連載
#27 Busy Brain
発達障害の記憶をたどる作業に小島慶子さんの脳が起こしたストライキ
書いては消して書いては消してで、やがて何も書けなくなりました
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、本連載の執筆で「私のどこからどこまでが障害(ADHD)なの?」と考えるうちに「脳がストライキを起こした」みたいに何も書けなくなったというお話を綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
障害や病気や過酷な生い立ちや民族的なルーツなど、何か目立つものがある人には「その話をして!」と期待されることが多いもの。だけどそれはその人の人生の全部ではないし、一要素だけを取り出しても、その人がどんな人かはわかりません。発達障害だけを見ていても、発達障害と共に生きる人のことはわからないでしょう。人の数だけ障害があり、困りごとがあります。
同時に、困っていないこともたくさんあり、嬉しいことや楽しいこともあります。障害とは無関係な部分も、もちろんあります。当事者によるいろいろな手記がありますが、私の場合は「私のどこからどこまでが障害(ADHD)なの?」という混乱を書いています。読んでいてちょっともどかしいかもしれませんが、こんな伝え方もあるのだと知ってもらえたら嬉しいです。
執筆のために、これまでを振り返り、過去をなんとか思い出そうとする作業は、時にとてつもなく消耗するものです。しんどい思いをしてやっと忘れたあれこれをわざわざ思い出すのですから、自分で自分に心的外傷を与えているようなものです。実際、書いた後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状が出て、何日も具合が悪くなったり、書こうとするとボーッとしてしまったりすることもあります。脳が自分を守るために、記憶を遮断(しゃだん)しているのかもしれません。
原因となるのは過酷な記憶とは限りません。ごく平凡な子どもの頃の思い出や思春期のワンシーンでも、その記憶の後味が少しずつ蓄積されて、心身がうんと疲れてしまうのです。
そんな中で連載を続けていたら、ある日、指がピタッと止まってしまいました。何時間キーボードを叩いても、書いては消して書いては消してで、やがて何も書けなくなりました。まるで脳が、「なんでもほじくり出して書こうとするの、やめてくれない?」とストライキを起こしたみたい。すっかり暗礁に乗り上げてしまいました。
原稿は一向に捗(はかど)らないのに徹夜が続き、動悸(どうき)と眠気で文字通り倒れてしまったことも。かと思えば、他の原稿は書けるのに、発達障害について書こうとすると、途端に笑気ガスでも吸ったみたいにとてつもなく眠くなってしまい、何度まぶたをこじ開けても意識が飛んでしまったり。これもやっぱり脳のストライキなんじゃないかと思います。
「……ってわけで今、困ってるの。私は“ADHDとして”生きているわけじゃないし、女としてとか日本人としてとか獅子座としてとか、何か“として”ではなくて、ただ生きてるからね。“後付けで〇〇として生きる”って切り取ることはできるけど、それだって無理があるよね。
腕と手首と手の境目を厳密に示せって言われても分からないのと同じで、どこからどこまでが“ADHDの私”なのかなんて、はっきり見えないもん。で、もう脳がストライキ起こしちゃった。パソコンの前でのたうったまま1週間に正味(しょうみ)4日しか寝てないような暮らしで、そろそろリアルに死にそう」
と、大学1年生になる長男にこぼしたら「それを書けばいいんじゃないの?」と言われて、確かにな! と思いました。
息子たちは「ママはADHDだ」と知っているけど、「僕らはADHDの女性に育てられている」とは思っていません。母親を構成している要素の一つがADHDである、という感覚でしょうか。彼らにとったら、私がADHDであることよりも、彼らの母親であることの方がはるかに特異性が高いので、当然かもしれません。
また、家族で暮らしているオーストラリアでは、日本よりもずっとオープンに発達障害が語られ、障害を持つ子どもが同じ教室で学んでおり、スティグマ(負の烙印)も少ないので、特別なことという感覚がないのだと思います。
彼らには、ADHDで失敗してしまったことや、ほとほと疲れ果ててしまうことも素直に話せますし、ときにはこうして相談にのってもらうこともあります。息子たちは私の話を「最近胃がもたれるんだけどね」「今日は転んじゃったよ」と同じように聞いてくれて、深刻な顔もせず、あっさり励ましてくれるので、とても気が楽なのです。
受容するというのは、心配そうに同情してあげることではなくて、最初から「あなたはあなただよね」という信頼を示し、対等な態度で話を聞くことではないかと思います。幸いなことに、私は夫や息子たちによって受容されているという安心感があるので、こうして自分の凸凹話を不特定多数の人に向けて書き続けることができるのかもしれません。
今、息子たちは18歳と15歳。この時期に見聞きしたり考えたりしたことは、文字通り一生の土台になります。11歳と8歳でオーストラリアでの新生活を始めた彼らは、とてつもなく色鮮やかで変化に富んだ日々を生きています。その記憶は彼らを生涯支え、繰り返し思い出す原風景となるでしょう。
私も48歳になって、降り積もったいろいろな記憶が次第に風化し、ちょっとずつ整理されていくにつれ、そんな思いを強くしています。高校2年の夏休みにニューヨークに、3年の夏休みにはニューデリーに行ったことも、得難い経験でした。知らない国を見て、「普通」なんて妄想に過ぎないとわかったのです。
