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志村けんと音楽はワンセット オナラの音源まで集めたこだわり
もう見られない「名盤レコード」のような笑い
偉大なコメディアン・志村けんさん(以下、敬称略)が亡くなってちょうど1年が経った。テレビでは命日を迎えるタイミングで特番が組まれ、改めて存在の大きさを痛感する。ザ・ドリフターズや志村が生み出したコントとは何か。その一つの要素として、なくてはならないのが楽器、効果音を含む音楽だ。バンドマン上がりの志村のコントは音楽とともにあった。(ライター・鈴木旭)
志村の笑いは、音楽(楽器)と密接な関係にある。それは、ドリフターズに途中加入してからずっと変わらない。
『8時だョ!全員集合』の「東村山音頭」「ヒゲダンス」をはじめ、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(ともにTBS系)の「だいじょうぶだぁ太鼓」、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)の「ご存知!じいさんばあさん」「変なおじさん」「必殺シリーズのパロディー」などは代表的なところだ。
演歌、フォークソング、流行歌、インストゥルメンタル……あらゆる楽曲をコントに取り込み、時にシリアスさを増す効果を狙ったり、時に笑いを誘発させたりする演出で見る者を楽しませた。また、舞台『志村魂』では、志村自身が津軽三味線の腕前を披露して観客を魅了している。志村にとって音楽(楽器)は、なくてはならない重要なものだったのだ。
そもそもドリフはバンドであり、笑いと音楽によって形成されていた。志村はそれを継承しながら、独自の世界へと飛躍させたと言えるだろう。
音楽そのものだけでなく、バンドマンとしての感覚はコントのつくり方にも直結している。ドリフのリーダー・いかりや長介は、著書『だめだこりゃ』(新潮文庫)の中でこう書いている。
「私たちはバンドマン上がりらしく、『あと一拍、早く』『もう二拍、待って』とか、音楽用語を使ってタイミングを計りながら稽古した。今では一般の方でも使う、『ボケ』『ツッコミ』『ツカミ』というような専門用語すら当時の私たちは知らなかった」
『全員集合』は1969年10月からスタートしている。当時は漫才の人気が全国区になる前であり、何よりもドリフはジャズ喫茶上がりのコントグループで寄席とは別の文脈にあった。そのため、音楽用語でのやり取りが交わされていたと考えられる。
「ボケ」「ツッコミ」という概念がないことで、「音」がドリフのコントにメリハリをつけた。
志村がタイプライターをカシャカシャカシャッとリズムよく打つ節目に、「チーン」「ポーン」「プーッ(オナラの音)」といった音が鳴ってメンバー4人がズッコケる。一軒家で雨漏りが起き、メンバー4人が茶碗を持って受け止めると、トンットンットンットンッときて志村だけにたらいが落ちてくるといった演出はよく知られたところだ。
また、トタンで作成した机の天板にいかりやが重心をかけると、反対側が浮き上がって顔にぶつかり激しい音が鳴る。障子の枠や壁の一部をバルサ(軽量で壊れやすい木材)で作成し、勢いよくぶつかると荒々しい音が鳴り響くといった派手さがドリフの醍醐味でもあった。
ドリフのメンバーである志村自身、音楽や効果音に対するこだわりが強かった。有名なのは「オナラ」の音だ。本物のオナラの音を集めたレコードを購入し、番組のコントでも使用するようになった。さらには、オナラを含めた音源はすべてコント収録の現場で同時に鳴らしていたという。
「ふつう音楽は、ビデオ編集の時に後から録音するものだけど、僕の番組では現場で音楽を流しながらコントを演じる。マイクが雑音を拾ったりとかの問題もあるけど、やっぱり音楽があると、やる側のノリが全然違う」(著書『変なおじさん【完全版】』(新潮文庫)より)
現場の空気は、テレビ画面を通じて必ず視聴者に伝わる。そう志村は考えていたのだろう。BGMや効果音は、志村のコントとワンセットだったのである。
『全員集合』時代から、ドリフのコントは“マンネリ”と言われることもあった。会社の一室、学校の教室、一軒家など、同じような設定で演じられることが多かったからだろう。しかし、志村はマンネリをポジティブに捉えていた。それは実にバンドマンらしい物の見方だった。
「三十年から四十年先に、もしカラオケが残っていれば、浜崎あゆみの曲を『当時、こんなのが流行ったんだよ』ということで、だれかが歌うかもしれない。いや、歌うだろう。だけど、その時もやはり(筆者注:山下)達郎さんの『クリスマス・イブ』は、カラオケの選曲集に載っているに違いないし、いまと同じように十二月になれば街角で流れているはずだ。このマンネリはすごい。(中略)オレは偉大なるマンネリ=スタンダード・ナンバーだと考える。スタンダードとは、流行に左右されない確固たる標準という意味だ」 (著書『志村流』(三笠書房)より)
