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連載

#24 Busy Brain

小島慶子さんが大学のゼミで思った「相手を論破するよりも」大切な事

勝敗をつけるゼミのディベートで最後に勝った後に––––

大学3年生の小島慶子さん。ゼミの韓国旅行で訪れた板門店で=本人提供
大学3年生の小島慶子さん。ゼミの韓国旅行で訪れた板門店で=本人提供

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、大学時代の小島さんが韓国へのゼミ旅行中、ホームステイで気づいた自分の偏見、日本と韓国の歴史認識の違いに戸惑どった経験について綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)

冷戦が終結した後に迎えた大学時代

 中学生の時に周囲を困らせた独りよがりで幼稚な性質は、年齢と共に次第に落ち着いていきました。物事を客観的に捉え、冷静に考える習慣を身につけるのには、大学で学んだことがとても役立ちました。

 大学2年生の時に外国書購読の授業で政治学者の飯坂良明(いいざかよしあき)先生と出会い、大らかで明るい人柄とわかりやすい講義の内容にひかれました。当時は90年代初頭。89年に冷戦が終結したばかりで、世界は米ソの核戦争の恐怖から解放され、私も子どもの頃から漠然と抱いていた不安と緊張がなくなり、希望を感じていました。飯坂先生はそんな時に「これからは民族紛争が増え、南北格差が問題になる」「地球環境を守る持続可能な開発が課題である」という大事なことを丁寧に教えてくれました。

 私が大学に入学した1991年には、ユーゴスラビアの内戦が激しくなっていました。当時アルバイトをしていた飲食店では、戦火を逃れてきた同世代の青年が働いていました。ユーゴ連邦のどの国の出身であったかはわかりません。閑散としたモールの地下のピザ店で揃いのエプロンをかけて働きながら、彼がなぜいつも苛立ち、不安そうにしているのか、なぜ祖国の話を聞かれるのを嫌うのか気にかかりましたが、それ以上知ろうとは思いませんでした。当時の私にとって民族紛争は遠く、青年の苦悩と孤独は他人事でしかなかったのです。

 今、家族と離れて日本で働きながら、地縁血縁のないオーストラリアのアジア系移民として子育てをする身となってみて初めて、彼の苦労が少し想像できるようになりました。隣人同士が殺し合う戦乱が続く祖国の親族や友人を案じながら、遠く離れた異国で働く青年の心細さは、いかばかりだっただろうかと思います。物知らずの能天気な日本人の学生に苛立ったのも当然です。なおも民族紛争の爪痕(つめあと)が残る祖国で今、彼が穏やかに暮らしていることを心から願います。

 1992年6月には、ブラジルで開催された国連地球サミットで、今のSDGs(持続可能な開発目標)にもつながる「リオ宣言」「アジェンダ21」が採択されました。飯坂先生は、環境と開発を両立可能にしようという当時最先端の国際的な課題を、それを担う世代の学生たちに熱心に伝えて下さったのだと、今になってよくわかります。当時の私は、そんなことができるのだろうかと半信半疑だったのですが、30年近く経った今、いよいよ地球環境が限界を超える直前になって、やっと経済界も各国政府も本腰を入れて動き始めました。

 それを見るにつけても、大人が繰り返し子供に教える「締め切りに間に合うように、早め早めに始めること」という基本中の基本のことが、人類にとっていかに実行困難なのかがわかります。宿題はいつも、ギリギリにならないとやらないのです。それをグレタ・トゥーンベリさんら子ども世代に責められて、逆上している大人たちもいます。地球規模の命がけの宿題は、締め切り目前。壊滅的な気候変動のドミノが始まったらもう止められません。早ければ2030年にも、気温上昇が産業革命前の水準のプラス1.5度に達すると言われます。あと0.5度、もう10年もありません。ここ数年で人類の未来が決まるのは、例え話ではないのです。

 個人的には、なんでも締め切りギリギリになってしまう(どころか過ぎてしまう)自分の特性は人類共通の習性なのだと思うとちょっと諦めもつきますが、それがいかに致命的な結果につながりかねないかをこうして身をもって実感すると、人類は愚かさゆえに身を滅ぼすのが運命なのか、それとも克服するだけの知性を持ち合わせているのか、まさに今試されているのだと思います。個人レベルでも種のレベルでも、同じ試練に直面しているのだなあと、苦い後悔を味わう毎日です。

 飯坂先生は、世間知らずの子どもだった私に、こうして世界がいかに複雑であるかを考えるきっかけを与えてくれました。先生はいつも、学生が自分で気づき、自ずと世界に目を向けるような問いかけをしてくれました。優れた教育者というのは、学生の知性を信頼し、良き問いを与えてくれる人なのではないかと思います。冗談好きで優しい語り口の飯坂先生でしたが、その言葉の芯には平和に対する強い信念が感じられました。それは先生がキリスト教の信仰をお持ちであったことにも通じるかもしれません。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

