんの姿勢にも、戦慄(せんりつ)に似た感覚を覚えた。
知的障害者やその家族らでつくる一般社団法人「全国手をつなぐ育成会連合会」が、問題発覚後にホームページに発表した声明のなかで、「いじめというよりは虐待、あるいは暴行と呼ぶべき所業。許されるものではない」(小山田圭吾氏に関する一連の報道に対する声明)と書いたが、まさにその通りだと思った。
この報に触れた時、私も怒りと悲しみの勢いに任せてSNSに思うところを書き込もうとした。だが、すぐ手が止まった。私にその資格があるのか、と苦みと共に思い出したことがあったからだ。
その理由は、私の養護学校(現・特別支援学校)時代の一風景にある(以下に記すのはあくまで私が在学していた頃の出来事で、昨今の養護学校の現状を書いたものではないことを、あらかじめ強調しておきたい)。
私は小学2年から中学3年までを養護学校で過ごした。通っていたのは主に身体障がいを抱えた生徒だったが、知的、精神的にハンディを抱えていた生徒も後になって増えてきた。リハビリや病気治療を行うための療育訓練センターが学校に併設されていて、生徒たちは朝晩や休日はそこで共同生活をし、日中は学校に通学する、という日々を送っていた。家から通学バスで学校にのみ通う生徒も一部いて、私はその中のひとりだった。
養護学校の生徒たちは、おおまかに二つのグループに分かれていた。一つは私を含めた幼少期、あるいは生来からだにハンディを抱えたグループ。もう一つは軽度の病気治療やリハビリのため、短い期間センターに入所し、学校に通っていたグループだ。ここでは後者の生徒たちを便宜的に「一時的障がい者」と呼称する。
一時的障がい者の生徒たちは、元来、健常者である。治療とリハビリが終われば、元の生活に戻っていくひとたちだ。
当然、彼ら・彼女らは生まれつき障がいがある私たちに比べ、からだの強さや動きの軽さがまるで違った。車いすのスピードも速く、運動会の徒競走は彼らの独壇場だった。プールの授業でも、浮き輪をつけて水に浮かぶのが精一杯の私たちを尻目に、彼らは声を上げつつ水に飛び込み、自由に泳いでいた。
日常生活でほとんど不便なく動き、はしゃぎまわる一時的障がい者たち。その仲間に入れる、生まれつき障がいがある生徒は、どちらかといえば障がいの度合いが軽度とされている場合が多かった。両腕が自由に動かせる私もそのひとりだ。
休み時間、私たちが彼らと体育館で野球やバスケを楽しむ間、重度障がいがある友人たちは、教室や廊下の片隅で静かに遊んでいる。そういう光景が日常だった。重度障がいの友人が仲間に入れてほしい、と頼んできても私たちは拒んだと思う。そんな歪(いびつ)な色分けは、学校内に常にあった。
多様性の許容とも友愛ともかけ離れた学校風景である。だが、これが「まだいい方だった」と思えてしまう時間が、中学進学と共に訪れることになるのを、当時の私は想像すらしていなかった。
中学1年の時、一年先輩の一時的障がい者であるAが入学してきた。
松葉杖をついていたから、股関節系の病気治療のためやってきたのだろう。杖を使ってはいたものの、どこを悪くしたのかと思うくらい、今まで会ってきたどの一時的障がい者と比べてもからだに不自由さがなかった。Tシャツにジーンズという服装(養護学校は服装自由だった)にリーゼントの髪型。尾崎豊を意識したような姿は入学当初から皆の目を引いた。
はじめの頃、Aはあまり目立つ行動をしなかった。中学の全クラス合同で行うことが多かった体育や音楽でやる気のない態度を取り、先生から注意されていたくらいだ。
だがほどなく、彼の言動は目に見えて横暴なものになっていった。自分よりも強い存在が誰もいない、ということに気づいたのかもしれない。要するにいじめ、いや、小山田さんと同じく暴力を振るい始めたのだ。
卑劣、という言葉を使いたくなってしまうが、Aがいじめる生徒たちは皆、生来障がいを抱えている生徒たちばかりだった。自分と同じ一時的障がい者の生徒には手を出さない。確実に自分より「弱い」生徒たちにだけその力を振るった。
私も何度か彼にやられた。ちょっと来い、と言われ恐る恐る近づくと、彼は曲げた人差し指と中指で私の鼻を強く挟み、釘を引き抜くみたいに指を力任せに引き下ろした。その後遺症で、私の鼻は今でもわずかに右側に曲がっている。
Aが特に目をつけていたのが、私と同級生のB君だった。B君はからだの筋肉や関節が硬直する障がいを抱えていた。脚は動くが歩行はできない。手や指も固くなっていて、物を取ったり字を書いたりするのにやや難があった。だが性格は明るく、冗談や妙に大人びた言葉遣いをしては、クラスメイトや先生を笑わせてくれる存在だった。
どうしてAがB君に目をつけたのか。理由は今でもわからない。さしたる理由もなく始まるのが、いじめというものの残酷さなのだろう。
Aは休み時間、ふらりと私たちの教室にやってきては、意味もなくB君の頭をひっぱたき、松葉杖で車いすをがんがん叩いた。すぐそばにいるにも関わらず、私を含めたクラスメイトは何も言えず、止めることもできなかった。笑いもせずにB君を痛めつけるAをひたすら恐れるばかりだった。
Aの松葉杖が片方だけになった時期の、ある昼休み。Aはいつものように教室にやってきた。B君のそばに立つといきなり左脚を振りかざし、格闘技でいうミドルキックをB君の後頭部に命中させた。一度ではなく、二度、三度。B君は顔を歪(ゆが)め、わあ、と何度も叫び声を上げた。
