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お金と仕事

高校で挫折、社会人でも挫折 トップリーグ元選手が社長になるまで

「自分は通用しない」が出発点に

元ラグビートップリーグチームのNEC「グリーンロケッツ」選手の西田創さん=本人提供
元ラグビートップリーグチームのNEC「グリーンロケッツ」選手の西田創さん=本人提供

目次

夜、練習後にひとり、ラグビーグラウンドで大の字になり涙を流した――。ラグビートップリーグ選手を引退後、組織コンサルティング会社に転職した西田創さん(38)の原点は「挫折」だったと言います。経験則を元にした指導の限界を痛感。所属の大手企業を退職し、マネジメントを学ぶ道を選びました。今年5月、バスケットボールリーグ「B.LEAGUE」チームの社長に就任した西田さんのセカンドキャリアを聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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西田創(にしだ・つくる)
1983年4月、福岡県生まれ。中学1年生でラグビーをはじめ、東福岡高校時代に全国大会で準優勝をする。立教大学社会学部に進学し、4年次にラグビー部主将を務める。大学卒業後、2006年にNECに就職。16年までラグビー部「グリーンロケッツ」に所属するかたわら、母校の立教大学ラグビー部でコーチを務める。引退後、16年から20年まで同校のヘッドコーチに就任。19年に組織コンサルティング会社の識学に転職し、2020年に同社の子会社「福島スポーツエンタテイメント」が経営するバスケットボールリーグ「B.LEAGUE」の福島ファイヤーボンズの副社長に、2021年5月には社長に就任。
 

高校で感じた「自分は通用しない」

<中学時代、九州選抜に選ばれた。高校でも楽しくラグビーができると思っていた>

小学生時代はサッカーをしていたのですが、進学した中学校ではサッカー部がありませんでした。父からの勧めでラグビー部に入部。そこからラグビーにのめり込んでいきました。

中学3年の時には九州選抜になり、自分は「できる方」と思っていましたね。卒業後、進学したのは県内のラグビー強豪校、東福岡高校です。入部後すぐ、「ここは別次元だ」と衝撃を受けました。レベルに応じたチーム分けでは、5チーム中、最下位のチームに。レギュラーにはもちろんのこと、いつ試合に出場できるかもわからない状態からのスタートでした。

中学時代の自信は、砕け散ったのは言うまでもありません。人並み以上には足は速かったけれど、飛び抜けて早いわけではなく、パスは右と左と両方同じように投げることができない……。「自分は通用しない」。高校1年で体験した初めての挫折でした。そこから、練習後にひとりグラウンドに残り、練習具やネットに向かってパスの練習を始めました。

どれだけ練習しても上手くならない現実、そして、あまりのできなさに溢れる涙。グラウンドの上に大の字になり、夜空の星を眺めながら絶望感を味わいました。

初めてライバルとして認識される

<高3で到来したチャンス。初出場の試合で成果を出し、レギュラーの地位をつかみ取った>

でも、どれだけ苦しくともラグビーをやめようとは思いませんでした。私は5人兄弟の3番目。夢中でラグビーに励む弟の姿を見た兄と姉は、経済的な面を考慮し、就職の道を選びました。本当は大学進学や、自分のやりたいこともあったと思うのですが、弟のやりたいことを優先してくれました。支えてくれる兄弟、そして両親のためにも、私はラグビーをあきらめる訳にはいきませんでした。

転機が訪れたのは、高3になってからのこと。パスの上達の手応えを感じ始めた時、周りからも「めっちゃうまくなったね」と言われるようになりました。同じスクラムハーフのポジションだった同級生たちからも、少しずつ「ライバル」として認識され始めたように感じていました。

お互いバチバチし合って、遜色なく競えて、自分のことを認めてくれる――。その感覚が、さらなるモチベーションの高まりへとつながりました。

そして、2001年の花園(第81回全国高等学校ラグビーフットボール大会)では2回戦の後半から出場し、これまでの積み重ねを全て出し切るべく夢中でプレーをしました。その結果、「いいね」という評価につながり、次の試合からはレギュラーとして出場することになったんです。

私たちは勝ち進み、3回戦に家族が福岡から見に来てくれることになっていました。家族には試合に出ることを伝えていなかったので、スターティングメンバー発表の際に「西田創」の名前が会場に響き、とても驚いたと言ってくれました。

準決勝の試合で私はトライも奪いました。その試合にも応援に来てくれていた兄弟から、「お父さんが声を枯らして応援していたよ」と聞いた時は、胸が詰まりました。

結果、決勝戦まで進むも敗退。準優勝止まりでしたが、私にとっては3年間の努力が報われた経験となりました。

高校時代の挫折、そして「努力をし、それを続けること」の大切さを身に沁みて感じたことが、その後の人生に大いに役立つことになります。

現役時代の西田さん=本人提供
現役時代の西田さん=本人提供

ラグビーを構成する要素を「分解」

<高校時代、誰より下手だったが、大学時代は立場が逆転。どうやったら勝てるのか苦悩した>

大学進学は、ラグビー推薦枠には入れず、指定校推薦で立教大学に決まりました。当時、東福岡高校ラグビー部から立教大学ラグビー部へ行った人はいなかったため、「パイプ役」になれることもうれしく思っていました。上京し、いざ、ラグビー部に入部。その時受けた「衝撃」は、高校時代とは真逆でした。

