連載
#21 Busy Brain
母との関係に悩み長電話で愚痴。聞き続けた友達からのひと言
やり場のない思いを、夜の11時過ぎまで友達に電話で話していました
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
今回は、長年の母との葛藤を通じて小島さんがいかに伝える努力を習慣化したか。またそこから得ることになった「聞く」心構えについてお話します。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
さて、前々回は中学校生活で「コミュニケーションは型である」ことを学んだ話を書きました。おかげで高校に入ってからは人間関係が改善し、暗黒の日々ではなくなりました。仲のいい友達も増え、お腹が痛くなるまで笑い転げたり、家族や友人関係の悩みを打ち明けあったりして青春を謳歌しました。
相変わらず間合いや距離の取り方を間違ってしまうことはありましたが、高校生の人間関係はまだみんなそれぞれに粗削りなところもあったせいでしょうか、トライアンドエラーで学習することができたのです。それに、私がそのような失敗をしやすいことを周囲が「まあいつものことだからな」と思ってくれていたのも有難いことでした。
友達とのやり取りの中で、ああ、自分の言動には唐突なところがあるのだなとか、勢いが強すぎるとダメージを与えやすいのだなと気づきました。そうやって少しずつ、どんな間合いでどんな表現をするといいのかを学びました。
このころの私にとっては、学校での問題よりも母との関係の方が深刻でした。母は私のことが大好きで、私も母にとても依存していたのですが、お互いに近過ぎたのです。我が子への思い入れが強すぎると、いわゆる過干渉になってしまいます。
幼い頃に苦労して育った母は、自分が親にしてほしかったように私に接するのですが、私は母の分身ではないのでそれで喜ぶとは限りません。どうしてこんなによくしてやっても娘は喜ばないのかしら、と母ももどかしかったでしょう。毎日数時間に及ぶ口論が続き、母子ともに追い詰められていました。
私も私で何としても母に理解されたいという思いが強すぎたため、母を責めたり、感情を爆発させたりしてしまいました。ああ、わからないんだなと諦めてしまえば楽ですが、そうもいかないのが家族のやっかいなところです。
母が嫌でたまらないのに、母なしでは生活できない、他に逃げ場もなく、親身になってくれる大人もいない。やり場のない思いを持て余し、仲の良い友達に電話しては、夜の11時過ぎまで母に対する愚痴を話していました。でもある日、「こんな時間まで聞かされる身にもなってほしい。度を越している」と言われてハッとしました。自分のことしか見えてなかったんだな……と猛省しました。
友達はカウンセラーではありません。どちらか一方が相手をはけ口にしているのでは対等ではないですし、話していても楽しくないですよね。相手が「慶子ちゃんと話せて楽しかった、嬉しかった」と思えるように心がけることが大事なのだという当たり前のことに、このときようやく気づきました。
彼女があの時はっきりと言ってくれて、本当に良かったです。当時は傷ついて落ち込みましたが、言われなければ自分が何をしているのか自覚することができませんでした。そして何より嬉しかったのは、彼女がその後も変わらずに親しくしてくれたことでした。欠点があっても、失敗しても、切り捨てられることはないのだと知って、とても安心しました。
コミュニケーションのクセは、家庭で身につくものです。たまたま私の家族には、相手を受容して共感するのが得意な人がいませんでした。父も母も姉も、受容されたいという気持ちがとても強い人だったのです。彼ら自身が子どもの頃にそのように接してもらったことがなかったのでしょう。
人は誰でも程度の差はあれ歪んでいるものです。歪みは、その人が人生のある時期に過酷な環境を生きのびる為に身につけたもの。たとえば、母が他者という概念を持たないのも、そのようにしないと、つまり外界から影響を受けないように回路を遮断しないと子ども時代をサバイブできなかったのでしょう。かわいそうだったな、と思います。タイムマシーンがあれば、子どもだった頃の母や父や姉のもとに行って、たくさん話を聞いてあげたいです。
こうして母との長い葛藤の中で、話の通じない人には自分の話をわからせようとするよりも、相手の話を聞いてあげて、極力不安を取り除いてあげる方がはるかにコミュニケーションの効率がいいということを学習しました。
時々「小島さんは、昔から書いたり話したりするのが得意なのですか」と聞かれます。物を書いたり話したりする仕事は、コミュニケーションが得意な人がやるものだと思われていますが、むしろ逆ではないかと思います。
物書きや話し手というのは、書かずにはいられない、話さずにはいられない人たちです。どうしようもなく、理屈抜きに書きたい、話したいのです。言葉に不安があるからこそ、どうしたら伝わるだろうかと工夫を重ねます。「私は書くのも話すのも上手だから、必ず相手に話が通じるだろう」と思っている人は、わざわざ書き続けたり話し続けたりする必要はないでしょう。
書き続け、話し続ける人は、人生のどこかで必ず良き読み手や聞き手に恵まれた経験があるはずです。ああ届くんだ、と思ったときの喜びが忘れられないのです。それだけ渇いていたということでもあります。コミュニケーション上手どころか、むしろ永遠の不全感に悩む人たちと言えるかもしれません。
私の場合、不全感の原因は、いわゆる空気の読めなさと長く格闘してきたことに加えて、母とのやりとりのある種のトラウマだと思います。「聞きたいようにしか聞かない」という強力なフィルターのかかっている人が相手だと、数時間かけて手を替え品を替え説明しても、結局何も伝わらないことも。その時の徒労感と孤独は筆舌に尽くしがたいものがあります。
多感な時期に毎日それをやっていたのですから、低温火傷のようにじっくり深部まで達する心的外傷となり、「いかに言葉を尽くそうとも、私の話は伝わらないのだ」と脳みそに刻み込まれてしまったのかもしれません。
しかし今、これが役に立っていることも確かです。伝わらないことを前提に、少しでも相手の生理や心理になじむやり方で言葉を届ける努力をする習慣が身についたからです。不思議なことに、インタビューをすると多くの方が、普段は言わないようなことまでお話し下さいます。
話すというのは、とても勇気のいることです。自らを開示する、質問に答えるというのは弱みを晒すことにもなりかねません。大ベテランでも百戦錬磨の達人でも、話すときにはいつも不安なのです。
どんな無口な人や偏屈な人の胸の奥にも、誰かが訪ねてきてくれるのを密かに待っている柔らかな場所があります。ただ、そこには容易には辿り着けません。当人もその存在を知らないことが多いからです。訪ねてやろうとして辿り着けるものでもありません。本当にごく偶然の一瞬に、霧の中からふと扉が現れて、なぜだかわからないけれど自然に開いてしまうものなのです。
聞き手にできることはただ、いるだけです。その瞬間に出会うと、いつも美しさに胸が震えてしまいます。人が何かを無心に打ち明け、自らの語りに驚き、喜びを感じている姿は、とてつもなく尊いものです。相手を好きか嫌いかなんて関係ない。生まれ落ちた子どもをとっさに手を差しのべて受け止めるように、溢れ出した言葉を受けとって、祝福するのみです。
初対面で会って、話を聞いて、扉が開いて、別れたらそれきり。親しくないからこそ、そういう奇跡が起きるのかもしれません。いつまでも話を覚えていることもありません。私にとっては、人がそのように美しいものだと知ることに意味があるのです。
オーロラみたいなものですね。誰もオーロラを所有することも、空に留めることもできません。ただ偶然出会って、世界の美しさに触れる。そういうものが、人と人の間にもあるということでしょう。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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