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コロナで意識…「死の恐怖」どこから? 哲学者たちの言葉から考えた

「そもそも、生まれたことが偶然」

新型コロナウイルス感染が疑われる遺体の入った棺が消毒された=2020年5月7日、東京都板橋区、藤原伸雄撮影
新型コロナウイルス感染が疑われる遺体の入った棺が消毒された=2020年5月7日、東京都板橋区、藤原伸雄撮影
出典: 朝日新聞

目次

【眠れぬ夜の死の話#1】
新型コロナウイルスによって、普段、考える機会が少ない「死」を人々は意識するようになりました。外出自粛や、不便なマスク生活なども死にたくない、死が怖いから、その変化を受けて入れているといえます。では、なぜ、人はなぜ死を恐れるのでしょうか。その根本的な問いについて、評論家で著述家の真鍋厚さんが「そもそも生まれたことが偶然」という視点から考えます。

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「ずっと無意識でゼロで」いる恐怖

なぜ死は恐ろしいのか。
これは端的な疑問ではある。
筆者が初めて死の恐怖に襲われたのは小学校3年生になったばかりの頃だった。誰もが死を免れない、そして二度と生き返ることはないという事実におののき、家族の前で半狂乱になって「みんな死んでしまう!」と嗚咽したのである。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、何もかも終わったかのような巨大な虚無感に圧倒されていた。

母親は息子の突然の錯乱に呆れ返りながらも夕食の準備を進め、テレビからはバラエティ番組の笑い声が聞こえていたのを今でも鮮明に覚えている。以後、同様の恐慌状態が発作のように繰り返されたが、身近に理解者もいなかったため公然と話すことはなくなった。

中学生になってふと目にしたある小説の一節に、自分が感じた死の恐怖にかなり近いことが書かれていて驚いた。

死の恐怖だ、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたびに胸がむかついて吐いてしまうのだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に! おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたびに恐怖に気絶しそうだ。
大江健三郎「セヴンティーン」、『性的人間』〈新潮文庫〉所収

死の恐怖といえば、一般的にその前後のプロセスで起こる事象について語っているものが多い。臨終の苦しみや死後残される人々への心配等々……。

しかし、大江がただならぬ筆致で描写した17歳の少年の死の恐怖は、「ずっと無意識でゼロで」いなければならないこと、つまりは「経験する主体の消滅」にこそあった。

もはや何かを見たり、聞いたり、触れたり、食べたり、嗅いだり、思い出したりすることができない。経験そのものの断絶であり、すべてが無になるというわけだ。幼少時代の筆者を度々の襲った恐怖もこれに近かった。死の向こう側が「何もない虚無」だと確信し始めると、周囲から音という音が遠のき、全身に鳥肌が立ち、茫然自失となった。

かつて評論家の宮崎哲弥は、幼児期に出現した死の恐怖について振り返り、「他の人々が思っている『死の恐怖』と、自分が考えている『死の恐怖』が恐ろしく違っている」ことへの焦燥があったと述べている。「なるほど病苦や疼痛も確かに嫌だけど、その苦痛を感じている感覚や意識そのものの消滅は、それ以上に恐るべきことではないのだろうか」と(『憂国の方程式 日本、愛さぬでもなし』PHP研究所)。

感染症専用遺体安置室では棺のふたを開けて故人を見送れる。実際には防護服を身につける必要がある=2020年4月28日午前9時27分、函館市桔梗3丁目の亀田葬儀社、三木一哉撮影
感染症専用遺体安置室では棺のふたを開けて故人を見送れる。実際には防護服を身につける必要がある=2020年4月28日午前9時27分、函館市桔梗3丁目の亀田葬儀社、三木一哉撮影
出典: 朝日新聞

でも、本当に恐れているのは…

ここで少し補足をさせてもらうと、先の小説における「死後の無限の時間の進行」は、わたしたちが初等教育から馴染んでいる科学的世界観に立脚した場合、初歩的な誤りであることに気付く。

