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連載

#25 Busy Brain

小島慶子さんの高校時代「太ることが急に怖くなり」始まった摂食障害

「女の幸せは男次第」の社会で、プレッシャーを感じていました

小島慶子さん=植田真紗美撮影(朝日新聞出版)
小島慶子さん=植田真紗美撮影(朝日新聞出版)

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、小島さんが高校時代に太ることを怖れるようになり、口に入れて味わってから吐き出す「チューイング」が始まったきっかけについて綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)

幼い頃から感じていた、すうすうと寂しい気持ち

 一人でいるのは好きですか。苦手な人もいるでしょう。私もかつてはそうでした。一人でいるのは、大嫌いな自分と二人きりになるということ。ダメな自分のことを考えないように、なんとか気をそらそうとするのですが、よりによって考えるのをやめようとしないおしゃべりな脳みそなもので、ダメ出しが止まらないのです。若い頃は、読書や音楽や恋愛など、とにかく脳みその注意を自分自身から逸らすために、夢中になれるものを常に探していました。

 幼い頃から、なんだか胸にすうすうと寂しい気持ちがありました。家族と車に乗っている時や、テレビを見ている時などにふと「ああ、他にも子どもがいたらなあ」という気持ちになったものです。実際、姉とは9歳離れており、いとことも滅多に会うことがなく、日常的に接する同年代の身内はいませんでした。ただ、あの寂しさはそれが原因ではなく、心の中に安心できる場所がなかったからなのかもしれません。

 心がどこかにしっかり繋がっていれば、一人でいてもすうすうしないものです。実際、今の私はオーストラリアの夫や息子たちと8000キロ離れていても、東京での一人暮らしであの身の置きどころがないような孤独を感じることはありません。必要なのは同居人じゃなくて、心の中のホームなんだなとつくづく思います。なんでも話せる仲間がいるという心強さ。心理的安全性の高い”居場所”となるような人間関係に恵まれていれば、きょうだいがいようがいまいが、同居人がいようがいまいが、寂しくはありません。

 今年大学1年生と高校1年生になる息子たちは、今は成長して落ち着いたものの、以前はよくくだらない喧嘩をしていました。お菓子を食べた食べないとか、どっちが先にシャワーに入るかとか、実に些細なことで揉めるのです。

 それを見て、おお、かつて私がしたかったのはこれだよなあと思ったものです。くだらない言い争いがくだらないまま終わる関係って素晴らしい。些細なことが平手打ちや罵倒の言葉に繋がりかねない関係では、くだらない喧嘩はできません。

 あれは寂しさというよりは、安全への憧れだったのかもしれません。いつも家族の機嫌を損ねるような地雷を踏んでしまう間抜けな自分が情けなかった。そもそも家の中が地雷原なのは過酷すぎます。でも、他の家庭を知らなければ、それが普通だと思うもの。

 アニメの「サザエさん」で、カツオが姉のサザエに怒られたあと、尾を引くことなく一家団欒(だんらん)のシーンになったのを見て、「えっ、もう誰も怒っていないの?!」と驚きました。家族にほとんど怒鳴られたことがなく、一度も叩かれたことがない子もさほど珍しくはないことに気づいた時も、本当にそんなうまい話があるのか?とにわかには信じられませんでした。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

家族の愛情深い面と、そうでない時とのギャップに

 こう書くと私の育った家庭が24時間修羅場だったように思うかもしれませんが、そうではありません。だからややこしいのです。父も母も姉も、温かい家庭を望んでいて、家族を思う繊細で優しい気持ちのある人たちです。ただ3人とも、上手な愛し方がわからなかったのです。

 絵に描いたような心ない家族なら憎んで捨てることもできますが、とても優しくて愛情深い面も見せてくれるので、そうでない時とのギャップに戸惑い、家族への期待が捨てられませんでした。いい時と悪い時がどういう法則で現れるのかがわからず目が回って、ここから出たいという気持ちと、ここを出たら生きていけないという気持ちとに引き裂かれてしまう。家族に対してそんなふうに思ってしまうことに、強い罪悪感を覚えました。

 大人の視点で見れば、両親や姉の苦しさもよくわかるのですが、子どもの養育という観点で見れば、そのような家庭で育つ最も年少の子どもが受ける影響はやはり気がかりなものがあります。加えて当時はADHDがほとんど知られておらず、私は「落ち着きがなく癇の強い、育てにくい子ども」だったので、本人も家族も辛かったのでしょう。

 私が大泣きしたりごねたりすると、母はよくトイレにこもって泣いていました。父と姉には「ママをいじめちゃダメだよ」とたしなめられました。幼い時から母を苦しめていることに強い罪悪感を覚えていましたが、「ママはどうして私の話をちゃんと聞いてくれないのだろう。わかって欲しいから怒っているのに、なんでそれが”ママをいじめている””はんこうしている”ってことになるんだろう?」と途方に暮れてもいました。

