連載
#68 #となりの外国人
福島の山あいで「幸せ」を見つけた中国人 移住を決断させた〝後悔〟
「自分のことばかり考えていた」
東日本大震災をきっかけに、8年にわたって、福島県で暮らす中国人の男性がいます。奥会津の山あいで、町おこしを担っているいま。コロナ禍で上海にいる家族とは1年近く会えていなくても「近所の方々とあいさつをして、家族とビデオ通話して、一日を無事に終えるだけで十分、幸せ」と言えるまでになった、彼の日本での半生を聞きました。(withnews編集部・小川尭洋)
男性は、上海出身の徐銓軼(じょ・せんい)さん、36歳。18年前に来日しました。福島県の会津地方中西部にある三島町で、奥会津の地域おこし協力隊員として、地元の魅力をネット上などで発信しています。徐さんにオンラインで取材させてもらったのは昨年12月16日夜。福島県は山間部を中心に雪が降り、徐さんの暮らす三島町中心部も、初雪が積もりました。
「留学生だった時は、想像もしていなかったですよ。山あいの雪国で、こんな楽しく生活できるなんて」
家の前の雪かきを終え、帰宅したばかりの徐さん。白い息を吐きながらも、笑顔で留学時代のことを話してくれました。
徐さんが日本に留学したのは、2003年。小さいころから日本のテレビゲームやアニメなどが好きで、親族の誘いで大阪市内の日本語学校へ。その後、立命館大学で4年間、福祉を学びました。大学卒業後は、日本企業への就職を希望していましたが、うまくいかず、不本意な形で帰国することになりました。
帰国直前、徐さんは、「秘境駅」として知られる福島県のJR赤岩駅のホームにたたずんでいました。せめてもの思い出を作ろうと、北海道と東北を回る鉄道旅をしていました。「もの寂しい駅の雰囲気に、不思議と癒やされました。当時の自分の傷心と重なったんでしょうね」
福島と再び巡り合うのは、中国帰国後のこと。偶然、知り合いから紹介された就職先が、福島県の上海事務所だったのです。
働き始めてから間もなくして、2011年3月10日から福島に出張しました。上海に住む日本人の子どもたちを、福島の運動施設「Jヴィレッジ」まで連れて行くことが任務でした。
翌日、福島を離れ、静岡に着いたころに大きな揺れに襲われました。「子どもたちや、福島の人たちは大丈夫だろうか」。子どもたちは無事でしたが、徐さんは、震災直前に福島を離れてしまったことに、後悔の念がわいてきました。
2週間後に上海に戻ると、ほっとした一方で、「福島県に携わる中国人なのに、何もできなかった。自分のことばかり考えていた」。徐さんの心には、もやもやとした思いが残り続けました。
福島県の上海事務所では、中国人観光客に福島をPRすることが業務のひとつでした。ところが、原発事故の風評被害は深刻でした。「中国のSNSでは、何年経っても、福島に関するデマや偏見が拡散していた。PRどころか、デマを打ち消すことすらできなかった」
自分の目で福島の現状を確かめたいと望んでいた徐さん。再び訪れる機会ができたのは、1年以上経ってからでした。
中国の大学生たちと2012年6月、福島の郡山市やいわき市などの仮設住宅を訪ねました。「中国では復興の情報ばかりでしたが、故郷に帰れない人たちを前にして、私たちは無力でショックを受けました」
被災地の訪問をきっかけに、震災前後の福島に縁があった中国人として「少しでも福島の力になりたい」と考えるようになりました。
現地から福島の魅力を発信する仕事として、福島県庁の国際交流員を選びました。2013年に着任。日本語力には自信がありましたが、「福島弁と行政用語の嵐に、自信を打ち砕かれました。まるで別の言語でした」
1年ほどで生活や仕事には慣れてきましたが、中国からの訪日団を呼ぶという「成果」を出せていないことに悩んでいました。2013年当時は、原発事故の風評被害に加え、尖閣諸島を巡っても日中関係は悪化していました。
