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志村けんの愛弟子が明かしたマンネリの凄み「自分が飽きちゃダメ」
最初に何件かきた取材の依頼をお断りしたんです。ただ、上島さんから言葉をいただいて考えを改めました
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最初に何件かきた取材の依頼をお断りしたんです。ただ、上島さんから言葉をいただいて考えを改めました
昨年2020年3月29日に亡くなった志村けんさん(享年70)の弟子で、現在は故郷の鹿児島でタレント・ご当地リポーターとして活躍する乾き亭げそ太郎さん(50)。2021年2月26日、志村さんの命日を前に著書『我が師・志村けん 僕が「笑いの王様」から学んだこと』(集英社インターナショナル)を出版する。コメディアン・志村けんの魅力、コント番組以外に出演し始めたきっかけ、今も続く師匠の影響など、約7年間付き人を務めた弟子、げそ太郎さんだけが知る志村さんについて聞いた。(ライター・鈴木旭)
乾き亭げそ太郎(かわきていげそたろう)
――高校を中退してすぐの1988年に上京。いろんなお仕事を経て、1994年の秋に志村さんの弟子志願でイザワオフィスを訪問されています。なぜ志村さんだったのでしょうか?
まず、原体験として『8時だョ!全員集合』がすごく好きだったのがあって。その後の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』(ともにTBS系)に夢中になったんです。ドラマ仕立てのコントというのをその時はまだ見たことがなかったので、すごく衝撃を受けました。
無理に笑いをとりにいくような「コントコントしていない感じ」がすごく新鮮で、格好よかったんですよ。本編が始まる前のオープニングも、すごく凝った撮り方をされていましたし。そこで完全に「うわぁ~」って心をわしづかみにされて、「全員集合よりこっちのほうが面白い」ってなっちゃいましたね。
当時、お付き合いしていた彼女にも「3カ月だけ時間をください。志村さんの弟子になれなかったらお笑いをあきらめます」と伝えたんです。なぜか僕の中ではその思いしかなかった。あんまり深く考えていなかったのか、「断られたらどうしよう」とかじゃなく、「志村さんの弟子になるか、夢をあきらめるか」っていう二つに一つしかなかったんですよね。
――ちなみに志村さんは、いつから弟子をとるようになったんですか?
僕の前が元ジョーダンズの山崎(まさや)さん。もっと前にも、後に作家さんになったりした人はいるらしいんですが、表立って志村さんのもとで勉強したっていうのは山崎さんと僕しかいないですね。当然、弟子志願で入ってきた方はいますけど、途中であきらめてしまうこともあったようなので。そういう方を含めるなら、僕の前にも何人かいらっしゃったと思います。
山崎さんは僕と1カ月間被っていて、その間に付き人についていろいろと教わりました。当時、山崎さんと「デシ男」のモデルになったと言われている現場担当のお弟子さん、あと運転手を務めている方の3人が志村さんに付いていて。僕が入った当初は、その運転手さんから引き継ぎをしてもらった感じです。
――主に付き人時代について書かれた本『我が師・志村けん~』(集英社)が間もなく発売されます。興味深いエピソードばかりだったのですが、まずは本を出すに至った経緯を教えてください。
志村さんが亡くなった後、最初に何件かきた取材の依頼をお断りしたんです。ただ、本にも書きましたけど、上島(竜兵)さんから「それは師匠がくれた仕事だから受けなきゃダメだ」という言葉をいただいて考えを改めました。その後、亡くなって1カ月後ぐらいに文春オンラインさんの取材を受けたんですけど、その記事を読んだ集英社の方から「本を出してみませんか?」とお話をいただいた感じですね。
――本の中に「休みは原則としてありません」と書かれています。付き人は大変な日々だったと思いますが、その中でも「これは堪えたな」というエピソードがあれば教えてください。
やっぱり自分の時間がないっていうところですかね。でも、それも結局は自分の言いわけで。一番すごい人のそばにいて、一番チャンスがあるところにいるのに、何もしてなかったっていう。まぁそこに気付いたのは、付き人の途中になってからですけどね。
当時は、お休みの時でもいつ呼ばれるかわからないし、飲んでいる時でもいつ電話が掛かってきて「今からきて」と言われるかわからない。ちょっとでも僕が遠くに行っていたら、もうそこで待たせてしまうわけで気が気じゃないというか。常に心を緊張させて、志村さんに向けているような毎日でしたね。
――げそ太郎さんが弟子入りしたのは、『志村けんはいかがでしょう』(フジテレビ系)が放送されていた時期です。当時、なぜ志村さんはドリフとご自身の番組にしか出演されていなかったのでしょうか?
