話題
ひかえめに言っても「変な品揃え」懸賞品ばかりの古着屋を作った男
原体験は「牛乳瓶のふた800種類」
大阪・ミナミのアメリカ村にある「古着屋十四才」。控えめに言っても「変」な収集欲が生みだした混沌した店内には、懐かしいテレビ番組やCMの懸賞品として作られたTシャツなどが所狭しと並びます。なぜアメカジの聖地で日本の古着を売っているのか。離婚、友人の死、たまたまた空いたテナント……。店主の塩見大地さんの半生を聞きました。(朝日新聞記者・宮廻潤子)
大阪生まれ、大阪育ち。生粋の大阪人の塩見さんが「十四才」をオープンしたのは2015年9月のこと。
元々は古着愛好家の王道、アメカジにどっぷり浸かっていた塩見さんは、小学生の頃から、古着好きの父親に連れられてアメ村に通っていたそうです。地元の高校、大学に進学。学生時代は大好きな古着屋さんでアルバイトに励み、「将来は古着屋さんになるんだ」と夢を膨らませていました。
そんな日々が一転する出来事が訪れます。アルバイト先の古着屋のオーナーに連れられてアメリカに商品の買い付けに行ったときのことです。
オーナーの後ろにくっついて、買い付けの勉強をしていると、オーナーが一言。「お前も自分で買い付けてみろ」と数百ドルを手渡されたのです。「ローズボウル」という全米最大級のフリーマーケットを回り、「How much?」とつたない英語で商品を買い込みました。
慣れない環境での初めての買い付け。おそるおそる戦利品を見せると、オーナーは激怒。「こんなもの売れるか!」と一蹴されたといいます。「自分が好きなものばかり買ってしまい、多くの人に買ってもらえるものじゃなかったんだと思います」と、古着屋を営むことの難しさを痛感した塩見さん。服以外にも雑貨やお菓子、レコードなどを売っていた古着屋で働いていたので「スーパーマーケットなら働けるのでは?」と思い大手スーパーに就職しました。
仕事はおもしろかったそうです。担当は米やお菓子など食品全般。バイト先の古着屋で商品の見せ方を学んでいたこともあり、スーパーでも商品の並べ方や棚のレイアウトなど、「とことんやる性格」で、バリバリ働きました。ただ、「あまりコミュニケーションが得意じゃなくて、人に頼み事をするのが苦手」といい、休日返上で働く日々が続いたそうです。
8年ほどスーパーで忙しい日々を過ごしましたが、30歳のある日、妻に離婚を突きつけられます。「こんなに頑張って仕事をしていたのに……」という思いとともに、「全てのやる気を失ってしまいました」。「離婚を切り出された理由がわからず、やるせない思いがつのった」といいます。
同じ時期、高校時代サッカー部で共に過ごした友人が、駅のホームから誤って転落し、亡くなってしまうという悲しい出来事もありました。価値観を揺さぶるようなことが続き、「好きなことをやりたい」という気持ちが大きくなりました。
実はスーパーの激務の8年間も、暇さえあればアメ村には通い、古着集めを続けていた塩見さん。悶々とした思いを抱えながら、現在居を構えているショウザンビルの別の古着屋に行くと、「今、ビルのテナントが空いているよ。でも多分すぐ埋まっちゃうんじゃないかな」と教えてもらいます。
「夢だった、自分の古着屋を持ちたい」
すぐにビルのオーナーに掛け合ってテナントを契約。「何の準備もしていませんでした」と笑いながら振り返ります。
テナントは押さえたものの、売る商品がない。これまで自分が収集してきた古着を自宅から店に運び込み、「棚を埋めてなんとか店らしくしました」と苦笑い。
「大好きで集めてきた古着を売るのはつらかったのでは?」と聞くと、「自分の部屋が自宅から飛び出て、お店になった感じ。自分の部屋の延長線って感じかな」。
お店でコレクションを商品としてレイアウトすると、「表現できたことに満足して、不思議と所有欲はなくなったんですよね」と笑います。
今は、トレーナー2着とズボン2着、ジャケット1着、靴2足で生活しているといい、「古着屋としてダメだと思うんですけどね」。
お店の棚には、「よくこれだけ集めたな……」と思うような、控えめに言っても「変」な服がずらりと並びます。
思った通り、塩見さんのコレクター魂は、幼少期から培われたものでした。塩見さんは3人兄弟の真ん中。父親はトミカのコレクターで、兄はペットボトルについているサッカー選手のキャップを、弟はチョロQを集めていたそう。コレクションは「日常でしたね」と振り返ります。
自身も、当時給食で出ていた瓶牛乳のふた集めに熱中したといいます。何げなく眺めていたふたですが、塩見さんによると「色みやデザインが違うものがたくさんある」といいます。
製造工場が違えばふたに書かれている住所も違い、集めた枚数はなんと800種類! 休日には父親の車で、ふたに書かれた住所の工場に突撃し、「ふたください!」とお願いしたり、工場に手紙入りの封筒を送ったり。コインケースを買ってもらって、並べて楽しんでいたそうです。
父親の影響もあり、長年アメカジの王道を歩んできた塩見さんですが、現在のようなスタイルに落ち着いたのには「生まれ育った環境にある」と語ります。
塩見さんが幼少期を過ごしたのは、労働者の街で知られる大阪・西成。「外出するときに『一番近くに落ちていた服を羽織ってきた』ようなおっちゃんたちが、いっぱいいたんですよ」と笑います。
「しかも、上着をズボンにインしていたりして。普通はダサいと感じると思うんですけど、もしかしたらおしゃれだと思って着ているのかもしれない、という目で見ると、不思議とおしゃれにも見えてくるんですよね」といいます。
生活の延長線上にある、(おしゃれを)狙っているのか狙っていないのか分からない、ギリギリのラインが「いいですね~」。他人の評価を気にせず、というか、誰もやっていないので「評価しようがない」世界が、アメカジとは違う楽しみ方なのだそうです。服選びのポイントは「自分が着て楽しいかどうかですよ」と、なんだかとっても大切なことを教えていただきました。
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