志村が「バカ殿様」「変なおじさん」「ひとみばあさん」といった名物キャラを繰り返し演じたのは、この考え方が根底にあったからだ。名曲がアレンジを加えて演奏され続けるように、微妙に設定や展開を変えてキャラの旋律を落とし込んでいたのである。
改めて考えると、音楽史の流れとお笑い史は似ているところが多い。
クラシックの時代はオーケストラ、ジャズが盛況するとビッグバンドやカルテットと続き、ロックになるとスリーピースが現れ、クラブ文化が起きるとDJ1人となり現代のEDMへと続いている。機材が進化して音量・音圧が上がり、少人数でも魅力的なライブができるようになったからだ。
一方のお笑い史を見ると、ジャズ喫茶上がりのハナ肇とクレイジーキャッツに代表される“グループ”の文脈は、ドリフを最後にメインへと躍り出ることはなかった。劇場や寄席上がりのお笑い芸人が主流となり、トリオ、コンビ、ピンといったタイトな形態が求められるようになったと言える。バラエティー番組の潮流が多種多様なタレントを出演させる方向へと変化し、グループ単位での扱いが難しくなった影響もあるだろう。
バラエティー制作の主流が移った事実も見逃せない。『全員集合』の全盛期(1970年代~1980年代初頭)は、“ドラマのTBS”と言われていた。つまり、固定でカメラを据えて撮影する制作側の強みと、つくり込まれたコントを得意としたドリフとが抜群の相性を発揮していたのだ。
しかし、1980年代からハプニング性、企画性、アドリブの面白さが支持されるようになった。すると、フレキシブルに撮影するフジテレビのほうに強みが出てくる。漫才ブームの仕掛け人であり、フジテレビの名プロデューサーだったことでも知られる故・横澤彪は、著書『テレビの笑いを変えた男横澤彪かく語りき』(扶桑社)の中でこんなことを語っている。
「一時ねぇ、確か所(ジョージ)と(明石家)さんまがね、30分の番組、司会とかって。『TBSから仕事来ました~』とかって喜んでいったわけ。そしたらね、2回か3回でやめましたよ、彼ら。なぜかって言うとね、2人で行ってね、飛び込みで行って、『こんばんは!』って挨拶してしゃべってる間にね、なんか「カメラ止めます」って言われて、止まっちゃったんだって。で、『なんで止まるの?』って言ったら、『今、見切れました』ってカメラマンがね。(中略)そんなことでね、(筆者注:TBSのバラエティーが)それだけ遅れちゃったってこと」
1990年代以降は、日本経済の低迷によって大掛かりなセットが組めなくなった背景もあり、コント番組そのものが激減している。こうした複合的な要素によって、少人数の芸人が活躍するようになったと言えるだろう。
ドリフ、および志村の笑いは、今の芸人たちと決定的に何が違うのか。それは、記録メディアの違いにも通じる「奥行き」ではないかと私は思う。
記録メディアの主流は、アナログレコードに始まり、CD、HDD(ハードディスクの音源データ)、サブスクへと移っていった。データならスマホさえあればいつでもどこでも聴くことができるし、サブスクなら音源そのものがネット上にあるためHDDの容量を気にする必要もない。
一方で、レコードは聴くのに手間がかかるうえに物理的な場所を取る。収められる曲にも上限があり、手元になければ聴くこともできない。また、何度も聴くうちに劣化してしまうなど、利便性だけを考えれば圧倒的にデータのほうが勝っている。
ただし、レコードにしかない強みもある。その一つがジャケットだ。デザインだけで楽曲を想像し、レコードを購入する「ジャケ買い」は何ものにも代えがたいワクワク感がある。帰宅してから実際に聴いて、喜んだりガッカリしたりした経験を持つ人もいるだろう。これは絶対にデータでは味わえない醍醐味だ。
もう一つ、音色の豊かさならレコードを超えるものはない。音はデータ化された時点で、一部の音が圧縮されて聴くことができない。逆に言えば、楽曲を聴くうえで必要のない音をカットし、洗練された部分だけを収めているのである。
粒の揃った音源は、耳障りがいいしストレスを感じることはない。しかし、人間臭い粗(あら)さやアナログならではの手づくり感は失われてしまう。そういう意味でレコードは、もっとも生々しい音を収めた媒体なのだ。
こうした点は、志村の笑いととてもよく似ていると思う。ユニークな舞台セットや演出は、内容の面白さだけでなく、見る者に「愉快」「楽しい」という気持ちを抱かせる。また、生み出したキャラを晩年まで大事に大事に演じ続けた点は、いつかは擦り切れて聴こえなくなってしまう名盤のレコードに針を落とす行為とも重なる。
大衆的な旋律を奏でる志村のコントは、「お笑い」という枠に縛られない刹那的で豊かなものだった。音楽や効果音は、それを形づくる重要な仕掛けの一つだったと言えるだろう。
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