たぶん、「トークが苦手」というのが、志村さんの中にあったと思うんです。それは常々口にしていたんですよ、「オレはトークが苦手だ」って。そこの意識がすごく強かった気はしますね。一方で、「コントが好き」っていう思いも強かった。もしかすると、そっちのほうが大きいかもしれないですね。
飲みの席で、若手の方に「ゲームみたいなことばかりやってちゃダメだ」「ネタは大事にしたほうがいいよ」っていうようなこともおっしゃっていて。実際に志村さんの『バカ殿』(『志村けんのバカ殿様』・フジテレビ系)とかで、旬なお笑いの人たちをゲストに迎えると、たいがいネタの時間を作ってましたもんね。そこからコントに入っていったりとか。
だから、ネタというのはすごく大切にしていた部分ですよね。若手に対してもリスペクトの気持ちがあったんだと思います。
――志村さんは「ネタの新しさ」よりも、「自分の芸を見せる」という意識が強かったように思います。そうした姿勢に至ったのには、何かきっかけがあったのでしょうか?
志村さんは「マンネリになるまで持っていくことがすごい」っていう方でしたからね。「そこまでやり続けられることがすごいんだ」っていう意識を持っている方でした。
『全員集合』の時に「カラスの勝手でしょ♪」が流行(はや)って、ちょっと志村さんが飽きてきた頃に一度やめてるんですよね。そしたら、「うちの子があれを見ないと寝ない」みたいなクレームの電話がたくさん掛かってきた。そこで、志村さんが「自分が飽きちゃダメなんだ」って痛感したみたいで。志村さんから「飽きた」って言葉が出なくなったのは、そこからだと思います。
だから、常に同じキャラクターをやるし、同じネタをやる。あと、ゲストが入ることで受け手が変わるじゃないですか。志村さんの理論でいくと、受け手が変わると、違う間になるし違う言葉になる。「素材は同じだけど、やっていることは新ネタなんだ」っていう意識のもとでやっていましたね。
――1996年10月からスタートしたフジテレビ系列の『Shimura-X』シリーズから、ゴールデン帯の番組が終了して深夜帯へと移行しています。ちょうどコント番組が減少した時期とも重なりますし、「志村けん死亡説」が流れた時期でもあります。この頃の志村さんはどんなお気持ちだったのでしょうか?
周りにいる僕らとしては、「これ大丈夫かな」ってちょっと焦りました。子どもの頃からずっとゴールデン帯でやってきた方が、深夜の関東ローカルだけになって「あれ?」って一瞬不安には思ったんです。
ただ、ご本人は全然動じてなかったですね。僕が見ている限り、アタフタしている感じはまったくなかった。普段通りお酒を飲んで、普段通りゴルフに行って(笑)、本当に変わらずでした。プライベートのことは、他人にどう思われようが関係ない。「独身だし、別に何やってもいいだろ」っていうようなスタンスでしたね。
「志村けん死亡説」もどうってことないって感じでした。志村さんのコントに対して「もう飽きた」っていうような声があったことはご本人の耳にも入っていたでしょうけど、それに関しても別に気にしていなかった。
たぶん、ネタそのものについて言われたほうが傷ついたと思いますよ。「あそこが面白くない」なんて面と向かって言う人はいないでしょうけど、もしいたら間違いなくケンカになっていると思います。「志村けん死亡説」よりも、『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)が再放送だと思われていたことのほうがショックを受けていましたから。「ちゃんとやってるよ!」って(笑)。
――今振り返ると、『加トちゃんケンちゃん~』と『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)が並走していた時期というのは、寝る暇もないほどの忙しさですよね。むしろ、『だいじょうぶだぁ』終了後はゆとりを持ってコントを作れたのかもしれません。
志村さんの場合、ネタ作りや構成、舞台セットの案から演者まですべてかかわっていたわけで。それが毎週2本は想像を絶する毎日だったと思います。
たぶん深夜帯に移っても動じなかったのは、映画のDVDを毎日一本見るとか、毎朝欠かさずニュースに目を通すとか、自分の中で「これさえやっておけば絶対大丈夫」っていうようなラインがあったと思うんですよ。だからこそ、あえてほかのものに手をつけないというのもあった気がします。自分の頭の中で計算できるっていうのが絶対にあるので。
