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コラム

大人になって気づいた「アセクシュアル」 恋愛できない私は欠陥品?

告白されても…1ミリもわからない

生まれつき、特定の誰かを愛することができない……。そんな「アセクシュアル」の当事者・雁屋優さんに、自らの人生観についてつづってもらいました(画像はイメージ)
生まれつき、特定の誰かを愛することができない……。そんな「アセクシュアル」の当事者・雁屋優さんに、自らの人生観についてつづってもらいました(画像はイメージ) 出典: PIXTA

目次

「愛することは素晴らしい」。ドラマや映画、流行歌を通じ、そんなメッセージが当たり前のように広められてきました。一方で社会には、他者に対する恋愛感情を生まれつき持てない、「アセクシュアル」の人々が存在します。ライターの雁屋優さんも、その一人です。「私は欠陥品なんだ」。周囲の「ふつう」に自分を合わせられず、苦しむ日々。救いとなったのは、一冊の漫画でした。「愛し愛されるべき」という呪縛から解放されたきっかけについて、つづってもらいました。

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「愛を理解しない」のは悪いこと?

「誰かを愛せない自分は、欠陥品なんだ」。私は、そんな思いを抱えて生きてきた。なぜなら、他人に恋愛感情も性的欲求も抱かない「アセクシュアル」だからだ。

恋愛の意味でも、友愛の意味でも、私はリアルの誰も愛せない。そのことに気がついたのは、大人になってしばらくしてからだった。

恋愛感情を向けられても、友人から好ましく思われても、それゆえに私を気遣ってくれる人々のことが、1ミリもわからなかった。同じ感情を返そうにも、そのような思いは私の中にはないのだった。何で、返せないのだろう。そう思って苦しんだ。

もちろん、日常生活において何かいいことをされたら嬉しいしお礼はする。仕事上では助けてもらったらお礼はする。決して他人と断絶したいわけではない。恋愛、友愛問わず、特定の人と親しくすることなく、誰とでも私にとって適切な距離で関わりたいだけなのだ。

世の中には、愛は素晴らしいものだとする物語があふれている。漫画はもちろん、私が愛読する「ハリー・ポッター」シリーズも同じだ。

闇の魔法使いで、悪役のヴォルデモ―ト卿(きょう)は、若い頃から魔法の才能あふれる優秀な人物として描かれる。しかし主人公ハリー・ポッターとの決闘で、「愛を理解しない」ことにより、敗北してしまう。

作中でヴォルデモート卿は、自らを魔法の世界へと導いた人物・ダンブルドアから「愛を理解しない」と酷評されていた。愛の力が巨悪を打ち負かす。なるほど、物語的にはハッピーエンドかもしれない。

しかし「愛を理解しない」ことは、そんなに悪いことだろうか。

恋愛の呪縛を解いた、一人の女性

誰かを愛して、愛されなければならない。そんな価値観は、私を苦しめた。

誰のことも好きじゃないのに、そうしなければならないと思っていたから、バレンタインデーに好きでもない男の子にチョコをあげた。そうしなければならないのなら、やるしかないと思っていた。迎合できない価値観に合わせなければならないのは、しんどかった。

恋愛の形をした呪縛は、大学時代、同性である一人の女性との出会いがきっかけで、緩やかに解けていった。彼女は、私に告白してくれた人だった。

「同じ感情を返せない」。誠実でありたいと思い、私はそう伝えた。すると彼女は、アセクシュアルや、他者に恋愛的に惹(ひ)かれない「アロマンティック」といった概念について教えてくれた。

恋愛しなくてもいい。そうやって緩やかに呪縛が解けていった。なのに、友愛の形をした呪縛は、つい最近まで、私を息苦しくさせていた。

友愛に悩んで手に取ったコミックエッセイ

今年初め、確定申告を頑張るべき時期に、私はちっとも手をつけられなかった。とある理由で、友人関係に疲弊していたのだ。だから、日々仕事をするので精一杯だった。

ある日、限界を超えた私は、文章を書いたり本を読んだりしながら、ひたすら心の回復に努めた。そのとき、一冊のコミックエッセイを手に取った。

『迷走戦士・永田カビ』。作者の漫画家・永田カビさんは恋愛経験がない。しかし、やがて結婚や「愛し愛されること」に憧れる。マッチングアプリに登録したり、自らのセクシュアリティーと向き合ったりする中で、「人とパートナーになること」について考えていく。

自分が何を欲しているのか、何が必要なのか。答えを見つけようと、ボロボロになりながらも進むことをやめない永田さんは、まさに「戦士」そのものだ。

愛し愛されることは「必修課目」じゃない

この本を読んで、私は気付いた。「誰かを愛し愛される」必要なんてなかったんじゃないか。

永田さんは、「愛し愛されるまでにはハードルがあるのではないか」と仮定し、考えていく。そして読者から届いたメールを読み、「ハードルを飛び越える必要なんてなかったんじゃないか」と気付く。

その過程に触れたとき、私も「ああ、そうか、クリアしなければならない何かなんてなかったのだ」と、肩の力が抜けた。

もちろん、「パートナー間の愛」も友愛も素晴らしいことだろう。でも、それがない人は、人間として大切なものが欠落しているのだろうか。それは違う。自分を自分で愛し、大事にすることができたらそれでいいのだと思う。

私は、恋愛の意味でも友愛の意味でも、誰かを愛し、誰かから愛されることが人生の「必修科目」だと思っていた。だから、向けられる好意を少しでも嬉しいと思うなら、返さなければならないと思いつめてしまったのだ。

相手のためを思ってのことではない。そういうマニュアルがあると考えていたのだ。人生には必修単位なんてないのに。

自分で自分を大事にできるようになりたい

永田さんは、『迷走戦士・永田カビ』の中で、愛し愛されることで、自分の中の何かを埋めようとしていたことに気付く。そして「それって、おかしいというか、リスクしか無くないか……?」と思うようになる。

私も永田さん同様、「友人」によって自らの中の何かを埋めようとしていたのだ。その姿勢は、少なくとも私の生き方にはそぐわない。恋愛や友愛に、必ずしも重きを置かないからだ。

私は、人生に「正解」しようとしていたのかもしれない。誰かを愛せない人生は、不正解のように思えていたから。でも、そんなことはない。たとえ私が誰も愛せなくても、それは糾弾されるべきことではない。

自分で自分を大事にできれば、誰かを愛し愛されることは、人生の必修科目ではなくなるのかもしれない。愛し愛されなくても、生きていていいのだ。そうやって、私が私を認められたら、それでいいのかもしれない。

自分を縛っていた呪いが一つ、解けようとしている。

「誰かを愛さなければならない」と思う必要はない。愛したい人は愛したらいいし、そうでない人は愛さなくてもいい。愛だけが、目指すべき究極の目標ではないのだから。

それができればこそ、本当の意味で、多様性を認めあうことになるんじゃないか。

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