IT・科学
「コロナは風邪」に潜む〝万能感〟社会的に終わらせたがるわたしたち
陰謀論もスピリチュアル系も陥る幻想、思考することを拒む「死の問題」
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陰謀論もスピリチュアル系も陥る幻想、思考することを拒む「死の問題」
新型コロナウイルスを巡っては、「コロナはただの風邪」などとして根拠のない情報を信じたり、緊急事態宣言後も外出が減らない「コロナ慣れ」が起きるなど、現実逃避とも言える行動が起きました。ワクチンの接種が始まったとはいえ、医療機関は今も危機的状況と背中合わせであるのに関わらず、なぜ「なかったこと」にしようとするのでしょうか? すべてをコントロールできると考える〝人間の万能感〟が見えなくしているものについて考えます。(評論家、著述家・真鍋厚)
新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)が始まってから1年が経ちました。WHO(世界保健機関)がパンデミックに当たると宣言した後、ジャーナリストのジーナ・コラータは、「歴史家によれば、パンデミックには二つの典型的な終わり方がある」と投げかけました。
「医療的な意味での終わり方は、発症率と死亡率の急落によるもので、社会的な意味での終わり方は、病気に対する恐怖の流行が落ち着くことによるものだ」
そして、著名な医学史家であるジェレミー・A・グリーンのコメントを紹介しながら、こう続けます。
「人々の『いつ終わるのか』という問いは、社会的な意味での終わりについて尋ねている」という(〝How Pandemics End〟/The New York Times)。
実際、わたしたちの周囲は多かれ少なかれ後者の「社会的な意味での終わり」を積極的に重視するような形で推移しました。
コロナをただの風邪とみなして、この危機が作り出されたものだと断定する「コロナ否認」と、もはやコロナが日常となり緊急事態宣言が単なるお題目と化す「コロナ慣れ」は、自粛によるストレスが限界に達したことの証拠である以上に、「社会的な意味での終わり」を早々と告知するふてぶてしい使者であったのです。
少なくない人々にとって、今やコロナ禍は、世の中に数ある不安を誘う出来事の1つでしかなく、とりわけ優先度が高い問題だとは認識されなくなりつつあります(ハイリスク層にいまだワクチンが行き渡っていなくてもです)。
つまり、依然として事態は大きく変わってはいないけれども、人間の側の解釈がどんどん変わっていっているのです。これは、犠牲者を抑える「ファクターX」に恵まれた国、恵まれなかった国に関係なく現れた傾向です。
わたしたちはこれまで、すべてはコントロールが可能だという幻想を生きてきました。
自然を作り変える技術とその蓄積がもたらした幻想であり、それは「スマートシティ」構想に典型的な安全性が担保された便利で快適な空間の追求です。
不意の災害による被害は一時的なアクシデントに過ぎず、社会システムの機能不全は程なく回復されると……。言い換えれば、予測や計算の枠内で収まる世界こそが通例であり、その枠内に収まらない世界は異例であったのです。
まるでこの地上において物語の主人公として振る舞っていた役者が、未知のウイルスの闖入(ちんにゅう)によって端役に追いやられてしまったかのように、コントロール幻想に基づくわたしたちの自尊心は打ち砕かれました。
手っ取り早い処方箋は、過去の歴史を洗いざらい調べ上げて相対化し、今回の被害を進んで矮小化することです。
「こんなことは想定の範囲だ。犠牲者は少し寿命が早まった運の悪い人々である」と居直ってみせるのです。
もしくは、ウイルス禍をあえて重要な局面とはみなさず、医療従事者の悲鳴や、不幸にも亡くなった高齢者や基礎疾患のある者に目を瞑ることで、世界中で積み上がっている200万を超える犠牲者を「自分とは何の関係もないもの」と割り切ってしまうのです。
これでマスクや行動制限にわずらわされない「人間らしい」自由な生活が戻ってくるというわけです。解釈の修正は、その痕跡を残さないどころか、意識されることがほとんどありません。
思えば、特定の組織の仕業だと断定する陰謀論や、神の計画であるとするスピリチュアル系の言説も、実のところコントロール幻想の派生物といえます。
仮に黒幕が世界的な秘密結社なのであれば、それはレジスタンスによる革命が含意されたコントロール可能な主体であることが、また、大いなる宇宙の意志がもたらしたものであれば、それが最終的に福音として機能する余地がある限り、コントロール可能な主体であることが露わになります。