たとえば舞台の『志村魂』にしても、最初のほうは新しい血を入れようってことで劇作家のケラ(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)さんとかも参加していますけど、そこは志村ワールドじゃなかったんですよね。自分の世界を持っているので、そこを長年の経験ですごくわかっていたと思いますね。
――とはいえ、一度は受け入れるあたりが志村さんの懐の深さですよね。
僕が付き人になって最初に言われたのは、「笑いは正解がない世界だ」ということです。何がどうなるかはわからないってことを、すごく理解されていた方なんだと思います。芸歴を重ねても、その考え方はどこかにあったんでしょうね。
――その一方で、必ず松竹新喜劇の演目を披露されていました。子どもにはわかりづらい部分もあると思いますが、ここは志村さんのこだわりが反映されていそうです。
ただ、松竹新喜劇も子どもにウケてるんですよ。そこが本当にすごいなと思って。(藤山)寛美さんがやる阿保役を志村さんが演じる時に、子どもの笑い声が聞こえてくる。子どもにウケる演出をしたわけじゃないと思います。むしろ、あえて狙っていなかったんじゃないですかね。
「子どもを笑わせよう」っていう考えは志村さんの中にないので。「ここで笑いをとって、ここで泣かせる」っていうような計算はありましたけど、大人が子どもに合わせて笑わせようとしても「バカにするなと見抜かれる」と考えていましたから。
――その後、1997年後半あたりからドリフや自分の番組以外のバラエティーに顔を見せるようになります。何か心境の変化があったのでしょうか?
当時のマネジャーさんの力も大きい気がしますね。その頃の志村さんを、もうちょっといろんなところに出そうと促したんですよね。それにプラスして、ダウンタウン・浜田(雅功)さんの番組に出た時に楽しかったのもあるかもしれないですね。
――もしかして、『人気者でいこう!』(朝日放送系)ですか? たしか「『バカ殿』の衣装で喫茶店に入ったら周囲はどうなるか?」みたいなロケ企画で、すごく楽しそうだったのを覚えています。
はい、それですね。最初は素で出るのが恥ずかしかったので、キャラクターの扮装をしていたんですよ(笑)。実際の現場でも、志村さんはすごく楽しそうでした。
――先ほどマネジャーさんの影響も大きいというお話がありました。いつから志村さんを担当されていたのでしょうか?
僕が志村さんに付いて半年後かもう少し先、『いかがでしょう』(1995年9月終了)の後ぐらいから2011年ぐらいまでのマネジャーさんですね。
――まさに志村さんがコント番組以外のバラエティーに顔を見せ始めた時期ですね。なぜ志村さんはマネジャーさんの意見を受け入れたと思いますか?
いや……どうなんでしょう。「旅番組に出よう」とか「本を出そう」みたいな働きかけをして、その部分で志村さんと闘っていたのは間違いないですね。もともと志村さんはコントだけやりたい人だから嫌がっていましたし。
だから、最初は「ほかの番組に出る時はメイクをする」っていうのが志村さんとマネジャーさんの妥協案だったと思うんですよ。それにプラスして、最初の頃は一人では出ていない。1997年のお正月に出演した『さんまのまんま』(関西テレビ制作・フジテレビ系)にしても、桑野(信義)さんと『バカ殿』の衣装で出ていますから。
そういう感じで、ちょっとずつ不安要素を取り除いていったんだと思います。最初は志村さんのリクエストを受けつつ、志村さん自身も一人や素の姿で出演することに慣れていったというか。ご本人は苦手意識があったんでしょうけど、当然トークも面白い方なので(笑)。それからは、いろんな番組に出るようになりましね。
――放送作家・高田文夫さんがご自身のラジオ番組でおっしゃっていましたが、ある日、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の生放送の現場に志村さんが見学にきたことがあったらしいんです。そこで、たけしさんのトークを目の当たりにして「到底私にはできない仕事です」と言って帰っていったそうで。トークに対する苦手意識はその体験もあったのでしょうか?
