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連載

#69 #となりの外国人

「わたし、ホームレスよ」片手には薬の袋 死後に届いた在留カード

「もっと日本語を勉強したいから、病院に漢字の練習帳を送ってほしい。まだやりたいことがいっぱいあるの」

お気に入りの黄色いワンピースを着た、カメルーン出身のレリンディス・マイイケさん=マイさんの友人提供
お気に入りの黄色いワンピースを着た、カメルーン出身のレリンディス・マイイケさん=マイさんの友人提供

目次

「日本語をもっと勉強したいから、漢字の練習帳を送ってほしい」。来日17年のカメルーン人女性が病床で、そんなLINEメッセージを残し、今年1月に末期がんで他界しました。ホームレスになったり、入管施設に収容されたりしながらも、多くの人に愛され支えられた彼女の人生をたどりました。

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教会仲間にも語らなかった来日の経緯

「カメルーン料理作ってきたよ。みんな、いっぱい食べてね」

2016年夏。カメルーン出身のレリンディス・マイイケさん(42)は教会仲間の家で、小皿に鶏肉煮込みを取り分けました。
よくランチに同席していた牧師の阿部頼義さん(39)は「みんなとはしゃぐ無邪気な面もありつつ、どうすれば友人が喜ぶか考える、心優しい女性でした」と振り返ります。

日本で知り合いが少ないマイさんにとって、教会のコミュニティーは、数少ない、心を開ける場所でした。阿部さんは「同じクリスチャン同士で、母語の英語を話せる人もいる。英語と日本語の両方を使って、楽しく交流していた」と話します。

一方で、マイさんは当初、教会内でも、来日の経緯について詳しく語ろうとしませんでした。

そして、マイさんが教会に参加し始めて数カ月。毎週水曜のランチ会に、姿を見せない日が続きました。

「マイちゃんが捕まって施設に入れられてしまったらしい」

仲間の間で、そんな情報が共有されましたが、阿部さんは納得がいきませんでした。「あんな良い子がなぜ?何かの間違いでは」

阿部さんは後日、マイさんが収容されたのは、東京出入国在留管理局の施設だったことを聞きました。
そして、マイさんが難民申請中で、オーバーステイだったこと、帰国できない事情があったこと……。阿部さんは、マイさんという友人を通して、遠い存在だった「難民申請中の外国人」について知っていくことになります。

教会の友人たちと、ファミリーレストランで食事をするマイさん(左)=2019年4月26日、マイさんの友人提供
教会の友人たちと、ファミリーレストランで食事をするマイさん(左)=2019年4月26日、マイさんの友人提供

紛争逃れ日本に滞在 難民になれず

マイさんは、カメルーン北西の山間部にある町で、1978年に生まれました。キリスト教カトリックを信仰する一家で、父は地元首長でした。
姪(30)は「本当の姉のように親身になってくれた。みんな、彼女のことが大好きでした」と話します。兄弟姉妹とともによく食事や買い物に出かけました。マイさんが、姪の履き古した靴に気づき、新しい靴をプレゼントしてくれたこともあったそうです。

穏やかな暮らしが暗転したのは、大学生だった26歳のころ。2004年春ごろ、ある地元の男性に結婚を迫られ、トラブルになりました。結婚の申し出を断ると、男性から「結婚の準備費用を賠償しろ」と裁判で訴えられ、暴力も振るわれたそうです。同じころ、父や兄が病死し、身内で土地や財産の相続争いが始まりました。

トラブルが重なって、身の危険を感じたマイさんは2004年7月、日本に住む親族を頼り、短期滞在(15~90日間)の在留資格で来日しました。

その後、カメルーンでは国内紛争が激化し、帰国はますます難しくなりました。カメルーンは、ほとんどがフランス語圏ですが、マイさんの地元は英語圏で、独立運動が広がっていました。2016年以降、政府と独立派組織の武力衝突も起き、民間人も巻き込まれました。国連の推計によると、約68万人の避難民が出ました。
親族や友人は「母国に戻りたい気持ちはあったが、国内紛争や男性とのトラブルを恐れていたのだろう」と語ります。マイさんは、来日前は、難民となることは計画していませんでしたが、帰国できない状況は変わらず、2011年から難民申請を始めました。

カメルーンの言語圏を巡る紛争(2016年~)


 カメルーンは、第一次世界大戦後、フランスとイギリスに統治された歴史があり、現在もフランス語圏と英語圏が分かれている。フランス語圏の住民が多数派を占める中、フランス語圏優遇の政策に、英語圏の住民が不満を持ち続けていた。2016年、英語圏内で仏語圏出身の裁判官が任命されたことがきっかけで、抗議デモや武力衝突が始まった。国際NGOのノルウェー難民評議会は昨年、「世界で最も放置されている難民危機」にカメルーンの紛争を挙げ、警鐘を鳴らしている。