哲学者のスラヴォイ・ジジェクは、「確かに、我々は天罰を受けるとか、全宇宙が(地球外の誰かですら)人間の存在に関与しているとかいう考え方には、たとえ生存自体が脅かされる事態も、安心させる何かがある」と述べています。
そして、その背後にあるのは「自分たちは、一種、根本的な意味で重要なのだと思いたい」という意識であると分析。「ものごとの大きな道理の中で、我々人類という種には、特別の重要性はないのだ」と看破しました(『パンデミック 世界をゆるがした新型コロナウイルス』中林敦子訳、Pヴァイン)。
これは何も「自己卑下せよ」などと挑発しているのではなく、自分たちを特別視するナルシシズムに立脚したコントロール幻想を捨て去ることを推奨しているのです。
そもそも偶然性の産物といえる病原体に、取り引きや契約といったコミュニケーションは通用しません。
マクロレベルで見れば、わたしたち人類は地球という生態系における膨大な役者のうちの一人であり、それらの複雑極まるネットワークの人知を超えた因果に絶えず「動かされている」のです。
例えば、気候変動をめぐる問題はその最新版といえます。グローバルな産業構造にルーティーンとしての自然破壊が組み込まれた時点で、いつどのように爆発するか分からない〝環境時限爆弾〟がセットされたようなものなのです。新型コロナウイルスの出現をそのうちの1つだと唱える人もいます。
生物地理学者のジャレド・ダイアモンドは、『危機と人類』(小川敏子・川上純子訳、日経ビジネス人文庫)の日本語版文庫の序文で、「人類文明に対する真の脅威はコロナ禍ではなく、気候変動、資源枯渇、地球規模の不平等」だと主張しました。
加えて、これらは「私たちを死にいたらしめるまで時間がかかるし、死因としても曖昧なままになる」というのです。
近い将来、わたしたちに襲い掛かるであろうその死が、何によるものであるかが不明瞭になっていくのです。
もちろん、これを奇貨として、自分たちの経済活動や生命倫理について考え直す気運が高まるかもしれませんが、かえって事態の悪化から自分たちを切り離し、コントロール幻想にしがみつく作法に逃避する動きも盛んになることでしょう。
「何も大したことは起こっていない」という妄言と、「名指しできる」犯人捜しです。
小説家のパオロ・ジョルダーノが『コロナ時代の僕ら』(飯田亮介訳、早川書房)で「現実がますます複雑化していくのに対し、僕らはその複雑さに対してますます無関心になってきている」と書き記した通りにです。
わたしたちに根本的に必要なのは恐らく、「特別の重要性」がない役者であることを自覚しつつ、思い通りにならない生態系とどう関わっていくかという問いなのです。
これはミクロレベルで考えればより事の本質が明確になります。
近年、わたしたち人間を細胞や細菌、菌類、ウイルスが高度に組み合わさった「超有機体」(superorganism)という概念で捉える学説が登場しています。
それをサイエンスライターのアランナ・コリンは、「あなたは生まれた日から死ぬ日まで、アフリカゾウ五頭ぶんの重量に匹敵する微生物の『宿主』となる」と表現しました(『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』矢野真千子訳、河出書房新社)。
わたしたちは地球における人類の従来のスタンスと同様に、途方もない微生物たちとの共生関係に驚異を見い出すこともなく、自分がこの超有機体の主人であるかのような顔をし、他の存在をいわば従者とみなししまっています。
わたしたち自身が究極的にはコントロールすることができない生命現象の産物であることすら忘れ、生物個体として必然的に受け入れなければならない衰弱と死については考えないようにしています。
あらゆる病が科学とおまじないによって退散できるという神話は、このような意識に上らない生命活動への依存を過小評価する、精神と知性に偏重した人間性を崇拝するイデオロギーの上に築かれているのです。
そうして、自分たちがあたかも――生物的な限界に左右されない――生態系の「外」にいるかのごとき錯覚を抱くようになります。
ナルシシズムの最も大きな弊害は、自らが物事の中心にいると思い込むことよりも、自らを死すべき存在だとは認めないということなのです。
これはコントロール幻想の核心にあるものであり、今後地球がどのような状態になろうとも(なぜか)人類だけは生き残るという、楽観的なシナリオを支えている深層心理と通じるものがあります。
気候変動によって生じることが想定されている数千万、億単位の犠牲者も、前述した矮小化と切断処理によって無害化される可能性が十分あり得るということです。
わたしたちが思考することを拒んでいる死の問題の中にこそ、マクロレベルの危機を乗り越えるための糸口が潜んでいるのです。
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