話題
「聖なる五輪」破るきっかけに 応援しながら考えたい〝五輪の疑問〟
国じゃなく「自分のため」声あげる選手たち
話題
国じゃなく「自分のため」声あげる選手たち
東京五輪では、選手たちの活躍が続いています。自国開催ということもあり、テレビにかじりつき、声援を送ることもしばしばです。始まってみると普通に盛り上がっているように見える五輪ですが、スポーツとジェンダー・セクシュアリティが専門で関西大学文学部准教授の井谷聡子さんは「コロナの前から、五輪自体を疑問視していた」と、厳しく指摘します。〝復興〟や〝多様性〟を「都合よく使っていないでしょうか」と投げかける井谷さん。選手の素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられている今だからこそ考えたい〝五輪の疑問〟。そして、そんな中で生まれた〝変化の兆し〟について、井谷さんに聞きました。
井谷聡子(いたに・さとこ)
――今、選手の活躍で盛り上がっている五輪ですが、コロナ禍の五輪開催に批判も出ていました。
パンデミックの中で国際的なスポーツ大会は、人流の面などで明らかにリスクがあり、バブル方式も不十分と専門家が指摘していました。開催中に感染も急拡大し、日本に暮らす人はもちろん、大会関係者の安全も守れなかった。ただコロナの前から、私は五輪自体を疑問視しています。
――五輪自体への疑問というのは?
何よりまず、「平和の祭典」や国際理解を掲げている点です。東京五輪でも「多様性と調和」を掲げているように、IOC(国際オリンピック協会)は、ここ数十年の間に意識的に活用しています。しかしこれは、五輪を批判できなくするよう作り上げられたものだと考えています。
――「多様性」は五輪の重要な要素です。大坂なおみ選手を聖火の最終ランナーに選ぶなど、実際に行動に移しているように見えます。
女性を蔑視した発言が問題視された森喜朗元首相を厚遇する動きもあるように、女性差別の問題も軽視されたままです。それに、いまだに日本では性的少数派や在日コリアンへのヘイトもやみません。技能実習生の待遇や、難民を承認しない問題もあります。五輪を機に改善しているでしょうか。「復興五輪」もそうですが、問題を都合よく使っていないでしょうか。
――それでも言わないよりはいいのでは?
元々のルーツやその後の歴史をたどれば、五輪が多様性の尊重に前向きではないことがわかります。近代五輪の基礎を築いたクーベルタン男爵は当初「女性は大会に入れるべきでない」と主張しました。
その後「女性らしい」とされた競技は認められたものの、陸上などの種目で排除された女性たちは、1922年に「女子オリンピック」を開催します。それに対し、IOCは「オリンピックという名称は使うな」と言ったのです。82年に性的少数者たちの「ゲイオリンピック」も開催されましたが、これも同様の圧力を受け今は「ゲイゲームズ」になっています。
クーベルタンの理想は、古代オリンピアンをイメージした、白人男性の雄々しい肉体を神々に見立てた競技大会なのです。
――東京五輪の招致が決まった時は多くの人が歓喜していました。
招致に前向きな国には思惑があります。政権側が、それまでに悪化した評判をスポーツのメガイベントで洗い流す「スポーツウォッシング」や、支持率向上を図る政権浮揚です。これは特に強権的な国によく見られる傾向です。財政負担などの側面から、これまで、トロントや名古屋など各国で反対運動が起きましたし、76年に開催が決まっていた米コロラド州のデンバーでは、住民投票の末に返上が決まりました。
――「五輪の選手の姿に感動や勇気をもらえる」という声も多くあります。
メディアや企業がリソースを大規模に投じるのですから、特別なものに感じるでしょう。冷戦以降、東西が国力を示すために五輪を巨大化させ、84年のロサンゼルス五輪でスポンサーが大規模に参入する商業化が始まりました。
さらに、大会の随所に「儀式」を入れ込む演出もあり、五輪を「聖なるもの」とし、批判をタブー視する雰囲気があります。住民投票などで開催が危うくなると、たびたびIOCは「スポーツと政治は切り離すべき」と「介入」します。ただ、東京五輪でわかったように、開催国が(開催の可否を)判断できない現実もあり、政治と切り離せるものではありません。
開催国はIOCと契約を結ぶため、特別法を制定します。大会成功のためには人権無視なども許されるというスポーツ例外主義のもと、日本でも代々木公園の樹木を伐採したり、明治神宮外苑の高さ制限を大幅に緩めて国立競技場をつくったりするなど、街を開発しました。大会期間は公道もフェンスなどで封鎖され、それによって排除される貧困者やホームレスたちがいます。これは、リオデジャネイロ五輪の際、国がスラム街を一掃しようとした話とつながります。
――東京五輪は、五輪そのものを考える機会にもなったのでしょうか。
私は二つのことが言えるのではないかと思います。
第一に、これまで黙っていた選手たちが次々と声をあげていることです。米テニスのセリーナ・ウィリアムズ選手は「娘を連れて行けないなら」と出場を辞退し、同体操のシモーン・バイルス選手は「精神的ストレス」を理由に出場競技を途中棄権しました。選手が「国のため」ではなく、自分のために考えた結論でしょう。
第二に、SNSなどを通じてつながった五輪反対の声が、全国で広がったことです。批判が共有されたのは、「聖なるもの」としてタブー視されなくなったからでしょう。
IOCは開催国がなければ何もできません。人々の心が五輪から徐々に離れつつあるなか、そのあり方がどう変わるのか、注目していきたいです。
1/21枚