「とにかく弱い」。高校では誰よりも下手だったのに、大学では、入部してすぐに「誰よりレベルが高い」存在になりました。部全体の意識は低く、「本当は勝ちたいけど、ゆるくラグビーをするのが自分たち流」。そんな雰囲気を感じました。

それが嫌で仕方なかったのですが、ここでラグビーをあきらめるのも納得がいかない。どうやったら勝てるようになるのか、どうやってこのチームを導いていったらいいのか……。

その結果、私はこれまでの経験から培った自分の「常識」をぶつけていくことになります。勝ちに貪欲になり、周りに対して厳しく当たった結果、新入部員の半分は脱落していきました。当時は、個人に寄り添うほどの余裕がなく、チームとしてどう動いたら強くなるかばかりを考えていました。

先輩たちからしたら、けむたい存在だったと思います。その一方で、「こいつが言っていることをしたら、何か変わるかもしれない」と思った人もいたかもしれません。

大学時代、目標設定したことが二つあります。一つは、「(関東の大学リーグ1部の)Aグループで勝つ」、もう一つは「立教大初のラグビートップリーグ選手になる」です。

大学4年時に主将を任された時、取り組んだことは「ラグビーの分解」でした。戦術面、トレーニング面、栄養面など、ラグビーを構成する要素を細かく分け、各担当のリーダを配置。週1度、学びや今後の目標をプレゼンしてもらうようにしました。

チームを強くすることに、真剣に取り込んできた西田さん。「人の目は気になるし、批判されれば傷つきます。元々感情的で、涙もろいんです」という一面も=本人提供
チームを強くすることに、真剣に取り込んできた西田さん。「人の目は気になるし、批判されれば傷つきます。元々感情的で、涙もろいんです」という一面も=本人提供

「日本代表入り」をあきらめた時

<念願のトップリーグ選手の夢を叶えた。経験値の低さを、自身の強みを伸ばすことで補った>

その結果、チームの意識が変化しました。3年と4年次には、1部リーグでも勝利を収めることができるようになりました。就職活動では、社会人ラグビーのトップリーグに所属する、NECから内定をもらいました。苦渋をなめた4年間でしたが、自分で設定した二つの目標を達成し、卒業することができました。

入社当時、「NECグリーンロケッツ」は、4期連続「日本一」を獲得する強豪チームでした。何不自由なくラグビーができる環境に、勝つことへの努力を惜しまない選手たち。私が待ち望んでいたものでした。

でも、実際にプレーをして痛感したのは「経験の無さ」です。周りは、大学時代に勝ち続けていたり、日本代表入りを経験していたりする猛者たち。「立教大」の知名度はラグビーにおいてはゼロで、自分のキャリアに引け目を感じてしまうこともありました。

それでも自分の強みであるランニング力、パスのスキルをアピールし、2年目にスタメンとして試合に出場。さらに自身の能力を高めるべく、タックルに磨きをかけ一定の評価を得ましたが、その代償として、怪我が増え、引退までに肩の手術を4回しました。

選手である以上、日本代表になることも夢でした。でも、「もうダメだな」と思ったのは、怪我で欠場した試合で、後輩が活躍しているのを見ても、悔しいと思わなかった時。若手選手たちを、ライバルとして認識していないことに気づきました。

怪我の影響もあり、2016年に現役引退をしました。10年間、念願のトップリーグでプレーし、通算51試合に出場することができ、そして自ら引退の時期を決めることができたことはありがたいことだったと感じています。

立教大ラグビー部ヘッドコーチ時代の西田創さん(写真右)と主将の津田祥平さん=2019年8月24日、長野県・菅平
立教大ラグビー部ヘッドコーチ時代の西田創さん(写真右)と主将の津田祥平さん=2019年8月24日、長野県・菅平

「経験則」だけでは勝てない

<母校の成績の低迷。指導者としてラグビーに再び関わった動機は「立教をどうにかしたい」だった>

引退後、所属するNECで与えられた仕事を全力で全うしようと決めていました。仕事はやりがいがあり、充実した日々を送っていました。そんな中、母校の立教大学ラグビーがBグループ(2部)に降格。成績が低迷しているため、コーチをしてほしいとの依頼が舞い込みました。

母校に行って思ったのは「戦う集団になっていない」。部内の規律が緩くなり、新4年生は「降格」の現実に打ちのめされていました。そこで、「週末コーチ」として指導に当たることを決めました。