他大学とのディベートに明け暮れたゼミ

 やがて3年生になり、飯坂ゼミに入ってからは、他大学とのディベートの試合に明け暮れました。ここで学んだことが、大きな糧(かて)となりました。

 ディベートは、あるテーマについて賛成派と反対派に分かれて討論し、審査員がより説得力があると判断したチームが勝つゲームです。賛成派か、反対派かは当日抽選で決まります。自分自身の意見や信条とは関係ありません。つまり試合の日までに賛成の立場でも反対の立場でも勝てるように策を練って、シミュレーションを重ねておく必要があるのです。

 例えば「死刑制度存続の是非」がテーマであれば、死刑制度は何としても存続させるべきであるという立場と、絶対に廃止するべきであるという立場の両方を、幾通りもの論点ででシミュレーションするのです。存続賛成(反対)派として議論する場合にはどんな論の立て方が有効だろうかといくつかの筋道を立て、それに対して相手はきっとこのような論点で反対するだろうから、そうしたらこんなデータやエビデンスを示して論破しよう、という想定練習を繰り返します。

 すると、同じ新聞記事やデータを賛成派も反対派も自説の裏付けとして使うことができる場合があることや、同じ物事の違う面に光を当てることで観衆に全く逆の印象を与えることができることに気づきます。

 こうしたことを通じて、学生は死刑制度について複眼的に考え、視野を広げることができます。試合に勝つためには、どちらの立場であっても説得力のある論を展開する能力が必要です。でも最終的にはゲームの勝敗とは別に「では、私自身はどう考えるか」「自分だったら、異なる意見を持つ人をどうやって説得するだろうか」と一人称で、つまり自分ごととして考えるようになるのです。

 試合の準備の過程でどちらの立場の言い分も徹底的に検証するので、自分とは異なる意見を持つ人にもそれなりの理由があり、置かれた立場や育った環境の違いで同じ事実が全く異なって見えることがあるのだと想像できるようになります。同時に、実際に社会を運営していく上では、例えどちらの言い分にも理があっても、答えを一つに決めて実践しなくてはならないということも想像できました。最善策を決断して実行するときには、常に失敗したり批判されたりするリスクが伴い、大きな責任が生じます。議論して満足する人と、議論した上で実践する人は違うということです。

韓国の大学生と交流、戸惑った瞬間

 ゼミ旅行では、韓国に行くのが恒例となっていました。釜山(プサン)から入ってソウルに移動し、1泊ホームステイをして、そのあとは38度線へ。最初に釜山で交流した地元の大学生からは、日本に対する複雑な思いを告げられました。同じ大学生でも、自分にとっては過去の出来事が、彼にとっては現在進行形なのだと知って戸惑いました。戦争を知らない自分はなんと答えればいいのだろうと、当時の私には言うべき言葉が見つかりませんでした。学校の歴史の授業でも、日本の戦争責任についてじっくりと考える機会がなかったのです。日本の教育全体の問題でもありますが、私が通っていた学校には、戦争を遂行した政治家や軍幹部の子孫もいたので、教師にとっては詳しく教えるのが難しかったのかもしれません。

 ソウルでは延世(ヨンセ)大学校の学生たちと交流。釜山の学生たちよりも洗練された雰囲気を感じました。朝鮮王朝の王宮・景福宮の中にある国立民俗博物館では、先進的な朝鮮半島の文化が古代から日本に多大な影響を与えてきたことを改めて思いました。

 ソウルでの交流会の最中、引率のゼミOBに対して生意気な冗談を言った私に、延世の学生が「年上の人にそういう失礼なことをするものではないよ」と真剣に注意をしてくれました。当時、韓国では日本よりも年上の人に対する礼儀を重んじる習慣があると聞いていたので、本当に厳しいのだなと驚きました。

 夜の飲み会では男子学生が口々に「兵役を終えたら日本に留学してからアメリカに留学し、韓国に戻って南北統一を成し遂げたい」と熱く語るのを聞いて、同じ年齢の若者たちが自分よりもはるかに大きな視野でものを考えていることや、戦争や国家という自分にとってはどこか教科書の中だけのもののように感じていた言葉が、彼らにとってはリアルな実人生の一部であることに、尊敬の念と気後れを覚えました。

 あの若者たちはその後、どんな人生を送って今は何をしているのだろうと時々考えます。名門の延世大学校の卒業生たちの中には、韓国の社会の中枢を担っている人もいるでしょう。四半世紀以上を経て、日本も韓国も変わりました。当時はまだ「日本に留学したい」と熱く語る若者たちがいましたが、韓国では2016年に中国がアメリカを抜いて留学先の1位となり、次いでアメリカ、オーストラリアと続き、日本は4番手です。※註 参考資料:https://jp.yna.co.kr/view/AJP20161111004300882 エンターテインメントの世界では、日本の若者たちが世界を目指して韓国へと渡っています。