友人たちも東京には来てくれますが、福島には足を伸ばそうとはしませんでした。
「一人の友人すら、福島に呼ぶことができず、パソコンと毎日にらめっこ。国際交流に貢献できていない自分は、『お飾り』じゃないか」
葛藤が続く中、上司の一言に目が覚めたと言います。
「あなたが来たのには必ず意味がある。ただ、それは見つけるのは、あなたです」
福島のことをもっと知りたいと、初心者マークをつけた車で、ローカル線で、休みの日に県内各地を回りました。業務の中でも、できる限り現場を見るようにしました。果樹園の老夫婦、洋食屋のシェフ、釣り堀の主人・・・・・・。現地でふれ合う中で気づいたのは、復興を信じる人々の強い信念でした。
「皆さん、明るく、たくましく、努力していました。私は『よそ者』で、偉大なことはできないけれど、皆さんの横にいたいと、思ったのです」
「地元に寄り添っていたつもりが、『かわいそうな被災地を助けてあげたい』という同情的な気持ちになっていた。それが『一緒にがんばりたい』と、同じ目線に変わった」と振り返る徐さん。国際交流員の任期が終わった2018年、福島市内から三島町に引っ越し、奥会津の地域おこし協力隊員になりました。
三島町は、人口1500人ほどで、その半数は65歳以上です。家から最寄りのスーパーは10km以上離れています。「最初こそ驚きましたが、もう慣れましたね」
地域おこし協力隊は、総務省の事業で、隊員は自治体から町おこしの企画などを任されます。徐さんは、ネット上で特産品や古民家暮らしを紹介したり、移住の相談に乗ったりしています。
隊員の任期は、今年度いっぱい。任期後は、別の仕事に就き、町での生活を続けるつもりです。福島で知り合った上海出身の妻は子ども2人とともに、上海にいますが、「コロナが落ち着いたら、再び呼び寄せて一緒に暮らしたい」と考えています。
昨年の春前、築80年の空き家を借りて住み始めました。のべ200㎡ほどの木造2階建てで、家賃は1万円。「将来的には購入して、町おこしの拠点にしたい」と言います。
春節の中国から帰国した直後は、近所で避けられることを覚悟していました。ところが、近所の人たちからかけられたのは、思いがけない言葉でした。
「家族にしばらく会えないから、心配でしょう。大丈夫ですか?」
「迷惑をかけていると思っていたのに、とても温かい言葉で涙が出ました」。その後、徐さんは、せめてものお返しにと、中国から200枚のマスクをかき集め、町に寄付しました。
記者が徐さんを知ったきっかけは、昨年3月にあったオンラインイベントでした。
3.11当日の福島県富岡町の様子を生放送する内容で、徐さんは案内役として出演。地元の人々の話を聞くときは、何十分も腰をかがめ続け、相づちを打っていました。彼の経歴は知りませんでしたが、地元の人々と真摯に向き合う姿勢が印象的でした。
「今の生活は、幸せですか?」
取材の最後に尋ねると、徐さんは、大きくうなずいた上で、こう話しました。
「福島で暮らす前は、有名企業で働いて良い給料をもらって、都心のマンションで暮らすことが、『幸せ』だと思っていました。今は、必要最低限のお金があって、近所の方々とあいさつをして、家族とビデオ通話できるだけで最高な気分です。震災後とコロナ禍を経験したから、一日を無事に終えるだけで十分、幸せなんです」
ひょんなことから、福島と出合い、暮らし始めた徐さん。震災後の県庁での仕事、雪深い田舎での暮らし・・・・・・。異郷では、苦労も少なくなかったはずです。
それでも、いま幸せだと、徐さんが胸を張れるのは、人々とのつながりを何よりも大事にしてきたからではないでしょうか。大切なのは、住む場所よりも、身近なつながりや出来事をどう感じるか、ということなのかもしれません。
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