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コラム

車いすユーザーの「排泄トラブル」 精神的ダメージと尊厳への問い

誰もがなりうる可能性、ケアのあり方は

排泄障がいへの心身ケアは=写真はイメージです
排泄障がいへの心身ケアは=写真はイメージです 出典: pixta

目次

自分のタイミングで排泄ができないと、その負担は自身にどうにのしかかってくるのでしょうか。排泄障がいのある、車いすユーザーの篭田雪江さんは「誰もが明日にはそうなる可能性がある」からこそ、身体だけでなく精神的なケアのあり方も考えなければならないのではないかと提起します。

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排泄障がいについて語った女性

前回、障がい者の性について、下半身まひの身体障がいを持つ自分自身の経験を元にコラムを書かせていただいた。
 
発表後、そのコラムの感想を寄せて下さった方がいた。大変嬉しく光栄なことで、この場を借りてお礼申し上げたい。
 
その方は感想のなかで他にも、障がいと性について印象に残っている記事を紹介されていた。車いす生活を動画発信しているという女性についての記事だった(朝日新聞デジタル「排泄、セックス… 車いす生活を動画発信する彼女の思い」)。
 
その女性、渋谷真子さんは、2年前(2018年)に転落事故で脊髄を損傷し、車いす生活となった。以来、性や排泄、その他の問題について不安を抱え続け、またそういう不安、悩みを伝えたい、知ってもらいたいという思いから動画サイトをはじめた、という記事だった。最近は本も出版されたらしい(『普通で最高でハッピーなわたし ~特別でもなんでもない二度目の人生~』扶桑社)。おなじ脊髄損傷者として、ご自身のさまざまなありようを発信し続ける渋谷さんには、最大限の敬意を送らせていただきたいと思う。

その記事を読み、さっそく渋谷さんの動画を観てみた(渋谷さんのYouTubeチャンネル「現代のもののけ姫Maco」)。もうすでにかなりの動画がアップされていて、すべてを観たわけではないのだが特に印象に残り、また再生回数も多かったのが排泄障がいについて語った動画だった。

 
渋谷さんが排泄障がいについて語った動画《【脊髄損傷女子】これが排泄障害の実態》 出典: 渋谷さんのYouTubeチャンネル「現代のもののけ姫Maco」

詳細はぜひ実際に動画をご覧いただきたいので省略するが、それを観て感じたのが下半身まひの障がい者が自身の排泄について詳細に語った、あるいは記述したものを見たことが、あくまで自分の場合だが案外なかったな、ということだった。

障がい者の性については意外と、というと語弊があるが、ニュースや書籍、ネットなどで語られるケースが増えてきた。だがある意味、性よりも身近なことである排泄障がいについて取り上げられることは少なかった印象がある(医療関係者による論文等では当然あるが、一般的にという観点からはややずれるのでここでは措く)。その理由はわからないが、そういった情報が少なかったからこそ、渋谷さん自身の排泄障がいについて紹介した動画の再生回数が多いのでは、と想像された。

そんな渋谷さんに倣うわけではないが、今回は私自身や私のまわりの障がい者の排泄障がいについてのできごとを、別の角度から少し詳細に書いてみようと思う。詳細に語る理由についてはある思いがあるからだが、それは後述する。

大切な場面でまさかの「戦闘状態」

まことに恥ずかしいことながら、私は排泄管理が生来下手なのでは、と思うほど、排泄の失敗をこれまで何度も繰り返してきた。

以前、このサイトでも高校時代の排泄失敗について書かせていただいたことがある。それ以外にも排泄のミスで自分だけでなくまわりにも苦労をかけたことは数えきれないが、そのなかで特に記憶の傷となっている体験がある。

パートナーとの結婚が決まり、住む部屋を探そうと不動産会社を巡っていた時のことだ。こちらの希望する家賃や場所的にもいいアパートがある、ということでパートナーと女性社員と共に、私の運転する車でそのアパートに向かっていた。