アフリカ大陸の北西部にあるカメルーン。マイさんが生まれたウムという町(赤印)は山間部に位置する
アフリカ大陸の北西部にあるカメルーン。マイさんが生まれたウムという町(赤印)は山間部に位置する 出典:Google map

「1年以上、病院で検査受けられず」

マイさんは来日当初、千葉県内のアパートで親族と一緒に住んでいました。就労資格はなく、親族や友人に頼って生活をしていました。
2011年春にオーバーステイ(超過滞在)が発覚し、茨城県牛久市の入管施設に収容。約1年後に、体調悪化などを理由に施設から一時解放(仮放免)されました。
周囲の勧めで始めた難民申請は、認められず、健康保険を使った診療は受けられませんでした。法務大臣の裁量による在留特別許可も出ず、在留資格がない状態が続きました。

《日本での難民申請》母国の紛争や政情悪化などを理由に、1年で約4,000~20,000人(昨年までの5年間)が申請した。認定されたのは1年で50人に満たない。認定率は0.4~1%ほどで、欧米諸国に比べ、極端に低い。審査では、客観的証拠を重視するあまり、難民だと立証するハードルが高くなりすぎているとも指摘されている。
《日本での難民申請》
母国の紛争や政情悪化などを理由に、1年で約4,000~20,000人(昨年までの5年間)が申請した。認定されたのは1年で50人に満たない。認定率は0.4~1%ほどで、欧米諸国に比べ、極端に低い。審査では、客観的証拠を重視するあまり、難民だと立証するハードルが高くなりすぎているとも指摘されている。 出典:グラフ=難民支援協会のHPより引用
《難民申請中の暮らし》
条約難民として認定されると在留資格と法令の範囲内で権利と公共サービスの利用が認められますが、認定されない場合でも、人道的配慮などによる一定の保護、例えば在留資格と就労許可の付与、国民健康保険などのサービスを受けられるケースも増えています。
一方で、難民申請の結果を待つ間、申請者の一部は適法に働くことができず、一部は生活・住居費など政府による支援を受けざるを得ないでいます。病気の際、まず医療費を自費でまかない、後日、支援機関による払い戻しを待たなければならないという厳しい現状があります。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のHP

マイさんが2回目に入管施設に収容されたのは、2017年のこと。神奈川県内に引っ越し、教会で阿部さんたちと知り合った直後でした。

東京の入管施設で、面会をしてきた支援者によると、マイさんは「お腹と胸が痛い」と職員らに訴えましたが、病院での検査を受けられたのは、1年以上経ってからでした。検査で卵巣の出血が判明し、1年半ぶりに施設から解放されました。

東京出入国在留管理局は、取材に対し、マイさんのケースについては「収容者個人の件には答えられない」とした上で、施設内の医療体制について「日中は医師が常駐しており、体調不良などの訴えがあれば、必ず医師が診療している。その上で、医師が必要と判断すれば、外の病院で検査を受けてもらうこともある」と説明しました。

マイさんは、さらに病院で詳しい検査をしたところ、左胸にステージ3の乳がんが見つかりました。健康保険がないため、医療費は数百万円にのぼり、阿部さんたち支援者は、寄付をかき集めましたが、賄えたのは一部だけ。支払いが見込めない中、病院側には少しずつ返済する約束で、1年半ほど治療が続きました。

後に、がんは脳や骨、肝臓にも転移していることが分かりました。治療の手立てはなくなり、マイさんは昨年11月、退院しました。

聖ヨハネ会桜町病院に入院する当日、牧師の阿部頼義さん(右)らと写真にうつるマイさん(手前)=2020年12月9日、マイさんの友人提供
聖ヨハネ会桜町病院に入院する当日、牧師の阿部頼義さん(右)らと写真にうつるマイさん(手前)=2020年12月9日、マイさんの友人提供

家から閉め出され ホームレスに

退院直後の昨年11月16日夜。マイさんは、神奈川県座間市のコンビニ駐車場に座り込んでいました。
迎えに来た牧師の阿部さんを見上げると、微笑みました。
「わたし、ホームレスよ」
片手に薬の袋、もう片方の手に衣服を詰め込んだ袋がありました。

マイさんは、退院後、家賃滞納が原因で、自宅だったアパートからは閉め出されていました。友人の家やネットカフェなどを渡り歩く生活が、10日間ほど続きました。支援者からの連絡を受け、近所に住む阿部さんが、車で迎えに行くことにしたのです。