哲学者のシェリー・ケーガンが「魂など存在しない。私たちは機械にすぎない」「機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない」(『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』柴田裕之訳、文響社)と記述したように、
そもそも経験する主体がなければ「時間の進行」も観察しようがないからである。

知らず知らずのうちに自らの死後を見守り続ける霊魂のごとき視座があることを前提に想像を膨らませてしまっているといえる。いみじくも哲学者の中島義道が指摘しているように、「永遠に『無』というかたちであり続けるのではない。私はただひたすら『無』なのだ」(『生きにくい… 私は哲学病。』角川文庫)。

古代ギリシアの賢人エピクロスが明言したように、確かに死が訪れた際にわたしたちはすべての感覚が失われるのだから、恐れを感じるということ自体も問題にならなくなるといえる。

しかしながら、宮崎氏が挙げた「感覚や意識そのものの消滅」を思い描くことによるおぞましさは、生きている限りほとんど逃れようがない試練のようにも思える。熟睡や失神は、後からいくらでも自分が「無」であったことを確かめることができるが、死はそうではない。それを中島義道は「無である状態自体が恐ろしいのではない。無を無としてあとから永遠に承認できない状態が恐ろしいのである」と表現した(『狂人三歩手前』新潮社)。

ソーシャルメディアをはじめとするネット上のコミュニティでは、「無になること」の恐怖について老若男女問わず、語り合う光景が度々みられる。そして、少なくない人々が大人になった後もパニックに見舞われることがあると嘆く。タナトフォビア(thanatophobia=死恐怖症)という単語は、そういった心性に与えられた名称の一つだ。

とはいえ、見方を変えれば、ここにおける死の恐怖は、生の不条理の反映ともいえる。要するに、わたしたちの存在そのものが特定の意味やロジックでは捉え切れないものであることを示している。

新型コロナウイルス感染が疑われる遺体の入った棺を冷蔵安置室から出し、消毒する「たかほう葬祭」の従業員ら=2020年5月7日、東京都板橋区、藤原伸雄撮影
新型コロナウイルス感染が疑われる遺体の入った棺を冷蔵安置室から出し、消毒する「たかほう葬祭」の従業員ら=2020年5月7日、東京都板橋区、藤原伸雄撮影
出典: 朝日新聞

コスパではかれない生命現象

前出のケーガンは、死が悪いと思われている理由を、生きていたら享受できる良きことを奪われるからという「剝奪説」で説明する一方で、「だが、そうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。実際には不死は災いであり、恵みではない」。あるいは「いずれ私たちが死ぬのはじつは良いことで、なぜならそれは、私たちが不死に直面しなくても済むことを保証するからだ」などと主張した(前掲書)。

有限の生に無限の生を対置して、前者に軍配を上げる方式である。

だが、わたしたちの生死そのものを良い/悪いといった価値判断に落とし込もうとすることもそうなのだが、有限と無限に分かつ二元論において見極めようとすること自体に無理があるだろう。

「蚊柱」と呼ばれるユスリカの大群が何のために存在しているのかを問うことがナンセンスなように、生命現象はコストパフォーマンス(費用対効果)などといった世俗的な尺度を超越してしまっている。

意味を見い出すことに血道を上げるのは人間の性だが、精神科医のヴィクトール・フランクルの言葉を借りれば、「意味の全体がもはや捉えきれないほど、『世界は超意味をもつ』〔世界は意味を超えている〕としかいえないほど意味がある」と主張することもできる(『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳、春秋社)。

出生を考えてみればいい。自分の意志で受精卵から細胞分裂して産まれたわけではない。たまたまこの世に出現した過ぎない。いや、たまたま強制的に出現させられたと言った方が適切かもしれない。それは考えれば考えるほど衝撃的な出来事である。この偶発性には言語を絶した深遠が横たわっている。

