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連載

#28 Busy Brain

小島慶子さんが経験した「女性」と「ADHD」が重なる生きづらさ

「良き女子」にも「良き組織人」なれないことに苦しみました

小島慶子さん=本人提供
小島慶子さん=本人提供

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、小島さんがぶつかり続けた壁––––女性であることとADHDであることが重なったときに、どんな生きづらさが起こるかについて綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)

人はいくつもの要素から成り立ってる

 最近は「交差性」という言葉をよく聞くようになりました。社会課題などを考える上で、交差性を無視してしまうと、取りこぼされる人が出てしまうという指摘があります。例えば女性差別について考えるときに「女性」という一つの括(くく)りだけで捉えると、その中の多様性を見落としてしまうのです。

 人には誰しも、ジェンダー、人種、民族、国籍、階級、セクシュアリティなどなど複数の要素があります。それらが相互に作用して、その人の社会での立ち位置や生きやすさ、生きづらさを形作っています。

 例えば私は「女性」「アジア系」「中産階級」「異性愛」「障害者」などの要素で成り立っていますが、日本では「女性」と「障害者」であること以外はマジョリティに含まれます。ところがオーストラリアに行くと、「女性」「アジア系」「障害者」「移民」「非母語話者」「オーストラリアでは就労所得がない(経済的基盤がない)」という複数の脆弱性を抱えたマイノリティになります。

 私を構成する要素はいくつもあり、要素によって、またどこに身を置くかによっても、多数派になるか少数派になるか、強者であるか弱者であるかが異なるのです。当然、日本にいるときとオーストラリアにいるときとでは、私の生きづらさの中身も異なってきます。あなたの場合はどうでしょうか。

 ある共通の属性を持つ人たちについて考えるときには、このような複雑な個人の集合体として捉える必要があります。例えば「女性」について考えるときにも、その中には多様な女性がおり、「女性差別」の当事者中にはジェンダーの他にも複数の差別に苦しむ人がいることを考慮する必要があるのです。

 さて、女性であることと発達障害が重なると、どんな生きづらさがあるのでしょうか。私の場合はこうでした。以下は、個人的な体験を通じて考察したことです。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

「女の見てくれ」にかかる無意識のバイアス

 よく喋(しゃべ)る、気が散りやすい、落ち着きがない、唐突な言動をするなどのADHDの特徴のうち、特に多動性や衝動性は、日本社会で求められる「女らしさ」からは逸脱しているとみなされます。女の子は柔和でしとやかであることが美徳とされるからです。発言が多かったりバタバタしたり突拍子もないことをして周囲を驚かせたりするのは、ガサツとか、はしたないとか言われがち。男の子なら「元気がいい」と言われるかもしれませんね。

 加えて、成長して企業などの組織で働きはじめると、良き組織人であることを求められるようになります。日本の組織は同調圧力が高く、上の顔色を見ながら空気を読んで生きねばなりません。サラリーマンという階級社会では、従順で分を弁(わきま)えた振る舞いが求められます。

 ただでさえ発達障害のある人にとってはハードルが高いのに、加えて女性には、男性の意を汲(く)んで気を利かせるスキルが求められます。私は働き始めてから人生で初めてジェンダーの壁にぶち当たり、「良き組織人」にも「良き女子」にもなれないことに苦しみました。

 テレビ局というのはかなり変化に富んだ職場で、ADHDの特徴がむしろ生かせる場所でもあるのですが、そこに「女性」という要素が加わると男性よりも許容される範囲が限定されます。さらにアナウンサーという仕事は、男性社会で好ましいとされる聞き分けの良い女性の典型像を体現することを求められます。入社当時の私は自分が一体何を求められているのかすらわからず、トンチンカンな振る舞いをしては周囲を困惑させていました。

 この「女性アナはこうであれ」という圧力からは、幸いにしてラジオの仕事に出合えたことで解放されました。ラジオのスタッフたちは私に「女性アナらしく話してほしい」ではなく、「あなたの思うように自由に話してほしい」と言ってくれたからです。

 同じように振る舞い、同じように話しても、容姿を晒(さら)すテレビの仕事では生意気だとか可愛げがないなどと言われ、声だけのラジオの仕事では話が面白いとか好感が持てるという全く逆の評価をされたのは、極めて興味深いことでした。

 女性蔑視の少なからぬ部分が視覚的なものに起因していることを思わずにはいられません。どのような容姿であろうと「女の見てくれをしていること」が、その人物を軽んじる根拠になりうるということです。これは社会に深く浸透した無意識のバイアスなのではないかと思います。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

恋愛は認知の歪みの極み

 さて、発達障害でありかつ女性であることは、私の恋愛においてはどのように作用したでしょうか。過去の恋愛においてADHDであることがどのように影響したかを振り返るのはなかなか難しいです。なぜなら、特に恋愛の初期段階では誰しも平常心ではないため、緊張して喋り続けたり、奇行に走ったりしがちだからです。

 解剖学者の養老孟司さんに恋愛とはどういう脳の働きなのかを伺ったら「恋愛は脳の計算ミスだよ。まともな計算をしたら結婚なんてできない」とおっしゃいましたが、まさに恋は認知の歪みの極みですよね。すごいバイアスがかかっているわ正気を失っているわで、誰もが「普通じゃない」状態になるものです。

 恋愛中は、24時間好きな人のことを考えてしまいますよね。脳内でエンドレスの映画が上映されているようなものです。恋をすると周りの景色が全て輝いて見えるというのも、脳内特設スクリーンに映し出された8Kクオリティの風景だから。本人は世界のすべてを恋愛スクリーン上で見ているので、周囲からは地に足がついていないような、上の空のような感じに見えます。対面して話をしていても、なんだか独りよがりな感じ。