その道中、私は腹部に違和感を覚えた。ぐるぐるとお腹が鳴り、信号待ちの時に気づかれないようズボンの中に手を入れると、脇腹や腰に異様な冷汗がわいていた。これは下痢気味の便が出ようとしている兆候である(前述の渋谷さんの動画によると、彼女にもおなじ兆候があるようだ)。

私は同乗していたパートナーと女性社員に頼み、途中のコンビニに車を入れた。パートナーにトランクから降ろしてもらった車いすに乗り移って店に入り、トイレへと駆け込んだ。間に合え、と念じながら。しかし遅かった。便器に移る瞬間、尻のあたりから泥から泡が噴くような音がしたのだ。

ズボンと下着、そして紙おむつを、慎重にひとつずつはずしていった。しかし、そのたびに水気の伴った便はまわりにこぼれた。全部脱ぐ頃には、ズボンや下着、紙おむつには大量の便がこびりついていた。太腿や性器、尻、腰回りにもべったりとつき、便座や床にまで飛び散ってしまった。

そこからはもう戦闘だった。ありったけのトイレットペーパーでからだや便器を拭った。特に困ったのが便座の汚れだった。座ったままではなかなか落とせない。だから最後には冷たい床に降り、便器に這いつくばるようにして汚れを拭った。ペーパーでは足りず、棚にあった雑巾もしかたなく使わせてもらった。その間とにかく臭いがきつく、汚れた便器に一度吐いた。

どれくらい時間がたったか。なんとか汚れを落とすことができた。私は床の上で、汚れのついたままのズボンと下着を履いた。だがもう紙おむつは使えないので、外で待機してもらっていたパートナーに頼んで(鍵はしていなかった)ビニール袋をもらってきてもらい、それに汚れたおむつを入れた。

だが、当然服が汚れたままなので自分から臭いがただよっている。この状態での外出はもう厳しい。時間もだいぶたってしまっていた。今回、部屋はあきらめようというパートナーの提案に従い、彼女に車をあずけ、社員の方を会社へと送っていってもらった。その間、私はコンビニの駐車場すみで待ち続けた。そして無意識につぶやいていた。「なんでこんな時に漏れるんだ」。汚れた紙おむつを入れた袋を脇に置き、みずからの臭いにえずき、腿を拳で打ちつけながら。

その間、私はコンビニの駐車場すみで待ち続けた=写真はイメージです
その間、私はコンビニの駐車場すみで待ち続けた=写真はイメージです 出典:pixta

病気の進行で削り取られる「行動」

もうひとつ、自分の身近にいた車いすユーザーのある排泄トラブルについて、忘れられないできごとがある。

私が2020年の8月まで勤務していた就労継続支援A型の職場には、車いすユーザーの後輩女性が今も働いている。その後輩女性は筋肉が徐々に衰えていく進行性の病気を抱えながらも、デザイナーとして日々業務に励んでいる。明るい性格で、私やパートナーとも時々食事や飲みに出かけるほど仲良くさせてもらっていた。

ある日の勤務中、用を足そうと工場の車いす用トイレに向かうと使用中だった。そういえば後輩女性がさっき席を離れていたから彼女がいるんだなと思い、彼女が済んでから入ろうと一旦自分の席に戻った。その少し後、廊下がなにやらざわめきはじめた。見ると何人かの女性従業員たちが車いす用トイレの前に向かっている様子がうかがえた。私のパートナーも(パートナーも現在、その職場で働いている)向かっていた。

その後、ばたばたとたくさんの女性従業員がトイレの前を行き来し、やがて静かになった。しかし後輩女性はその後、席に戻ることはなかった。どうやら早退したらしい。

仕事がおわって帰宅すると、パートナーが事情を話してくれた。後輩女性はトイレで車いすから便器に移ろうと立ち上がった際、誤って転倒してしまったという。当然すぐ起き上がろうとしたが間に合わなかった。彼女は持参していた携帯電話で事務所に電話し、助けを呼んだ。女性従業員たちが駆けつけたが、当然ドアはロックされていたので、それをハンマーで壊し、ようやくなかに入り、手助けをした。清拭や片づけはなんとか済ませたものの、後輩女性は着替えを持ち合わせていなかったので、これ以上仕事は続けられず、その場で家族に連絡を入れて迎えに来てもらい、そのまま帰宅した、ということだった。