その10日後、北里大学病院(相模原市)で、余命3カ月未満の宣告を受けました。

支援者たちの尽力もあり、都内の修道院で過ごした後、昨年末に聖ヨハネ会桜町病院(東京・小金井市)に入院しました。

年が明けて1月中旬、マイさんは、病院から友人の日本人女性にLINEしました。

「もっと日本語を勉強したいから、病院に漢字の練習帳を送ってほしい。まだやりたいことがいっぱいあるの」

入院前に愛用していた練習帳は書き終わったので、また忘れないように勉強したい、とのことでした。お願いされた友人は「余命宣告されていても、彼女なりに、今できることをやろうとしていたのでしょう」と振り返ります。

ベッドには、マイさんの好物のアボカドやグレープフルーツが置かれていました。周囲に「体に良いから、食べて病気を治すんだ」と話し、毎日少しずつ食べていたそうです。

自宅を閉め出されホームレスになったころのマイさん=2020年11月13日、マイさんの友人提供
自宅を閉め出されホームレスになったころのマイさん=2020年11月13日、マイさんの友人提供

死後に届いた在留カード「遅すぎる」

今年1月23日の午前6時ごろ、マイさんは病院のベッドで息を引き取りました。
治療のために1年間の在留資格を認める「在留カード」が届いたのは、その3時間後のことでした。弁護士や支援者たちが、昨年11月からカードの発行を再三要請していました。

病院に駆けつけた阿部さんが、マイさんのほおに触れると、まだ温かさを感じました。目を腫らしながら、祈りを捧げました。
教会の大切な仲間の命が失われた無力感とともに、行政への怒りがこみ上げてきました。

「余命のことも伝えていたのに、在留資格を出すのが遅すぎました。なぜもっと早くできなかったのでしょうか。在留カードを受け取る本人が亡くなった後では、何の意味もない」

もし生前に在留資格が手に入っていれば、健康保険への加入や生活保護の申請ができるようになっていました。
阿部さんは、マイさんや周りの尽力を思うと、無念でなりませんでした。

後日、Facebookでもマイさんを追悼した上で、決意を投稿しました。
「イエス・キリストなら(マイさんのような外国人を)『誰が守る?』と問うのではないかと思います。一人一人の主体性が求められるのではないかと思うのです」
 
そんな思いから、難民申請者などへの医療を支援するボランティア団体「難民医療支援会」を立ち上げました。「行政が変わるには時間がかかる。その間、一人でも多くの命を守れれば」と考えています。
 
マイさんが亡くなった直後に届いた在留カード(一部の個人情報はマスキングしています)
マイさんが亡くなった直後に届いた在留カード(一部の個人情報はマスキングしています)

マイさんが願った明るい未来

今回の取材のきっかけは、昨年末に見た、ある社会福祉士の方のツイートでした。ツイートは、闘病中のマイさんの現状を伝えた上で、次のように書かれていました。

「人が生きていく時、最期を迎える時、医療にかかれること、最低限の生活ができることは、国籍や在留資格の違いや有無で異なってはいけないと思います」

筆者は、支援者の方々と連絡を取り始め、マイさんの窮状にショックを受けました。
難民問題は、筆者にとっても縁遠いテーマでした。しかし、中国人の母を持ち、日本で暮らす外国の方々を取材し続けてきた立場としては、他人事には思えませんでした。

それから1カ月後、マイさんは帰らぬ人となりました。

マイさんや友人たちのFacebookタイムラインは、追悼メッセージでいっぱいになりました。
「大好きなマイ、どうか安らかに。絶対にまた会おうね!」「ずっと忘れないよ。心はいつも一緒だから」

こんなにも多くの人に愛され、見守られていたんだと、驚かされました。

カメルーン在住のマイさんの姉は、筆者にこう語りました。
「日本の皆さんが、1人でも多く、マイのことを覚えてくれたらうれしい。ほかの外国人に会った時に、助けようと思うきっかけになるかもしれないから」

筆者は、取材前、「難民として認められなかった悲劇的なイメージ」ばかりに目を向けていましたが、それは、マイさんのひとつの側面でしかないことに、気づかされました。マイさんは、1人の人間として、明るい未来を願い、来日しました。希望を思い描く心に、国籍は関係ありません。その希望が、かなえられる日本であってほしいと、願っています。

教会の友人たちと老人ホームを訪ねたマイさん(右から2人目)。明るい性格で、老人ホームでも人気者だった=マイさんの友人提供
教会の友人たちと老人ホームを訪ねたマイさん(右から2人目)。明るい性格で、老人ホームでも人気者だった=マイさんの友人提供

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