 あの恋愛ハイパーの状態が、ADHDでちょっとドライブがかかった状態になったときの感じに似ているなと思うことがあります。今はもう無防備にそういう状態で人と接することはないですが、子供の頃や若い頃はよく「はしゃいでいる」「自意識過剰」などと言われました。

 何かに夢中になったり楽しい気分になったりすると、自分の頭の中の映像しか見えなくなって、高速回転する脳内に浮かぶことをいきなり喋ってしまうのです。目の前にいる人たちの会話からの連想で思いついたことを喋っているので、当人の頭の中では話はつながっているのですが、その説明をすっ飛ばすものだから、周囲は「いきなり何の話??」と当惑し、あれこれ脈絡もなく聞かされて、疲れてしまいます。誰しも恋愛中は友達の話を聞いていなかったり、つい惚気話(のろけばなし)をしてしまったりしますよね。頭の中がお祭りで、何を聞いても恋の話につながってしまう特殊な状態になっている。ADHDの人のお喋りが唐突で自分勝手に見えることがあるのも、ちょっとそれに似た現象なんじゃないかと思います。

 大学に進学したとき、私は男性が珍しくてなりませんでした。中学高校は女子校で男子との交流はほとんどなし。大学生になって先輩や同級生の男性と日常的に接触するようになると、やることなすこと珍しい。男友達と電話している途中で受話器をテーブルに置き、しげしげと眺めて「わー男性の声が聞こえる」などと密(ひそ)かに驚いていました(ちゃんと話を聞け)。

 何しろ新しい刺激に弱い脳みそです。珍しい人たちとは、友達になりたい、仲間に交ざりたいと思いました。小6のときみたいに、男子と一緒にふざけたり笑ったりしたい。でも大学生ともなると、なぜか見えない「女子」の壁があるみたいで、どうも微妙な距離があるのです。スポーツの部活などで苦楽を共にしていたら、それも自然に越えられたのかもしれません。

 恋愛も「珍しい、もっと知りたい」という気持ちが入り口になりました。ところが相手と親密になりたいと思っても、どう振る舞えばいいかわかりません。だからとにかく気になる人を笑わせようとしました。ところが面白がって友達になってはくれても、なかなか恋愛には発展しません。恋人にする女性には面白さよりも自分の話を面白がってくれることを求める男性が多いと知ったのはずいぶん後になってからです。

 そんな中、どういうわけか私を恋愛対象として認識する男性もいました。なぜ彼らが私を好きになったのかは、いまだによくわかりません。でも共通していたのは、基本的に女性を対等に扱う人たちだったということです。「女の子らしくしてほしい」「俺のお世話をしてほしい」という態度ではなく、私との会話を楽しんで、一緒にいたいと言ってくれる人たちでした。私も彼らの話が面白くて、一緒にいると世界がもっとマシなところに見えるような気がしました。彼らは私にたくさんの大事なことを教えてくれました。フェアに物事を見ることの大切さや、人をリスペクトする姿勢など、彼らが教えてくれたのは人が生きていく上で核になるようなことばかりでした。私も彼らにとってそんな存在であったのなら嬉しいですが、尋ねてみたことがないのでわかりません。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

恋愛アンテナが折れている

  今はこうして感謝と共に思い出すことができますが、交際している当時は相手に要求することが多すぎてうまくいかないことが多かったように思います。元交際相手やちょっと好きだった人で、今も友人として交流が続いている人たちがいるのですが、恋愛感情抜きの方が素直に尊敬できるし、相手の幸せを心から祝福することができて、いいなあ健全だなあと思います。私の場合は恋愛感情が入ると、相手のいいところが目に入らなくなってしまうようです。

 もっといい関係を築けたはずなのに、と悔やむ気持ちもあります。女友達に「あなたは恋愛アンテナが折れている」と言われたことも。生まれつき折れているのか、どこかで折れたのか。それにADHDが関係しているのかどうかはわかりませんが、多少は影響があったかもしれません。

 若い頃を振り返ると、誰かと交際しているときには、相手を知りたいと思う気持ちが強すぎて、うまくいかないことが多かったように思います。

 どうも私の恋愛というのは自分の理想を勝手に相手に重ねてしまうことのようで、そうなると誰と付き合っても必ず失望することになります。理想通りの人間なんているわけないですから。その理想というのも、普段からはっきりとした人間の形で頭の中に存在しているわけではありません。「そうじゃない」という形でしか姿を現さないのです。つまり自分の理想が何であるかも知らない。ただ目の前の人が「そうじゃない」ということははっきりわかる。何と傲慢(ごうまん)なのでしょうか。

 誰に対してもそうなのではありません。例えば息子たちに対してははっきりと「自分とは異なる体と脳みそを持った人たちで、彼ら自身の人生があるのだからそれを尊重して祝福しよう」という気持ちがあり、彼らのありようを見て、「そうじゃない」と思ったことは一度もありません。彼らは彼らなのですから。

 同様のことは女友達にも言えます。彼女たちは彼女たちで、私とは違う人間なのだから、ありのままをリスペクトすればいい。完全な人なんていないのだから欠点だってあるさ。

 でも恋愛対象に対しては「私が納得するようであれ」という傲慢な態度になってしまうのです。相手を他者として認識できなくなり、自分と地続きになった途端、見下す気持ちが生じてしまう。これは自分自身を見下していることと関係がありそうです。次回はそのあたりを掘り下げることにします。

(文・小島慶子)

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。

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