連載
#1 コウエツさんのことばなし
「けいけんち」の知られざる歴史 国民的ゲームが広めた新しい意味
はじめは専門用語だった!?
みなさんは「経験値」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか? ロールプレイングゲーム(RPG)をする人なら、「キャラクターを成長させるために、敵を倒したり頼まれ事を解決したりして稼ぐあれでしょ?」と答えてくれるかもしれません。実は、今から40年ほど前には「経験値」という言葉自体、それほど知られていませんでした。「経験値」の源流をたどるため、国民的ゲームの生みの親をたずねました。(朝日新聞校閲センター記者・井上真宏)
「経験値」と言って真っ先に思い浮かぶのは「ドラゴンクエスト」です。なぜ、ドラクエで「経験値」という言葉を使うことになったのでしょう。制作に当たって中心的な役割を果たした、ゲームデザイナーの堀井雄二さん(67)に聞いてみました。
〈ドラゴンクエスト〉
――ドラクエの中で「経験値」という言葉を使うことを、誰が決めたのですか?
「ボクです」
――当時は英語の”Experience Point”(Exp)の定訳はなかったと思うのですが、どうして「経験値」と表現することにしたのですか?
「当時はドラクエ制作の傍ら、集英社の『週刊少年ジャンプ』でファミコン用ソフトの新作情報や批評を執筆していました。1986年の2月ごろからドラクエの紹介記事を何回か書いたのですが、その中でExpのことを最初は『経験ポイント』と説明しました」
「ところが『経験ポイント』だと言葉が長くどうもしっくりこないので、何度か記事を書くうちに『経験値』(ゲーム画面では平仮名で「けいけんち」)とすることに落ち着きました」
――なるほど。決め手は語感だったというわけですね。
実は、「経験値」という言葉、RPGの生まれるはるか昔から、「理論ではなく過去の経験から導かれた推定値」といった意味で使われていました。
たとえば1948年に刊行された「基礎の支持力論」という土木工学の専門書や、1957年2月の衆院予算委員会の議事録などに見つかります。
ところがこの言葉、1916年の「大日本国語辞典」や1935年の「辞苑」など、古い国語辞典には見当たりません。今となっては作り手に聞くこともできませんが、辞書に載るような一般用語ではなく、特定の分野でしか使われない、いわば専門用語と見なされたのかもしれません。
近年の主な国語辞典で「経験値」を初めて取り上げたのは2006年の「大辞林」第3版と見られます。
<1、ロールプレーイングゲームなどで、キャラクターの成長度を示す数値のこと。敵を倒すなどの経験を積むと数値が上がる。数値が上がると、その後のゲームを有利に進めることができる>
<2、転じて一般に、経験の度合い>
と意味の説明も充実しています。(「電球が『ピコン』とひらめくあのゲームには経験値がない」「経験値をためるだけではだめで、馬小屋に泊まらないとレベルが上がらないゲームがある」など、言いたいことはありますが……)
2010年代になると多くの国語辞典にも、「大辞林」第3版のような意味で登場するようになりました。一方で、「推定値」の意味をはっきり取り上げるのは、2008年の第6版になって初めて「経験値」を扱った「広辞苑」以外にはちょっと見当たりません。
「経験値」という言葉はいつの間にか、以前とは別の意味を持つようになっていました。そのきっかけとして、コンピューター文化史研究家の四寺儀(しじぎ)けんぞうさん(47)が挙げるのが、ドラクエです。
RPGは1970年代の米国で、ボードゲームが進化して生まれました。日本には1982年ごろに紹介されたのですが、四寺儀さんによると、キャラクターの成長に必要なExpはその頃、「経験値」ではなく「経験ポイント」「経験度」などと訳されていました。
その後、徐々に国産のRPGが現れ、1984年ごろには「経験値」という言葉を使うパソコン用RPGも登場していました。しかし、パソコン自体がさほど普及しておらず、一般社会への影響力は限られていたとみられます。
ところが、ファミコンで遊べるドラクエが「経験値」を使うと、状況が一変しました。
初代ドラクエは約150万本、1987年の「2」は約240万本、1988年の「3」は約380万本販売されました。特に「3」は当時の報道によると、発売日に東京・池袋の量販店に1万人以上の行列が出来るなど、熱狂的に迎えられました(88年2月10日朝日新聞夕刊1面)。
ドラクエシリーズによって日本でRPGが一気に一般化することになったと言っても過言ではありません。ドラクエ経由で「経験値」という言葉を知った人も多いと思われます。
空前のブームを巻き起こしたドラクエシリーズは、日本のRPGの事実上の標準となり、以降のRPGではExpを「経験値」と表すのが通例となりました。
ドラクエ後のRPGを遊んだ何百万、あるいは何千万人の子どもや若者が「経験値」に親しみ、ゲームの世界を超えて「経験値」という言葉を使った結果、いつの間にか言葉の意味が塗り替わっていた――。
証明するのはなかなか大変ですが、ドラクエと共に育った筆者(47)としては納得のいく筋書きです。みなさんはどう思いますか?
実は「経験値」という言葉に関心を持ったのは、仕事中に感じた戸惑いがきっかけです。筆者は校閲記者として、普段は記事や見出しに誤りがないかを点検しています。
確か2000年代半ばのことですが、経済面の原稿に「経験値を得た」という表現がありました。もちろん意味はよく分かりますが、当時は「新聞に載るのは『折り目正しい日本語』であるべきだ」という暗黙の規範が今よりも強く、RPGの言葉が新聞に登場するのは場違いに思えました。そこで「経験知」の誤変換ではないかと出稿元のデスクに問い合わせたのですが、答えは「『経験値』で間違いない」。「そうか……ゲーム用語が新聞に出てきてもいいのか……」と妙に落ち着かない気持ちになったことを覚えています。
今やポップカルチャーは世の中の至るところに浸透し、新聞製作の現場でも言葉遣いを巡る規範意識はずいぶん緩やかになりました。たとえば「ガチャ」が新聞記事で使われても誰も驚かないでしょう。今回「経験値」の来歴を調べてみて、十数年前のあの頃がちょうど転換期だったのだと、ある種の感慨を覚えます。
今年は初代ドラクエの発売から35年。あれから35年も経つのに、「沼地の洞窟」で何も知らずにドラゴンと遭遇し、逃げても回り込まれ薬草も尽きて惨敗したこと、ドムドーラの町で悪魔の騎士にラリホーで眠らされ、なすすべもなくなます切りにされたこと、レアアイテムの「死の首飾り」をうっかり装備したら呪いで外せなくなり売り損ねたことなど、当時の思い出が鮮やかによみがえります。
最後に、堀井さんに「経験値」が日常生活に定着したことの感想を尋ねてみました。
「そういう自覚はあまりなかったのですが、言われてみれば『そうか』と思いました。うれしいです」
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