私やクラスメイトは、今までにない激しい暴力を目の当たりにして凍りついた。それまで同様、誰ひとり間に入ることも、止めることもできなかった。ただただ恐怖に固まってしまった。気が済んだらしいAが教室を去っても、B君に声をかけることさえできなかった。B君は顔を真っ赤にし、ぎこちなく頭をさすっていた。
Aが在学していたのはどのくらいの期間だったか。記憶が曖昧(あいまい)だが、一年に満たなかったと思う。学校内を台風のごとく散々荒らし回った末、彼は養護学校から去っていった。生徒が学校を離れるときの恒例行事だった、体育館でのお別れの挨拶があったはずだが、それも記憶にない。自分のなかでAのことなど忘れたい、という拒絶反応が働いたのかもしれない。
B君はその後も、変わることなく以前のB君のままだった。私やクラスメイトもそれまで通りB君と接した。
そうこうしているうちに、私たちも中学を卒業した。B君は養護学校高等部に、私は地元の普通高校に進学して離れたこともあり、卒業後はほとんど会う機会はなかった。ただ年に一度の年賀状交換と、ほそぼそとしたメールのやり取りだけは今も続いている。
B君の年賀状やメールを読むたび、あの頃、B君をかばうことも助けることもできなかった過去を思い出し、胸が苦しくなる。しかし、あのときはごめん、のひと言が、どうしても言えない。
B君に嫌われるのが怖い。嫌な記憶を思い出されるのが辛(つら)い。いろんな理由が頭で回るが、結局は自分が弱くて卑屈でずるいだけ。思うところはあるかもしれないのに、口にせずにいてくれるB君に甘えているだけ。私はAに暴力を振るわれていたB君をただ見ているだけ、という形でいじめに加担していた。
いくら言い訳してもB君を助けられず、Aを止められなかったのだから、それはいじめの加害者であることとイコールだ。私は、そう思っている。
以上、私が養護学校時代に経験した「障がい者いじめ」についてつづってきた。振り返って思うのは当時、少なくとも私がいた頃の学校では、障がい者や健常者に限りなく近い生徒が障がい者をいじめ、仲間外れにする、という冷酷な現実があったことだ。
生来障がいがある子どもたちの中に、一時的障がい者、つまり元来健常者である人々がいきなりやってきた。インクルーシブ教育等の言葉もなかった時代だから、彼ら・彼女らには養護学校や障がい者という世界がどんなものかの説明や、合理的配慮に関する指導がなかったのかもしれない。もちろん、彼ら・彼女らの大多数はそんな説明がなくても、いじめをはたらくことはなかった。
だが指導不足の穴をくぐるようにAが現れてしまい、彼のいじめに、生来の障がい当事者も「傍観」というかたちで加わった。
小山田さんの一件を受け、全国自立生活センター協議会が出した声明には、こんな一節がある。
「ただ『同じ場所で共に過ごす』ことに重きを置かれ、何もサポートがないままに教室で過ごしているという状況の学校は、過去には『投げ捨て』(ダンピング)という言葉で批判されています」(小山田圭吾氏の「障害者いじめ」問題から見る、日本におけるインクルーシブ教育の課題に対する声明)
まさに、私が在学していた当時の養護学校の様相そのままである。昔のことと思っていたら、そのような状況の学校は今でも多く見られるとも声明にあり、愕然(がくぜん)とした。今もどこかに小山田さんやA、B君、そして私がいるのだ。
この現状を、また小山田さん問題の経緯をどう捉え、対応すべきか。私のつたない思考では明確な結論が出せそうにない。そのため今回はひとつの思考材料として、私が「加害者」としても「被害者」としても経験した「障がい者いじめ」の現場についてつづることしかできなかった。
身近で誰かが加害されているのを止められず、あるいはその「傍観者」となったことを、悔やんでいる人も少なくないだろう。この文章は、そうした方々を責めるためのものではない。他者の心身を傷つける、「いじめ」と呼ばれる明確な暴力行為の本質について自分自身が考えたいと思い、私の経験を振り返った次第だ。このことは、断っておきたい。
その上で、少しだけ付け加えるならば、小山田さんが今回辞退の判断を下した一番の理由は、障がい者団体から公的な声明、非難文が出されたからでは、恐らくないと思う。きっとネットでのすさまじい炎上こそが、引き金になったのだろう。炎上がなかったら辞退することも、障がい者いじめの過去を思い出すことも、悔恨することもなかったはずだと推測している。それが無念でならない。
今、Aは小山田さんの件に触れ、どう感じているだろう。自分も昔、障がい者に対して凄惨ないじめをはたらき、暴力を振るったと思い出しているだろうか。後悔の念がわいているだろうか。
ひとのことを言えた身分ではない。この文章を書き終え、気持ちが落ち着いたらB君にメールをするつもりでいる。
あの頃、助けられなくてごめん。
結果的にいじめてしまってごめん。
謝るのが今さらになってしまって本当にごめんなさい、と。
許されても許されなくても、あの時の弱い自分が起こしたことは、私が一生背負っていかねばならない「罪」だ。いま、改めてそう考えている。
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