連載
#19 Busy Brain
小島慶子さんの言動に級友らが困惑 暗黒の中学3年間に続けたこと
友達と仲良くなり先生にも好かれている子が妬ましくてしかたありませんでした
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
今回は、受験を経て入学した中学校のクラスで、級友への言動を困惑され悪目立ちしてしまったという小島さんが、3年間続けたある対策についてお話します。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
さて今回は中学に上がるところからです。すでに書いたように、当時は発達障害自体が一般的にはほとんど知られていなかったので、本人も周囲もこの一風変わった特徴にほとほと手を焼いていました。そこへ加えて思春期です。めんどくさい要素の掛け算ですから、えらいことになるのは目に見えています。
担任教師は、私が当時はまだ東京郊外では珍しかった中学受験をすると知って「絶対に受からないだろう」と母に言ったそうです。授業中におしゃべりがやめられず、何度注意しても直らない上に教師に対しても反抗的な態度だったので、そう思ったのも無理はありません。この教師には今でいう児童に対するセクハラやパワハラの問題があったのですが、当時はそれは「よくあること」でした。
母は、娘が東京郊外の公立中学に進むよりも都心の私立の女子校に進む方がいいだろうと考えて、5年生の時に私に受験を勧めました。私も同じ学年の子達と一緒に地元の中学に行く気になれなかったので承諾。地元の進学塾の入塾試験でいきなり最上級クラスに振り分けられて、あれ?意外と勉強できるんだな、とやる気が出ました。
今では考えられないのんびりした話ですが、大手の進学塾、四谷大塚に入ったのは6年生の4月。当時は2教科会員というのがあり、入試も算数と国語の2教科だけという学校がたくさんありました。母は流石(さすが)に私をよく見ており「慶子は4教科をこなすより2教科に集中して得意な国語を伸ばしたほうがいいと思う」と判断。
えー、理科の勉強面白そうだけどなーと思ったものの、確かに4つやるより2つの方が楽そうだったので素直に従いました。受験勉強自体は楽しかったし、算数は人並み以下だったけど国語が抜群にできたので成績は上位でした。
今思い返しても不思議なのは、小学校の授業では気が散りまくって寝たりよそ見したりおしゃべりしたりしていたのに、塾ではそれがなかったことです。目的がはっきりしていたのと、授業が面白かったのと、あとは塾の空気が好きだったからかもしれません。塾には自分と同じくらいの学力の子達が「志望校に合格する」という同じ目的で集まっており、先生も教えるのがうまくて、全員の利害が一致していました。
地元では「小学校には通うもの」という以外に目的はなく、友達も志を同じくしているわけではなく、勉強も緩く、先生はパワハラ・セクハラめいたコミュニケーションが面白いと思っている人だったので、私は学校が好きではありませんでした。
6年生の時に好きになった男子は、賢くて足も速くてサッカーが上手(うま)くて、性格も良くて笑いのツボも似ていて、卒業アルバムに「乾坤一擲」って漢字で書ける子だったけど、そんな子はそう多くはありませんでした。ちなみに彼はその後、地元の進学校から国立大に進んで弁護士になったという噂を聞きました。今頃どうしているのかなあ。とにかく、私にとっては退屈で、気が散りやすいことこの上ない環境だったのです、地元の小学校は。
受験勉強は最後の追い込みで算数と格闘する修羅場はあったものの順調に進み、第一志望校に合格しました。「絶対に受からない」と言った担任教師の鼻を明かしてやりたいという意地もありました。担任は合格を知って意外そうな顔をしていましたが、内申書で悪意ある点をつけるでもなくほぼ全部を「大変よい」にしてくれたので、ありがたいことでした。
でも卒業式の時に母に「小島さんのことを考えると胃が痛くなりましたよ。とても大人びた面ととても幼稚な面の両極端で、間がないもので」と言ったそうです。それを私に告げた母の顔には「失礼な先生よね!」と「でもそれわかるわ、すごく!」と書いてあったので、なるほど私にはそのような偏りがあるのだなと興味深く思いました。
今思うとその「大人びた面」とは批判精神のことだったんだと思います。冷静に事態を分析して生意気なことを言うかと思ったら、駄々っ子のように感情的になってふてくされる、教師や親にしてみたら扱いにくい子供だったのでしょう。ADHDを持つ子供は同年齢の子に比べて精神的に幼い面があるという説もあるようですが、私の場合は障害ゆえか、生来(せいらい)の性分かわかりませんが、確かにそういう傾向はありました。
人の成熟度というのは年齢と比例するものではないし、全人格的に一様に成熟を遂げるものでもないでしょうから、私の中にはいまも大人と子供が混在するというか、幼い部分と人並み以上に老成した部分とがあり、その差がかなり大きいので時として周囲の人に奇異な印象を与えるのかもしれません。