 母との会話はちょっと難しいところがあります。厳密には再現できませんが、例えばこんな感じ。「あのねママ、私は赤と、果物が好き」「そうよね、慶子はリンゴが好きなのよね」「ううん、赤い色と、果物が好きなの」「だからリンゴでしょ」「違う、赤は赤、果物は果物。ちゃんときいてよ」「赤い果物ならリンゴでしょ?何が気に入らないの?」「違う、リンゴの話じゃないの!」「またそうやって突っかかる。どうして素直にできないの、ひねくれた子ね」「ママのばか!」「親に向かってその口のきき方は何!」以下ループ……という具合です。

 幼稚園に上がる前からそんな感じだったので「大好きなのに、ママは怒鳴ったり叩いたり泣いたりして、私も叫んだり怒ったり泣いたりしてばかり……なんでこうなってしまうのかな」と混乱していました。私は思いや考えをなるべく厳密に伝えたいという気持ちが強く、母はちょっと思いこみの強いところや早合点なところがあるので、娘がなぜ怒っているのかわからず、苛立ったのだと思います。

 母もまた、心の中に安心できるホームのない人だったのでしょう。よく「どうして普通の家族みたいにできないの」と嘆いていました。私も「普通ってなに? どこにそんなのがあるの?」と言い返しながらも、その平穏な「普通」に憧れていました。

 温かく優しく懐かしい思い出と、心を病むほど辛い記憶とが同じ人々によって与えられるのは、本当に苦しいものです。なぜ優しいあなたとひどいあなたが同じ人なのか、別の人だったらどんなにいいだろう、と。けれど我が身のうちにもそのような両面があることに気がつくと、そもそも人間というのは矛盾した存在なのかもしれないとも思います。だから凡庸な人が、状況次第で残酷にも非情にもなるのでしょう。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

苦しい時は「助けて」と言っていいんだ!

 家族の問題に気づくことができたのは、務めていた会社の診療所で産業医のカウンセリングを受けたからです。出産後に育児カウンセリングを受けたのも、赤ちゃんに当たってしまったらどうしようと怖くなったから。機能不全家族の連鎖を断ち切るには、人の助けが必要だと思いました。早くから専門家に助けを求めて本当に良かったです。一人で抱え込むことなく根気よく取り組んで、負のスパイラルから抜け出すことができました。

 苦しい時は「助けて」と言っていいんだ!と思ったきっかけは、テレビドラマです。1998年からNHKで放送していたアメリカのドラマ『アリー my Love』。主人公はキャリスタ・フロックハートが演じる女性弁護士で、職場はオープンな雰囲気のボストンの法律事務所。広くておしゃれなトイレはいわゆるオールジェンダーバスルーム、つまり男女の別がありません。ここで同僚と冗談を言ったり打ち明け話をしたり。そしてみんな悩みがあると、すぐカウンセラーのもとに駆け込んでカウンセリングを受けるのです。微熱が出たから内科に行くみたいな気軽さで。

 それを見て26歳だった私は「へえ、メンタルクリニックってこんな感じで行ってもいいんだ。私もつらい時にはカウンセリング、受けてみたいな」と思いました。その頃偶然に、勤めている会社の診療所で精神科医がカウンセリングをしていることを知ったのです。そこで半分は好奇心から予約をし、まずは母との関係について相談してみました。

 この時に出会った先生が親切だったことも幸いして、以後、つらい時には迷うことなく専門家に助けを求める習慣がつきました。精神科にかかることに対する負のイメージがなかったのは、あのドラマのおかげ。メディアの力って大きいですね。

「助けて」と言っていいと知らなかった時は、生きているのがしんどいのは自分がダメ人間だからだと、ひたすら自分をいじめていました。15歳から30歳まで続いた摂食障害はその表れの一つです。病気だなんて知らなかった。ずいぶん長い間、誰にも言えませんでした。人には言えない恥ずかしい癖、やめられない奇妙な習慣だと思っていたのです。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

「女の幸せ」の価値観に間に合わなかった世代

 高校1年生の時、9歳年上の姉が結婚しました。当時、母の持論は「いい学校を出ていい会社に勤めている人と結婚して海外駐在するのが女の幸せ」でした。それは母の実体験でした。父もそうやって大変な努力によって貧しさから抜け出したのです。両親にとって、これ以上の確かなものがあるでしょうか。

 ですから我が子のためを思って、心からそう教えてくれたのです。60年代生まれの姉はその価値観で幸せになれた世代。いわゆる団塊ジュニアと呼ばれる私は間に合わなかった世代です。

