連載
#17 帰れない村
除染後「戻りたい」 今も待つ酪農家「津島の生活、どれほど豊かか」
「震災前はね、家に鍵がなかったんです。地域の人がいつでも入れるようになっていた」
自宅の玄関を押し開けながら、酪農家紺野宏さん(60)は苦笑いした。震災後、空き巣対策で木扉に鍵を取り付け、イノシシに食い破られないよう、下部には板が打ち付けられている。
築200年以上の古民家だ。立派な梁に支えられた大広間には、先祖の顔写真が飾られている。
「4代前の先祖が養蚕で成功して、代々、この家を守ってきました」
伝統芸能「田植え踊り」の世話役「庭元」を務め、20人以上の住民が集まって練習をしたり、酒を酌み交わしたりしたのも、この大広間だった。今はホコリが積もっている。
日夜働いた牛舎に入ると、かすかに乾いた干し草のにおいがした。
震災当日もその翌日も、飼育していた33頭の乳牛の搾乳を続けた。でも、どれだけ待っても回収のローリー車が来ない。2日間で絞った生乳約1トンを泣く泣く畑に捨てた。
3月15日には旧津島村からの避難を求められたが、牛を町外へと移動させるため、6月中旬まで自宅にとどまった。
えさの量を抑え、搾乳を回数を減らしても、33頭の牛からは1日100キロは乳が出る。絞っては捨て、絞っては捨てる。そんな日々を延々と続けた。
「酪農家は牛に生かされてきた。ならば、その命をどうやってつなぐか。そればかり考えていた」
今は郡山市で避難生活を送る。自宅の敷地は特定復興再生拠点区域に指定され、除染が終わって住めるようになれば、戻るつもりだ。
「酪農を続けるつもりですか」と尋ねると、紺野さんは「ええ、できれば」と言って少し笑った。
「避難先で思い知らされました。津島で育った人間は、アパートでは暮らせない。季節が感じられないでしょう? ここは雪が降り、蛍が舞う。秋には紅葉で山が燃える。そんな生活がどれほど豊かであったことか」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』。
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