その影響はどこかにあったかもしれません。でも、そんなお二人が後に共演するわけですからね。僕はその現場を見てるから、今振り返って本当に幸せな時代に付いていたなと思いますよ。コントもそうですけど、志村さんが津軽三味線、たけしさんがタップでコラボしたりして、芸を持っている人たちが本当に面白い番組を見せてくれました。ただ、なかなか視聴率につながらなかったみたいで、そこはちょっと寂しい感じはしましたけど。
――たしかにもっとお二人の共演を見たかったですね。志村さんは晩年まで深夜帯のコント番組を継続されましたが、「お笑いが好き」という思いのほかにコントを続けた理由はあると思いますか?
単純に好きって気持ちが一番だと思います。『アメトーーク!』(テレビ朝日系)の影響が大きいと思いますけど、十数年前から趣味を語るようなタレントさんが増えましたよね。ダチョウ倶楽部の(寺門)ジモンさんだったら、お肉だったりスニーカーだったりってところがフィーチャーされたりもして。
そんな時期に、飲みの席で上島(竜兵)さんが志村さんに「僕も何か趣味とか作っていったほうがいいんですかね?」と相談したことがあったんです。これに志村さんは「いや、竜ちゃん。オレたちにはお笑いがあるじゃないか」って返していました。「ほかに手を出すことはない。オレらはお笑いが趣味なんだから、それでいいんだよ」と。
だから、生涯に渡ってお笑いを愛していた人ですよ。若手の子のコント番組とかもしっかり見てましたもんね。尊敬の念を抱いていたんじゃないですか、芸歴は関係なくお笑いの人たちに。「ネタをやり続けてほしい」ってよく若手の人に言ってたのは、ネタを作ることが「いかにしんどい作業か」「いかに価値があることか」をわかっていたからだと思うんですよ。
だからと言って、そのしんどい作業を自分だけが引き受けて一人勝ちしようっていうことでもなくて。やっぱり「お笑いが好き」って思いでコント番組を継続したんだと思います。
――志村さんが中学生の頃、テレビで『雲の上団五郎一座』の舞台中継を見て、父親が笑ったという原体験がありますよね。個人的には、それも継続した理由の一つだったのかなと想像しました。
う~ん……たぶん、それもありますね。ことあるごとに話していたので、根っこにはあったと思いますよ。障がいを持っている方、病気で苦しんだ方からのお手紙に目を通していて、飲んでいる席でも口にしていましたからね。「こんな子たちから手紙がきて、喜んでくれてるんだよ」ってうれしそうにしながら。そういった人たちを笑わせていきたいっていう思いはあったでしょうね。
僕の本でもちょっと書いているんですけど、耳の不自由な子に僕が「アイ~ン」ってポーズを決めただけでケタケタ笑うんですよ。それを見た時、僕は本当に衝撃的だったんですよね。そういう人にも笑いを届けられている志村さんはすごいなって。
差別とかじゃなくて、言葉が通じない人にも届けられるっていう。やっぱりそういう子から「面白かった」って声がくるとうれしかったんでしょうね。
――げそ太郎さんが鹿児島を拠点に活動するようになった2010年以降も、いろんなところで志村さんの影響があったようですね。身をもって存在の大きさを感じたんじゃないですか?
どんな場所に行っても、「志村けん」って名前は誰もが知っている。それがすごいんですよね。
僕が鹿児島のローカル番組に出演して2年くらい経った頃、県内の端っこに行くと名前を知られていないってことがありました。ただ、そこで「実は志村けんの『バカ殿』に出てるんですよ。メガネをかけた家来役で」って伝えると、「あー、知ってる!」ってなるんですよ。
そんな体験をすると、やっぱりすごい人だなと改めて痛感します。いまだに、志村さんの名前にあやからせてもらっていますね(笑)。
――エピソードに説得力を感じます(笑)。鹿児島でお笑いライブを立ち上げたのも、志村さんの影響があったそうですね。
番組の改編で、次の番組が決まるまで志村さんがコントをやれない期間があったんです。その時、志村さんが「コントを1カ月やらなかったら感覚がにぶる」と話していたのが印象に残っていて。僕がいざ志村さんの番組に呼ばれた時に、「お笑いの感覚ってどんどん落ちていくな」とも感じていたのでお笑いライブを立ち上げました。
それと、今はリポーターっていう仕事をやっていますけど、「僕の帰る場所はここなんだ」って志村さんの遺志を引き継ぎたい思いもありましたね。格好つけとかじゃなくて、自分はお笑いの人間なんだって思える場所を作りたかったんです。
そういう意味でも、志村さんの求心力って本当にすごいなと。上島(竜兵)さんとかともよくお話をするんですよ、「志村さんが生きてる時に周りに与えた影響も当然すごかったけど、亡くなってからもそれがずっと続いてるな」って。亡くなってもうすぐ1年になりますけど、こうしていまだに志村さんで僕は仕事をもらっているわけですから。志村さんの求心力に生かされている気がしますね。
――最後にお会いになったのは、2019年7月に新歌舞伎座で行われた『志村魂』だったそうですね。その時の会話は覚えていますか?