 母の理想通りの結婚をした姉の披露宴で、一人だけセーラー服姿の私は強いプレッシャーを感じていました。自分はお姉ちゃんと同じように幸せになれるだろうか。「いい学校を出ていい会社に勤める優秀な夫」を見つけることができるだろうか。母や姉のように「ちゃんとした相手」を見つけられなかったら、人生はおしまいだ。

 勉強して手に入れたセーラー服を着て、小指の爪の先でぎりぎり引っかかっている「恵まれた人たちの世界」からも脱落してしまう。上へ上へと糸をたぐっていかなくてはならないのに、足元の支えもなく引き上げてくれる人もいない。自分だけ置いていかれてしまうかもしれないと焦りました。

 幼い頃から、姉は憧れの存在でした。美術や古典芸能やオペラや香水の楽しみを教えてくれたのは姉です。勉強ができてスポーツが得意で英語がペラペラで美人で人気者。私も姉のようになりたかった。なんとしてもお姉ちゃんと同じか、それ以上の幸せを手にしなくちゃいけない、と思いました。

 披露宴に出席している義兄の友人たちは、有名企業に勤める若者ばかりです。この中の誰かが、セーラー服姿の自分を見初めて求婚してくれないかなと本気で思いました。あと9年しかないと思ったら、怖くてならなかったのです。

 姉が結婚して家を出ると、私は小島家でただ一人の娘になりました。この先は、これまで姉の結婚に向けられていた母の関心が自分に集中する。ただでさえ過干渉気味なのに、この先は全部自分一人で背負わなくちゃならないと思ったら、天井の四隅から真っ黒な煙が湧いて押し寄せてくるのが見えました。そのまま闇に飲み込まれるような恐怖を覚え、どこにも逃げ場がないことを悟りました。食べ方がおかしくなったのはそれからです。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

「女の幸せは男次第」という社会で

 発達障害を持つ子どもが適切な支援を受けられずに育つと、摂食障害や不安障害などの二次障害を引き起こしやすいとも言われます。これらは先天的な脳の機能障害とされる発達障害とは異なり、誰もがなる可能性のある精神的な病気です。私は10代から30歳まで摂食障害を患い、33歳で不安障害を発症しました。ただこれらが「発達障害だから発症した」と言えるかどうかはよくわかりません。

 幼い頃からの強い自己嫌悪は、発達障害に対する無理解や、周囲の否定的な言葉がけなどに加え、気質などの理由もあるでしょう。単純に「私はADHDだったので摂食障害と不安障害になりました」とは言えません。ただ、適切なケアを受けていればあそこまで強い罪悪感や自己嫌悪を抱くことはなかったのかもしれないとは思います。

 発達障害であるとわかれば、対処の仕方がわかります。「聞き分けのない子」「わがまま」だと思うと、きつく当たってしまうこともあるでしょう。診断名がはっきりすることで、本人も家族も対処の仕方がわかって、虐待になりかねないような危機を回避することができる面は確かにあると思います。ただ、診断名が全てを解決してくれるわけではありません。何がその人の困りごとかを丁寧に見て、個別に対応することがまず基本でしょう。

 それにしても、もしも今タイムマシーンがあるなら、あの披露宴の席で震えていた自分に言ってあげたいです。そんなに心配しなくて大丈夫。あなたは誰かに幸せにしてもらわなくても、自分で幸せになることができるんだよ、と。

 でもきっと聞き入れてもらえないでしょう。当時の日本はバブル経済に浮かれていたとはいえ、構造的には「女の幸せは男次第」の社会で、そう強固に思い込むのも無理はなかったでしょうから。30年以上経った今も、男性の経済的な庇護なしでは女性が弱い立場に置かれやすい構造は変わっていないことに愕然とします。まだ”昭和”は終わっていないのです。

 姉の結婚後、あの黒い煙に呑まれてからは、太ることが急に怖くなりました。もともと痩せっぽちなのに、母に細かく注文をつけて、食事もお弁当も超低カロリーにし、極端に量を減らしました。主食はパンや白米ではなく、小麦ふすま。休み時間に友達がくれた飴はこっそり捨て、口寂しい時はシュガーレスガムでごまかしました。

 自分の意志の強さに満足し、朝晩体重計に乗って太っていないかを確認。生理前などにお腹が少しでも膨らもうものなら、自己嫌悪で一杯になりました。

 女性は、高校時代にはホルモンの影響でふっくらしやすくなるものです。私も高3の終わりになると、食事に気をつけていても体重が増えるようになりました。そこで、食べたいものを口に入れて味わってはぺっと吐き出すことを覚えました。

 いわゆるチューイングと言われる行為で、摂食障害の始まりだったのですが、当時は大発明だ!と思っていました。これなら食欲だけ満たして、カロリーを摂取せずに済むと。しかしそれでは止まらず、食欲は増すばかりでした。自分ではコントロールできなくなっていったのです。

(文・小島慶子)

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。
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