「死を怖れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにしかすぎない」と言ったのは作家のエミール・シオランだが、存在してしまうことの暴力性をわたしたちは物心がつくまでにすっかり忘れてしまっているだけなのかもれない(『生誕の災厄』出口裕弘訳、紀伊國屋書店)。これは精神分析医のオットー・ランクが唱えていた「出生外傷」ではなく、生存そのものの不条理――「無くなること」ではなく「有ること自体」――に由来する恐怖である。

葬儀のライブ配信のテスト。タブレット端末で撮影し、動画を配信する=前橋市(画像の一部にモザイクをかけています)
葬儀のライブ配信のテスト。タブレット端末で撮影し、動画を配信する=前橋市(画像の一部にモザイクをかけています)
出典: 朝日新聞

人生を奇跡に変えるエッセンス

生存についてシオランは、「それはせいぜいのところ偶発事、私たち各人が徐々に宿命に変えてゆく偶発事である」と述べ、「原初の無意味さ」と向き合うことによる効用を詳らかにしている。

私たちは生存をその発端の状態に、その原初の無意味さに連れ戻すべきであろう。それには奇跡にも似た努力が必要であろう。この努力を惜しまぬ者は、奴隷ではなくなるだろう。彼はおのが日々の主人となり、おのれの判断で日々の連続を断ち切るだろう。彼の生存は彼の思いのままとなるだろう。ということは、生存がその出発点に、その真の地位に、まさに偶発事の地位に達したということにほかならない。
エミール・シオラン『悪しき造物主』金井裕訳、法政大学出版局

偶発事の地位とは、先の「たまたま」と同じことだ。その発生の本質的な部分においてヒトとユスリカに大した違いはない。

だが、わたしたちは社会システムの中にどっぷりと浸かっているうちにその偶発性を必然性に読み替え、自分の生存を当たり前のものとして絶対化していく(そうとでも考えなければ絶えず自己を正当化しなければならない生存競争のジャングルで精神的に淘汰されるからだが)。

感染症で亡くなった人のための専用遺体安置室=2020年4月28日午前9時30分、函館市桔梗3丁目の亀田葬儀社、三木一哉撮影
感染症で亡くなった人のための専用遺体安置室=2020年4月28日午前9時30分、函館市桔梗3丁目の亀田葬儀社、三木一哉撮影 出典: 朝日新聞

そうすると、その先にある死によって肉体がなくなる身体の衰退に伴う不自由や死滅は、生存の絶対化を握り潰すために問答無用で参加させられる地獄行きのツアーでしかなくなるだろう。

けれども、シオランが重ねて指摘したように、生きていること自体が「たまたま」だと心の底から納得することができるなら、つらいことや苦しいことに無理に意味を探そうとしてしまう生真面目な思考からいくらかは救われる可能性が生まれる。

なぜなら、厳密に検討すれば、わたしたちが生きていること自体がありそうもない事態としてリアリティを感じられる可能性が生まれるからだ。つまり「なかった」ものが「ある」ことの驚異である。自分の命がそもそも「たまたま」生まれたことだったことを忘れてしまうと、失った時に「なくなる」ことばかりに固執するようになってしまう。

死への恐怖が、所詮、「たまたま」生まれただけだという「生前の無」を覆い隠すため、「死後の無」という概念を作りだした心理的防衛にすぎないのだとしたら……生まれないことと生まれることが紙一重でしかないという自らの存在の「なさ」を柔軟に受け止めることができるのかもしれない。

もちろんケーガンのような無限の生と有限の生を比較することは、仮定の議論としてそれはそれで面白味のあるものだろう。

しかし、「死の恐怖」の絶望的な深淵のさらに先に目を凝らすことによって開かれるかもしれない、わたしたちの生死が偶然の産物であるという驚きをうっかり見過ごすことになりかねない。

そこにこそわたしたちの人生を奇跡に変えるエッセンスが詰まっているはずなのだが。

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