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女性が三線を弾くなんて…偏見はねのけた沖縄民謡の唄者、84年の生涯

赤い髪、配給ウイスキー ハワイや南米を放浪

2012年12月、東京都内で演奏したときの大城美佐子さん。細くて伸びのある高音は「絹糸声」(いーちゅぐい)と呼ばれ、多くのファンに愛されました=戸澤裕司氏撮影
2012年12月、東京都内で演奏したときの大城美佐子さん。細くて伸びのある高音は「絹糸声」(いーちゅぐい)と呼ばれ、多くのファンに愛されました=戸澤裕司氏撮影

目次

レジェンドの突然の死から2カ月。大城美佐子さんは、沖縄民謡の類いまれな唄者(うたしゃ)でした。エルヴィス・プレスリーが生まれた翌年に生まれ、女性が三線を弾くことが良しとされなかった時代に、自らの耳で唄と三線を覚え、腕を磨いた大城さん。細くて伸びのある高音や、即興で次々に詞を紡ぐ歌いっぷりで全国にファンが多く、旅に出ると1年以上音信不通になることもありました。そんな自由すぎる生き方で、海辺を吹くそよ風のように歌い続けました。(朝日新聞・坂本真子)

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アドバイスは「海に向かって歌いなさい」

女性が三線を弾くことが良しとされなかった時代、といってもピンと来ないかもしれませんが、84歳で亡くなった大城美佐子さんが生まれたのは1936年。例えば海外で同世代のミュージシャンには、1935年生まれのエルヴィス・プレスリー、1940年のジョン・レノン、1941年のボブ・ディランらがいて、1942年にはポール・マッカートニーやジミ・ヘンドリックスが生まれました。女性では、1937年にロバータ・フラック、1939年にティナ・ターナー、1941年にジョーン・バエズ、1942年にキャロル・キングやアレサ・フランクリンが生まれています。

大城さんは、那覇市で民謡酒場「島思い」(しまうむい)を経営し、店で歌うと共に、各地でライブを行いました。東京でも琉球フェスティバルに出演したり、2016年には赤坂ACTシアターで「芸道足掛60年記念ライブ」を開いたり。私はそのたびに見に行って、「絹糸声」(いーちゅぐい)と呼ばれた細くて伸びのある高音に聴き入りました。

沖縄民謡を女性が歌うとき、高音になると、地声を裏声にクルッとひっくり返します。その瞬間の声の揺らぎに、大城さんは色っぽさや情念を漂わせました。どうすればそのように歌えるのだろうかと思い、約10年前、那覇の店で私は大城さんに尋ねたことがあります。すると、大城さんはこう助言してくれました。

「海に向かって歌いなさい」

実際に大城さんは、弟子たちと一緒に近くの海辺で歌って、のどを鍛えたそうです。

2018年5月、東京・高円寺の沖縄料理店「抱瓶(だちびん)」で、弟子の堀内加奈子さん(左端)と2人でライブを行った大城美佐子さん(右から2人目)=堀内さん提供
2018年5月、東京・高円寺の沖縄料理店「抱瓶(だちびん)」で、弟子の堀内加奈子さん(左端)と2人でライブを行った大城美佐子さん(右から2人目)=堀内さん提供

キューバ危機起きた年にレコードデビュー

大阪市大正区に生まれ、沖縄の辺野古で育った大城さんは、10代半ばから料亭で働きます。当時人気があった沖縄民謡の唄者、嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)さんと小浜守栄(こはま・しゅえい)さんの〝追っかけ〟をしながら唄と三線を覚えました。

三線は17世紀以降、琉球王国の宮廷楽器として使われ、士族階級や富裕層が所有して男性が演奏するものでした。明治~大正時代には徐々に庶民に広がりましたが、男性の楽器という意識は根強く、大城さんが若い頃も、女性が弾くことは良しとされていませんでした。そんな中で大城さんは腕を磨き、料亭の宴席などで演奏して注目されます。大御所の知名定繁(ちな・ていはん)さんに師事し、1962年に「片思い」でレコードデビューしました。