17歳の夏休みに、当時姉が住んでいたニューヨークを訪ねました。国際線の飛行機で、初めての一人旅です。人生初のアメリカ、しかも憧れのニューヨーク。緊張と興奮で目が冴え、十数時間のフライト中はずーっと窓の外を眺めていました。闇を飛ぶ翼の向こうに夜明けの光が差し、やがて群青や赤や橙(だいだい)の鮮やかなグラデーションの中に朝日が見えたときには、ああ神様って本当にいるんだなと思いました。
当時はバブル期で、日本人が世界中に旅行に出かけ、買い物しまくっていた時期。でもうちはサラリーマン家庭で、海外旅行にしょっちゅう行けるような余裕はありませんでしたから、嬉しくてたまりませんでした。
姉夫婦は、マンハッタンから電車で少し行った郊外の小さなコンドミニアムで暮らしていました。夕方になると蛍が飛び交う緑豊かな街。毎日、姉が作ってくれたサンドイッチと折りたたみの地図を手に、マンハッタンまで一人で出かけて行って美術館巡りをしました。
メトロポリタン美術館、MOMA、自然史博物館、フリックコレクション、美術や歴史に詳しい姉が連れて行ってくれたクロイスターズ美術館。あの中3で訪れた大原美術館での衝撃以来、上野の展覧会などに出かけるようになっていましたが、ニューヨークのミュージアムでは本当に全てが眩(まぶ)しくて、見たものがみるみる脳に染みこんでいく音が聞こえるようでした。
思いっきり目を開いて全てを記憶に灼(や)きつけながら「17歳の私の脳は、多分人生で最高に吸収力が高いはず。だから、いまのうちになるべくたくさんの世界を見ておかなくちゃ」と思いました。ニューヨークにはとにかくいろんな人がいて、目まぐるしくて、ぼーっとしていたら置いてかれそうな活気に溢れています。ここでは目標がはっきりしていないと生き残れないだろうなあと、全てが眩しくてなりませんでした。
アジア人の女の子に対するからかいや差別も経験し、悔しい思いをしました。日本では「普通」の女子高生が、ここではめちゃくちゃマイノリティ。いる場所次第で立場はいくらでも変わるんだと、怖いような自由なような気分でした。
翌1990年の夏休みは、父の単身赴任先のインドのニューデリーを母と一緒に訪れました。社宅はセキュリティ上の理由から富裕層が暮らす住宅地にあって、食堂が二つ、居間が二つ、豪華なバスルームがいくつかあり、門番と庭師と料理人と給仕と清掃人がいました。広いだけで、がらんとしたお屋敷に父は一人で暮らしていました。日本ではローンを組んで東京郊外の新興住宅地に暮らすサラリーマンなのに、ここでは会社が借りたマハラジャの邸宅みたいなお屋敷に住んでいるのです。
社宅で開いたパーティで出会ったインドの上流階級の人々は流暢(りゅうちょう)なイギリス英語を話し、大きな宝石を身につけていました。洗練された気品ある態度からは、成り上がりの日本人とはビジネス上のお付き合いと割り切っている感じも窺(うかが)えました。
一方で街に出れば、土で作った道端の小屋に住み、物乞いをする人たちがいました。ニューヨークではアジア系のマイノリティ、ニューデリーでは俄(にわか)仕立ての上流階級、どっちにもしっくりくる居場所はなく、何もかもが違う世界を知って、自分が世界地図の上の小さな小さな点になったような気がしました。
10代で、こうした全然異なる世界を立て続けに体験できたのは、幸運でした。言葉が通じない、知り合いが一人もいない、立場が全然違ってしまう・・・そういうところに身を置くのは、多様性と包摂について何時間も講義を受けるよりもはるかに多くの学びがあるでしょう。
2年前、高校2年生だった長男が、NPOが実施しているあるツアーに参加したいといったときにも、それはぜひにと送り出しました。タイとラオスを3週間かけて旅して、下水道設備のない村に浄化槽(そう)を設置する支援事業に参加するプログラムでした。
スマホは持参禁止。NPO職員たちが引率していますがあくまでも見守り役に徹し、原則的には子どもたちだけで移動計画を立て、予算管理から宿泊所の予約や値段の交渉まで、全て自力でやるのです。タイやラオスの小さな村では、英語は通じません。
3週間経って戻ってきた長男は、明らかに自信をつけた顔つきになっていました。その時の経験が元になって、やりたい仕事を見つけ、大学の専攻を決めました。これから大学4年間で、また新たな経験を積んでほしいと思っています。
私はオーストラリアで、移民第一世代の親の誰もが経験する我が子との言語環境の違いや、元いた国でのキャリアが一切通用しない心細さをしみじみ味わっています。そうなってみて初めて、東京の街にも日本語を母語としない大勢の人たちが暮らしていて、都会で不安な思いをしていることに気が付きました。自分が異国で弱者になってみてようやく、不安定な立場で日本に暮らす外国の人たちが「見えた」のです。
もしも今この連載を読んでいる人の中に、いわゆる自分磨きに熱心な人や、自分探しで悩んでいる人がいたら、ぜひ今の“普通”が全然通用しない場所に身を置いてみてください。コロナ禍の下では旅行は難しいですから、実現するのは数年後かもしれません。でもぜひ、国内でも国外でも、そういう場所に行ってみてほしいです。
英語が話せる人は英語が通じない場所に、有名大卒の人だったら誰もそんな大学を知らない場所に。マイノリティとしてそこに身を置かなければ見えない風景、得られない視点があります。旅から戻った時には、見慣れた風景が全然違って見えるでしょう。
“〇〇として生きる”は、普通とは違う誰かの物語ではありません。あなた自身が自分の人生をいく通りにも生きることができるという意味なのです。
(文・小島慶子)
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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