後日、私が車いす用トイレに入ると、いつの間にか便器のそばに床から天井までつながっている柱のような長い手すりが据えつけられていた。これも後でパートナーにたずねると、その後輩女性が今後倒れたりしないよう、彼女が使いやすい手すりとして取りつけたのだという。それを聞き、私は出会った頃からずっと変わらず元気そうな彼女だが、やはり病気は進行していて、排泄をはじめとした彼女のできる行動や望みを少しずつ、だが確実に削り取っているのだ、という暗澹とした思いにかられた。これからもこうしたことは増えていくのだろうか、と――。

以上ふたつほど、私自身や私のまわりの排泄障がい、トラブルについて詳細した。読む方にとってはかなり受けつけがたい記述もあったかもしれない。

女性が倒れたあと、トイレには手すりが設置された=写真はイメージです
女性が倒れたあと、トイレには手すりが設置された=写真はイメージです 出典:pixta

排泄トラブルがもたらす自分への精神的ダメージ

正式なかたちとして世に出たことは少ないが、私は普段自身を題材とした小説を書いている。そのなかでは排泄障がいのことをもっと細かく、はっきり言えば汚い、と感じられるほどの描写で描いている。

どうしてそこまでして述べるのか。それは私が排泄障がいこそ、障がい者にとっての負の側面をもっとも強く象徴しているから、と感じているからだ。

私自身、排泄トラブルは自分が思っている以上に精神的ダメージとして残り、蓄積されている。前述した物件探し中の排泄トラブルも、もう十数年近く前のことなのに、いまだ克明に記憶されている。中学生の時に布団に漏らして母が一瞬だけ眉をひそめたことも、小学生の時の体育の時間、車いすシートからぽたぽたと尿漏れしたことも。その場にはひそかに好意を寄せていた女の子もいた。

最近も、家に誰もいない時にトイレや自身を排泄物でひどく汚し、七転八倒しながら一時間以上かけて始末をした。その後はもう心身疲れ果ててなにもしたくなくなり、またやってしまった、と自己嫌悪におそわれた。

こういうことが人生のほぼすべてのなかで起きてきて、これからも死ぬまで続く。厄介なのは元来私がネガティブ志向のためか、これらの経験がなんの前触れもなく思い出され、ひとり愕然とし、うめきたくなる時がしばしばあることだ。そしてこれから年齢を重ね、からだが徐々に衰えてきた時のことを想像するとぞっとする。今はなんとか自分やまわりの助けを借りて乗り切っているが、たとえば腕のちからも弱くなったらおなじようにできるのか。もうなにもかも放り投げたまま、トイレで力尽るのではないか。そうなる前にしかるべき施設へみずからを押し込み、介護者にまかせてしまった方が楽なのでは。そうして思考はどんどん負の方へと傾いていく――。

そうした私自身の精神状態を、いかにコントロールすべきか。今もって答えは出ないし方法も見つかっていない。カウンセリングを受けたり、将来に備えて施設の下調べを今からすべきか、なんて考えも浮かぶが、体調不良もあり考えはまだ止まったままだ。

ひとの尊厳そのものへの問い

ただこの問題は障がい者に限ったものでない、とは思う。高齢者介護については施設、家庭問わず似ている状況だろう。前述の渋谷さんのように思いがけぬ事故で、突然そんな状態になることもある。自らトイレに行き、用を足す。若い頃は、昨日は普通にできていた行為が失われる。乳幼児に戻ったように排泄物を漏らしてしまう。誰もが明日にはそうなる可能性がある。そんなひとたちの心身のケアをいかにすべきか。

それはひとの尊厳そのものへの問いかけだと、強く感じている。

そのことを考える素材の一部になればと今回、排泄障がいというもののひとつの実態、下半身まひ障がい者の負の側面を、敢えて詳細に語らせていただいた。この文章が排泄障がいを通じたひとの尊厳への理解、思考の一部になれば幸いだし、自分自身も改めて考えていきたいと思う。

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