話題
学生運動って? 当時の熱がよくわからない…元参加者に聞いてみた
「今の時代、社会が遠いだろうなと思う」
取材前、私はいまいちわかりませんでした。約半世紀前の学生運動の熱とはいったい何だったのか。キャンパスを埋め尽くし、街中へ出て、時に負傷者まで出しながら運動を続けた原動力は何だったのか。私より約50歳上の世代は、何に駆り立てられたのか。政治への関心低下と言われ続ける中で育った記者(26)は、政治を遠く感じる一人です。当時と今と何が違うのか。その頃の熱を知る人に話を聞きました。(朝日新聞和歌山総局記者・藤野隆晃)
山本健慈さんは、京大大学院教育学研究科を経て、1977年に和歌山大教育学部助手になりました。教授として同大学で研究、教育活動を続け、2009年に同学長に就任。現在は、大阪観光大(大阪府熊取町)を運営する学校法人明浄学院の顧問を務めます。
――山本さんが生まれた山口県玖珂町(現・岩国市)は、米軍岩国基地(岩国市)から近い場所でした。
米軍がわりと身近にあった。(岩国市にある)錦帯橋を車で走るとか乱暴をしていたことに対して、小さいときから憤りがあったな。
貧困もそばにあった。私はサラリーマンの子だからきれいな格好をしていたけど、風呂に入っていないアカだらけの子もいた。学校で成績が良い悪いというのがあるけど、できない生徒を先生が叱っていた。でも(貧困状態にある)彼らに勉強しろと言ったって、(勉強ができる)条件がない。「それは理不尽でしょう」と思うわけ。教育に表れる社会的な矛盾について関心があった。当時は政治や社会が近かったんだよな。
――父親の定年退職に合わせて滋賀へ引っ越し、膳所高校(滋賀県)、京都大学に進学。ベトナム戦争が激しくなっていた時代でした。
高校時代、乗った列車の車内に、アメリカが北爆したという新聞があった。「いよいよ戦争か」と友人と話をした記憶がある。広島の原爆とか、米軍のことは知っているから、小さい国を抑圧している憤りのようなものがあったかな。
大学ではベトナム戦争や(返還や基地など)沖縄問題が話題の中心だった。クラスで資料を作ったり勉強会をやったりしていた。そういうのを50人くらいで和気あいあいとやっているという感じ。
――1969年には京大でも学生運動が本格化。運動の中では様々なテーマが扱われたそうです。山本さんが所属した教養部学生自治会は、建物の封鎖などを巡り京大全共闘側と対立し、時には暴力沙汰になったこともありました。
ベトナム戦争もあったし、高度成長期で公害問題もあった。研究者は社会に対してどうあるべきかや、若者がどう生き、どう勉強すべきかという問題もあった。学生運動の後、小集団のゼミナールができたり、学生の要望に基づいた講義が作られたりして、授業内容の改革は進んだと思う。
ただ、(学生運動は)学生同士の争いにエネルギーが集中してしまった。主導権争いだよね。どちらが多数派になって大学との交渉権をもつか、みたいな。暴力じゃ世の中は変わらないでしょと思っていたけど。
――3年生からは、京都府学生自治会連合を拠点に運動にかかわりました。学部卒業後、研究者をめざし大学院へ。一方、一部の学生運動は先鋭化していきました。
京都府学連で、私は書記長だった。(社会や学生に)政治志向が高まっていたと思うし、同志社女子大とかからもデモが出ていた。
私はわりと冷めているというか、自分は自分でもちながら運動にかかわった。学生運動に対してだけじゃなくて、対象とのコミットの仕方が、自分はそんなに没入的じゃない。燃え尽きて大学を辞めたやつ、抜け殻みたいになったやつもいる。自殺した人もいて、それは胸が痛む時がある。
――学生運動を通じ、学んだことや得たものが多かったと、山本さんは振り返ります。
社会を改革するといっても、主体は一人一人の市民。人を扇動したり発破をかけたりしても人は変えられない。自分の身近な小さな現実を変えるような経験を積み上げないと、良くないのじゃないかと。今の時代、社会が遠いだろうなと思う。抽象的な情報はいっぱい入ってくるけど、抽象的な情報じゃ心は動かないじゃん。
だから東日本大震災があった時、学生には「とにかく三陸に行ってこい」と言った。現実に立ち会って、課題を見つけるのも見つけられないのもあなた。その中で、自分がどういう人間であるかを知って、どう生きるべきかというのを見つければ良いと。
僕たちの時代は、ベトナム戦争とつきあわせながら、「自分」を考え、社会的な大きなテーマと向き合うことができた。だから、学生運動のようになったのではないかな。
「政治や社会が近かった」。取材で聞いた山本さんの言葉です。戦争の傷痕が残る一方、急激に世の中が変わる時代でもありました。学校の友達との間に横たわる貧富の差、現実的な問題として迫る公害など、具体的な経験から社会や政治を身近に感じたといいます。
もちろん、当時の運動には負の側面もありました。多くの負傷者を出したり、運動が先鋭化したり。運動は「自分探し」の一種だったのでは、という後世の指摘もあります。現代に、そっくりそのまま再現すべきものとは思えません。ただ、身の回りの課題から考え、社会を良くしようとする姿勢はいつでも生かせるのではないでしょうか。
取材の中で、山本さんは「抽象的な情報じゃ心は動かない」とも言っていました。現代は世界中の情報に接することができる時代です。情報が多すぎて、自らの足元を見つめるのが難しいとも言えます。
取材前の疑問は、山本さんの研究室を後にした時、「同じ大学生とはいえ、そこに至るまでの周囲の環境や、置かれている立場にここまで違いがあったのか」と、ほんの少し理解できたような気がしました。
2021年は秋までに総選挙を控え、将来の社会を左右する重要な年でもあります。
友人、家族、そして自分が抱える問題や課題、生きづらさとは何か。具体的に感じ、目にした範囲から社会を考えることが、政治への関心を高める一つのきっかけになるのかもしれない。そう感じた取材でした。
学生運動と京都大学
1968年の前後にかけ、大学内部の問題などをきっかけに、日本大学や東京大学で大規模な学生運動が起きた。学内問題だけでなく、社会問題なども扱いながら、運動は全国の大学に広がった。京都大学では69年、寮増設などを巡って学生と大学側の意見が一致しなかったことなどから、対立が激化。同年3月の入試は学外で行われ、9月には時計塔を占拠した学生が逮捕されるなど、運動は全学に広がった。
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