 ホームステイは、ソウルのとあるプロテスタント教会の信徒たちの家に一人ずつ泊まるものでした。当時の私は「韓国は日本よりも遅れているのできっとみんな貧しいだろう」という先入観を持っていました。ところが、ホームステイ先は山の上の大きなお屋敷街。日本の裕福な友人たちの家よりもさらに大きな、美しい邸(やしき)に通されてびっくりしました。

 きれいな英語を話す、名門梨花(イファ)女子大学に通う姉妹と、優雅で親切な母親が丁寧に迎えてくれました。父親はアメリカのコロンビア大学で教鞭をとっているということでした。日本にもいろいろな人がいるように、韓国にもいろいろな人がいる。自分が無意識のうちに偏見を抱いて見下していたことに気づき、恥ずかしく思いました。

 医学部に通う姉と、私と同い年の利発で快活な妹は、当然ながら私よりもはるかに物知りで、聡明でした。下からずるっと上がった大学でろくに講義にも出ないでバイトばかりしている自分は、とても彼女たちには及ばないなと、眩(まぶ)しくてなりませんでした。あの姉妹もきっと今は社会の第一線で活躍していることでしょう。名前を忘れてしまったことが悔やまれます。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

日本で習った歴史とは正反対の記述

 38度線では南北の兵士たちが睨み合い、空気が張り詰めていました。板門店の軍事境界線の上に建てられた軍事停戦委員会本会議場の中を見学した際には、室内には韓国の兵士、窓のすぐ外には北朝鮮の兵士が怖い顔で立っていました。思ったよりもずっと小さな建物でした。

 絶対にふざけてはいけないと言われていたので窓越しにそっと北朝鮮の兵士を見ると、カーキ色の軍服の胸に金日成(キムイルソン)主席の顔が描かれたバッジをつけています。私とこの人はガラス一枚隔ててたった20センチぐらいしか離れていないのに、ここには絶対に越えられないものがあるのだな、と思いつつ視線を上げると目が合いました。もちろんニコリともしない表情の読み取れない顔でしたが、やっぱり人間の目でした。

 次の瞬間にでも私を躊躇いなく殺すであろうこの人は、誰なのだろう? こんなに近くで出会った同じ人間同士なのにと、なんとも言えない気持ちになりました。まして韓国の人にとっては自分と同じ民族なのですから、その思いは一層複雑でしょう。

 忘れがたいのは、天安(チョナン)市の独立記念館です。そこでは日本で習った歴史とは正反対の記述で歴史が綴られていました。日本の偉人は韓国では悪人で、日本では極悪人の人物が韓国では英雄でした。その時に私の胸中に湧き上がったのは怒りでも嫌悪でもなく、これが現実なのだという感覚でした。

「事実」は置かれた立場によって正反対のものになる。ガラス板に書いたものを向こう側とこちら側から眺めているようなものだと思いました。互いに相手のことを知ることが重要だと痛感し、もう二度とこのようなことが起こらないようにしなくてはと真剣に考えました。それは自分達の世代がやるべきことだと切実に感じました。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

割り切れない世界に対してどのように向き合うべきか

 飯坂先生は、勝敗をつけるゲームであるディベートや、恒例の韓国ゼミ旅行を通じて、現実はゲームと違ってはるかに複雑で割り切れないということ、そしてその複雑さに耐え、粘り強く思考する力こそが人間の美徳であることを教えてくださったのではないかと思います。人は弱く不完全で愚かなものだけれど、同時に強く美しい存在でもあるという大きな矛盾と、どのように折り合いをつけて生きていけばいいのか、私は今もその苦しい旅路の途中ですが、このゼミでの経験が、苦しくも豊かな旅の始まりだったように思います。

 ディベートは合理的で冷静な判断をとっさに下す訓練であり、同時に、割り切れない世界を受容すべく、多様な視点でじっくりと考える訓練でもあります。こうした訓練を通じて、世界の複雑さや奥深さを知り、想像力を鍛えられました。

 4年生の最後の試合で勝利した時、達成感を噛みしめながら、もうゲームはこれでおしまいにしようと思いました。壇上で相手を論破するよりも、小声で呟かれる血の通った言葉を聞きたいと思ったのです。混沌とした矛盾だらけの人間の営みに分け入って、理解したいと思いました。やめろと言われても考え続けないではいられないお喋りな私の脳みそは、先生が与えてくださった問いを得て、次第に広い世界へと目を開かれていったのです。

(文・小島慶子)

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。

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