舞台が終わってから楽屋に行って「勉強させてもらいました」みたいなお話はしました。ただ、そこはサラッと言葉を交わした程度で、公演前の楽屋にあいさつに行った時のほうが衝撃的でしたね。
志村さんって少し間があくと人見知りするんですけど、その日は志村さんのほうから「おう、きたか」と先に笑いかけてくれたんですよ。本当にうれしかったですね、付き人時代にはそんなことなかったから。ただ、その日が最後になるなんて思いもしなかったですね。
――志村さんが亡くなられてから、もう少しで一年になります。改めて、どんな師匠で、どんなコメディアンでしたか?
近い距離感ではありますけど、僕が思いっきり踏み込めていたかと言えばそうでもないですし。弟子であること、すごく尊敬している部分も含めて、一定のラインはありましたよね。上島(竜兵)さんたちが志村さんに「おいハゲ!」っていうようなやり取りにもあこがれてはいましたけど、やっぱり僕はできないなって思ったし。
不思議な存在なんですよね。弟子として志村さんが「今何をほしがっているか」「これはどういう感じでコメントしているのか」すべて把握しておきたいところがあって。「志村さんのことを一番わかっているのは僕だ」って言いたい部分もあったし、それでいて「志村さんを笑わせたい、認められたい」っていうのもすごくあったし。
なんて言ったらいいんですかね……。「僕が一番理解しているし、僕を一番認めてほしい」って思いが湧き上がる人でした。
世間で何を言われようがどうでもよくて、志村さんは常に「自分の笑いが今の人たちに伝わるか」のほうを気に掛けていました。だからこそ、舞台をやりたかったっていうのもあるんですよね。志村さんのコントで観客から笑いがドーンッと返ってくる。それで「やっぱり間違っていなかった」と安心して、また次の舞台に挑む。そういう確認作業をずっとしていました。
志村さんはお笑いの人も認めていましたけど、ミュージシャンの人も「音楽をやってるから、間がすごくいい」とよくおっしゃっていました。けっこうミュージシャンの方と絡むコントもありましたし、間の大切さっていうのはすごく大事にされていましたね。「どんなにくだらなくても、いい間でツッコめば笑うんだよ」と。それはもともとドリフターズがミュージシャンで、志村さんもその感覚を持ったコメディアンだったからだと思います。
だからと言って、どんなコメディアンかは僕なんかが表現するのはおこがましいです。ただ、本当に努力の天才ですよね。もともと持っている才能もありますけど、決して手を抜かずに努力し続けた人だと思います。僕にどれだけのことができるかわかりませんが、今後少しでも志村さんの遺伝子を残せるように頑張りたいですね。
げそ太郎さんは、実に朗らかな芸人さんだ。穏やかな顔つきや鹿児島弁も相まって、人のよさを感じさせる。それでいて、どこか芯の強さを思わせる語り口だった。職人気質の志村さんにとって、ある種最高の理解者だったのではないだろうか。
「僕が一番理解しているし、僕を一番認めてほしい」という感情は、師匠を慕う弟子だからこそ生まれるものだ。付き人として大変な思いもあっただろうが、それ以上に志村さんは格好いい姿を見せていた。だからこそ、げそ太郎さんは今もなお師匠の背中を追い掛け続けているのだと思う。
今回は本という形だったが、志村さんの間近にいた経験をぜひそのほかの活動にも生かしてほしい。それが、げそ太郎さんの芸人としての核となり、師匠の遺伝子を残す働きにつながることを切に願う。
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