発達障害の子供たちの教育支援をしている私の友人は、障害を持つ人たちを、愛情を込めて「凸凹さん」と呼んでいます。私もこの呼び名にはとても納得感があります。得意なことと苦手なこと、うまくいくときといかないとき、視点のズームや引きの幅が大きくて「ちょうどいいところで安定し続ける」ということがありません。
年齢とともにその辺りをうまく調整することができるようになってはきましたが、ちょっといつもと違うことが起きたり仕事が立て込んだり体が疲れたりすると、すぐに混沌に飲み込まれてしまいます。だから、極力上手に流されるようにしています。流されまいと踏ん張ると折れてしまうので、とにかく流れに身を任せて、余裕ができたら岸を目指すという感じ。
それには独りではダメで、周囲に理解してくれる人が必要です。深く理解する人を一人、という手もありですが、ちょっとだけわかってくれている人を複数作るのでもいいかもしれません。あちこちの枝につかまりながらゆっくり岸にたどり着くことができますから。
さて念願叶って入った志望校でも私のこの両極端な特徴は変わらず、それに思春期の屈折も相まって、入るなり先生に反抗的な態度をとるわ、友達と仲良くなりたいのにそのやり方が間違っているので相手が困惑するわで、悪目立ちしていました。
友達と仲良くなりたい時に、どうするものでしょうか。私はちょっかいを出すという最もリスクの高いやり方を選択しがちでした。隣に座っている子の教科書に落書きをする、机を前後逆にしておいて困らせる、並んで歩いている時に意味もなく体当たりする、下品な冗談を連発して気を引こうとする、友達が入っているトイレの個室にトイレットペーパーを投げ入れる、などなど。
自分としては「一緒にふざけている」という感覚なのですが、当然のことながら相手は当惑し、迷惑し、嫌がらせをされていると感じることもあります。当時は「相手の気持ちを想像する」というのがどういうことか、さっぱりわかりませんでした。どうして自分にはそれができないのか、何か重大な欠陥があるのではないかと悩んだものです。
さらには先生の話の途中で唐突に口を挟んだり、授業中に前後左右の子に話しかけ続けたり、テスト中に独り言を言ったり。中1の1学期の終わりには4クラスの担任が集まった部屋に呼び出され「君は高等科に進むまではブラックリスト入りだ」と宣告されました。
そこから3年間は暗黒時代でした。何の苦労もなく友達と仲良くなり先生にも好かれている子が妬(ねた)ましくてなりませんでした。家に帰れば母と口論、学校では鬱屈した問題児。片道2時間近くかかる通学で満員電車に揺られながら、自分の居場所なんてどこにもないから死んでしまいたいと思っていました。
こんなに無様でみっともない自分とは一緒に居たくない、こいつを殺してしまいたい、と。当時は毎晩ラジオを聴くのだけが楽しみでした。ラジオにはおかしな投稿をしてくる変人がいっぱい集まっていたし、それを面白がる大人がいて、私はゲラゲラ笑いながら「なんだ、話のわかる人はたくさんいるじゃないか」と心強く思ったのです。
さて、そんな日々を過ごすうちに私は人をじっくり観察することを覚えました。人気者や感じの良い子の立ち居振る舞いや言葉遣いなんかをじいっと見て、なるほどあのようにすれば好感度が上がるのだなと学習したのです。
思えば中学時代は、自分を切り刻むような思いで内面を探索し、嫉妬や羨望と格闘しながら、周囲の人をじっくりと観察して、人の感情の流れを分析し続けた3年間でした。それがあの「人の気持ちがわからない」という感覚を克服する上で非常に役に立ったのは間違いありません。観察と研究を続けた成果を、早速高等科への進級とともに試してみました。
まずは手始めに無口な人になろうと、喋りたいのを我慢してニコニコしてみんなの話に頷(うなず)く修業を1カ月。すると、それまで3年間、はみ出し者の私を見ていたはずの同級生たちがいともあっさりと「慶子ちゃんて大人しいよねえ」などと言うではないですか。こんな簡単なことなのか?と驚いて、次は可愛い感じの子、次は盛り上げ役、といろんな「型」を実践してみたところ、1年目で人気者になっていました。
これは大発見でした。人は、ほぼ型しか見ていない! 私がどのような人間かを深く知った上で評価している人なんてほとんどおらず、適切な型さえなぞれば、人間関係はいとも簡単に書き換えることができるのだ! それを知ってからは、どのような型がその場に適切であるかをだんだん使い分けられるようになり、やがて型なんて考えなくても、友達は私を私のまま受け入れてくれるようになりました。型から入って自由になるなんて、なんだか古典芸能のようですね。
けれど表面上は学校生活に適応しても、若者の懊悩(おうのう)は続いていました。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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