1962年は、ザ・ビートルズがシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」で、ボブ・ディランがアルバム「ボブ・ディラン」でデビューした年です。米国ではリトル・エヴァが歌う「ロコ・モーション」が大ヒットし、日本では「可愛いベイビー」(中尾ミエ)、「ハイそれまでョ」(植木等)などがヒットしました。世界では米国とソ連の緊張が高まり、キューバ危機が起きた年でもあります。

そんな時代に沖縄でヒットした「片思い」は、ゆっくりとしたテンポで、どれほど想ってもかなわない恋心を歌い上げる曲でした。時折かすれる歌声に切なさがにじみます。

自由すぎる生き方、旅に出ると音信不通

定繁さんの息子で唄者、音楽プロデューサーでもある知名定男さん(75)は、大城さんと60年近く姉弟のように過ごしました。出会った頃の大城さんは髪を赤く染めていて、「ちょっと派手な人かなぁ」と知名さんは思ったそうです。

「女の人が髪の毛を染めることはよく思われていない時代ですから、びっくりしましたよ。髪が赤いという意味で、おやじが『赤ぶーミサ』と名付けたんですね。アメリカ軍から配給されるウイスキーを持ってきて、おやじと楽しそうに飲んでいたりして、普通ではなかったですね」

大城さんは旅が大好きでした。若い頃はひとりで、三線を手に日本全国やハワイ、南米などを放浪。全く連絡がとれなくなることも珍しくなく、2~3年後に沖縄に戻ってきたこともありました。

1970年、当時30代だった大城さんは突然、「引退公演」を行います。知名定繁さん、嘉手苅林昌さんらが出演し、観客も引退を惜しんで盛り上がりましたが、舞台に登場してあいさつを始めた大城さんは一転、「これを機会に今後、ますます唄の道に精進したい」「これからもよろしくお願いします」などと宣言。皆がびっくり仰天した、という〝伝説〟も残されています。

大城さんは、嘉手苅林昌さんとのコンビ唄で人気を博しました。「島唄の神様」「風狂の歌人」とも呼ばれ、即興の詞で自由に歌う嘉手苅さんに対して、大城さんも全く動じることなく即興で自在に詞を紡ぎ、絶妙な掛け合いを披露しました。

「嘉手苅林昌さんと真っ向から渡り合うには、相当たくさんの歌詞が頭に入っていないとできない。それを彼女は平気でやっていましたからね。歌詞の意味を心に念じて表現することが大事だと、いつも話していました。普段はテーゲー(沖縄の言葉で「いいかげん」などの意味)なところがあって、約束を守らなかったり、時間に遅れてきたりするから、たまに腹が立つこともあるんですけど、会って顔を見ると気が抜けてしまうんですよ、誰に対しても優しくて思いやりがあって、愛すべき人でした」と知名定男さん。

そして、「唄の上手下手は、人が決めるものじゃない」という大城さんの言葉が印象に残っていると言います。「100メートル競走だと誰が1番2番かわかりますけど、唄は順番をつけられるものじゃないと。競争意識というものが全くない人でしたね」

何度か一緒にアルバムを制作したリスペクトレコードの高橋研一さん(60)は、いつもニコニコしている大城さんの表情が印象に残っているそうです。

「沖縄の海辺に吹くそよ風のように穏やかで、軽やかな方でした。風のように各地を放浪して、そのときの風がずっとご自分の中に残って、吹いていたんじゃないかと思います」

2012年12月、故登川誠仁さん(右)と共演した大城美佐子さん=東京・赤坂の草月ホール、戸澤裕司氏撮影
2012年12月、故登川誠仁さん(右)と共演した大城美佐子さん=東京・赤坂の草月ホール、戸澤裕司氏撮影

「耳で聴いて覚えた」舌を巻くテクニック

大城さんは映画「夢幻琉球 つるヘンリー」に主演したほか、「ナビィの恋」「ホテル・ハイビスカス」「涙そうそう」などにも出演。全国区で名前を知られ、沖縄県外に弟子やファンが多いことでも知られています。