最初は「元トップリーグ選手」という肩書きもあり、何を言っても学生に響く手応えを感じていました。でも、1年目は昇格できず、2年目も1トライ差で虚しく2部残留に……。この時わかったことは、自分の経験を元にした「経験則」だけでは勝てないということ。

本格的にマネジメントを学びたいと考え、申し込んだのは、組織コンサルティング会社「識学」のセミナーでした。泣いて卒業していく4年生の姿を見るのがつらかったのと同時に、そうさせている原因はコーチのせいだと思いました。「教えたい」マインドではなく、「立教をどうにかしたい」、そういう気持ちでした。

この申し込みがきっかけで、私は識学に転職することになります。NECは大企業ですし、仕事の環境もよかった。それでも、マネジメントの道を選ぶことにしました。

転職の際はラグビーでの学びや、これからマネジメントを本気で学び、チーム作りに生かしたいことを伝え、採用に至りました。社長の計らいもあり、土日に加えて平日の1日、学んだマネジメントスキルの実践の場として、ラグビーコーチの活動ができる許可をもらいました。

指導の時間が増えたこともあり、立教大ラグビー部は変わっていきました。強豪の早稲田大との定期戦で56年ぶりに、明治大との定期戦は51年ぶりに勝つことができました。相手は1軍メンバーではありませんでしたが、「早稲田大・明治大に勝った」事実が、チームの自信につながりました。

そして、2019年には5年ぶりに1部リーグへ昇格、2020年には強豪の青山学院大学にも勝つことができました。これは私が学生で主将を務めた時以来、15年ぶりの勝利になりました。5年間、ヘッドコーチとして関わり、チームの立て直しにも貢献できたことで、次世代指導者へのバトンタッチと、他の世界にチャレンジしたい思いもあり、コーチを辞任しました。

1部昇格が決まった時の立教ラグビー部。後方、左から4番目が西田さん=本人提供
1部昇格が決まった時の立教ラグビー部。後方、左から4番目が西田さん=本人提供

転職先で味わった2度目の挫折

<マネジメントを本気で学ぶために選んだ転職。再び「大の字」になった時に、思い出したこと>

識学に転職し、ラグビー部ヘッドコーチとしての成果を上げることができました。その一方、本業の方では、2度目の「挫折」を味わいました。それは、周りとの圧倒的な知識量の差でした。学生時代、勉強もある程度してきました。それでも、全くかなわない。打ちのめされ、部屋の中でひとり、仰向けになり天井を見上げた時……高校時代、夜のグラウンドで大の字になった時のことが想起されました。

あの時、がむしゃらに練習をしたように、勉強をしよう。そう思い直し、コーチ業をしながら1日に8時間勉強する日々を70日間ほど続け、社内の講師の資格試験に当時の最短期間で合格することができました。識学でのキャリアも挫折から始まりましたが、学生時代に経験していたからこそ、突き進めたと感じています。

2020年には、識学がオーナーを務めるバスケットボールのB.LEAGUE「福島ファイヤーボンズ」の副社長に任命され、2021年の5月からは社長に就任しました。コロナ禍で、スポーツ観戦は苦境を強いられていますが、経営責任を全うすべく、日々奮闘しています。

このご時世のため、経営不振となる企業が多く、スポンサー企業が離れていってしまったこともありました。でも、「ファイヤーボンズ」は福島の復興を後押しする重要な役割を担っています。「応援してください」ではなく、「いっしょに歩んでいきましょう」とメッセージを発信し続けたところ、共感をしてくださる企業が徐々に増え、現在のスポンサー数は前年比増となっています。

私たちは、「復興のシンボルになる」という強い使命感を持っています。私が社長になったのは、「ファイヤーボンズ」のさらなる変化が期待されているからだと認識しています。

「私の仕事は“誇れる福島”をつくること。ファイヤーボンズが福島のシンボル、福島の光になっていきたいと思います」(西田さん)=本人提供
「私の仕事は“誇れる福島”をつくること。ファイヤーボンズが福島のシンボル、福島の光になっていきたいと思います」(西田さん)=本人提供

信念を持って、プライドを捨てる

<競技自体はビジネスに生きないが、競技での学びは生きる。若手に伝えたい二つのメッセージ>

高校時代の挫折から、目標を決めたら成果を実感するまでやり続けること、大学ラグビー部の立て直しから、人の力を生かすこととチームを育てることのよろこびを体感しました。

組織はトップが変わらないと、なかなか変化しないものです。競技は違えども、今度はバスケットボールを通して、チームを、そして福島を変えていきたいと強く思います。

若手アスリートに伝えたいことは二つ。一つは、スポーツそのものがビジネスに生きることはなかなかないけど、スポーツを通しての学びは必ず生きるということ。

もう一つは、信念を持って、プライドを捨てること。信念とプライドは似て非なるものです。プライドは傷つきますが、信念は簡単には傷つきません。これまでの経験を元にした自らの信念はしっかりと持ちながら、余計なプライドは捨て、謙虚さを大切にしていってください。

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