弟子で唄者の堀内加奈子さん(43)は、北海道の出身。那覇にある大城さんの店を訪ねて「習ってもいいですか」と聞くと、「来れるときに来たらいいさぁ」と言われたそうです。それから10年余り、毎晩店で働いて唄を学び、2003年にはパリで一緒に演奏。2011年には師弟2人でアルバム「歌ぬ縁」を出しました。

「美佐子先生は、生活の中から生まれた言葉をきちんと伝えたいと、発音や言葉遣いをとても大切にしていました」と堀内さん。「隠れて三線を弾いていた時代を生きてこられているので、男気もありつつ、男性を立てる方でした。パリに行ったときは、事前に『パスポートだけは忘れないでね』と念を押したら、『あんたが忘れるな、忘れるなって言うから、忘れてきたさぁ』って(笑)。パリでは、向こうのおばちゃんたちが食い入るように聴いていて、美佐子先生が歌う民謡の力はすごいと思いました」と振り返ります。

「大城さんは女性民謡歌手の先駆者。沖縄の外にも、そのすそ野を広げた」と語るのは、島唄解説人の小浜司さん(61)。1988年から約15年、大城さんのマネジャーを務めました。大城さんは人前では練習せず、ひとりでコツコツと努力していたそうです。そんな彼女の唄は、今の若い歌手にはまねできないと、小浜さんは言います。

「特に女性が三線を弾くと嫌われた時代に、男性民謡歌手が舌を巻くぐらいの三線のテクニックがあった。料亭とかでの演奏を耳で聴いて覚えたんでしょう。そして、民謡歌手と料亭の歌手、両方をこなせる人でした。民謡歌手はスピーカーを通して歌うけど、料亭の歌手は、100人の前で声を張り上げて歌ったり、四畳半の差し向かいでお客さんの顔色を見ながら即興で歌ったり、踊りの地方として歌ったりする、高度で幅広い技術が必要なんです。男性と女性で微妙に違う節回しも、巧みに歌いこなしていました」

大城さんはビクターエンタテインメントから出したアルバム「片思い」を含め、ソロ作品や他の唄者との共演作など、多くの作品を発表しています。最後のアルバムになった2017年の「島思い〜十番勝負」では、宮沢和史さん、知名定男さん、ネーネーズらと共演しました。

大城美佐子さん(写真は大城美佐子オフィス提供)。堀内加奈子さんによると、実は極度の恥ずかしがり屋。「ライブの最初はいつもお客さんの顔を見られなくて、下を向いて歌っていたんです」
大城美佐子さん(写真は大城美佐子オフィス提供)。堀内加奈子さんによると、実は極度の恥ずかしがり屋。「ライブの最初はいつもお客さんの顔を見られなくて、下を向いて歌っていたんです」

Facebookに今も投稿される思い出

私が最後に大城さんの唄を生で聴いたのは、2019年11月に沖縄県うるま市で行われた知名定男さんのリサイタルでした。大城さんは知名さんの曲「うんじゅが情…その後」を歌いました。「難しい唄でみんな敬遠するんですけど、あえて歌ってくれて、ありがたかったです」と知名さん。

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、2020年春から大城さんは店を閉めていました。今年の正月には知名さんと一緒に泡盛を飲み、「お互いに年寄りくさくならんで、これからも頑張っていこうね」と語り合ったそうです。けれども、1月半ばの夜、弟子たちが自宅を訪ねると、大城さんは眠るように亡くなっていました。享年84歳。急性心筋梗塞でした。

コロナ禍にもかかわらず、葬儀には数百人が参列。沖縄に行けなかった全国のファンがFacebookに「大城美佐子LoveForeverグループ」を作り、思い出の写真や動画、エピソードを、2カ月たった今も投稿し続けています。

女性が自由に生きることが難しかった時代に、自分自身に正直に、好きな唄の道を貫いた大城さん。しなやかでおおらかな生き方には、多くの人が引きつけられました。

嘉手苅林昌さんが愛唱し、大城さんが歌い継いだ民謡「白雲節」には、次のような一節があります。

「飛ぶ鳥の如に自由に翔ばりてれ」

大城さんは今、大空を自由に羽ばたいているのかもしれません。

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