話題
襲ってきた男を刺した〝罪〟200年の間に起きた「生き人形」の変化
「貞操を守った象徴」から「自分の意思を貫く存在」へ
地域に伝わる「昔話」はよく聞きますが、地域の「史実」として語り継がれる、忘れられない物語に出会いました。襲ってきた男を刺した〝罪〟で、その名を残した一人の女性がいます。その存在は「貞操を守った象徴」から「自分の意思を貫く存在」へと、時代を経て変わってきました。200年前に生きた女性が、なぜ今も人々をひきつけるのか。「松江さん」を巡る物語をたどります。(朝日新聞松山総局記者・寺田実穂子)
「松江さんの人形が見つかった! 小学校にあった!」
今年の夏、松山市の港町、三津浜地区に住む田中安子さん(72)の明るい声が電話口から飛び込んできました。
田中さんは、松山出身の俳人・正岡子規や、松山が舞台の小説「坊っちゃん」を書いた夏目漱石に関する様々なイベントを企画していて、いつも面白い話を教えてくれます。
「松江さん?」
初めて聞きました。どんな人なんだろう?
愛媛県立図書館の閲覧席で、茶色く色あせた薄い本を開きました。郷土史家の故・景浦直孝氏が書き留めた1942年発行の古い本で、貸し出し禁止のシールが貼ってあります。
墨で手書きされた古書を読むと、次のような話が書かれていました。
15分ほどで読み終わったエピソード。なんだか、時代劇にありそうな話です。
その松江さんの墓が、いまも三津浜地区にあるというのです。早速向かいました。
道中、歩道橋の看板に、「松江町」の文字を見つけました。200年後の町名に、松江さんの名が残っていました。
墓は公園の一角にあります。立派な石のお墓です。松江さんの話は後世に語り継がれ、1903(明治36)年には、松江さんのことを記した石碑が墓のそばに建てられ、残ってました。
人形を一目見たい。9月上旬、田中さんが「見つかった!」と教えてくれた松山市立三津浜小学校の郷土室に向かいました。「三津浜地区まちづくり協議会」や地元の人々が集まっています。
カーテンのしまった郷土室に、等身大の人形が3体おかれていました。松江さんはひざまずき、手を合わせて目をつぶっています。その横に、険しい顔で刀を振り下ろす父と、手元を照らす提灯を持った妹。浜辺での最期のシーンです。
「リアルですね」
しばらく、息をのんで人形を見つめました。
3体の人形は、10年ほど前から小学校に保管されているといいます。
1970年代には地元の人たちが「奉賛会」を結成し、墓前で松江さんの供養祭を開いていて、その時、この人形が飾られていたそうです。
墓はコンクリートのお堂で囲われていて、その中のロッカーに人形を保管していましたが、人手不足で供養祭は途絶えてしまいました。
お堂も劣化して壊されることになり、保管場所がなくなったので、小学校で引き取ってもらったとのことです。
人形の作者も分かりました。博多人形師の吉村利三郎氏(明治初期~1946年)。
博多人形商工業協同組合の川崎修一さんによると、吉村氏は優秀な人形師だったものの記録はほとんどなく、現存する作品は「はかた伝統工芸館」(福岡県)にある1体のみ。
川崎さんは昔、この3体の写真を見たことがあったといい、「3人の悲壮な表情が伝わり、生きているように見える。かなりいい作りです」。昭和の初め、地元の小学校の校長が、作品を依頼したという記録が残っています。
「地域の歴史を伝える貴重な資料」と、今の山地真人校長は言います。地元の人たちと話し合い、「広く市民に見てもらった方がいい」と、今後は地元の公民館に飾る案が出ています。
供養祭が開かれていたという9月14日、松江さんの墓を訪れました。
地元の人々が手を合わせ、松江さんの民謡が歌われました。民謡まで作られているとは驚きです。
さらに、毎日墓の水を変えているという女性の姿も。地元の人たちが松江さんのことを大切に思ってきたことを実感しました。
地元で長く語り継がれてきた松江さん。その捉え方は、時代によって変化していました。
明治期にたてられた石碑には、「操を守り通し、一家に災いを及ばさなかった松江は婦人の鏡」とあり、「貞操を守った女性」として称えられています。
昭和後期に設立された奉賛会の趣意書にはこうあります。「すがすがしい心身をもって家庭生活に入ることが、ごく自然の状態」。家庭に入るのが女性の幸福なあり方という考えが浮かびあがります。「昨今とかく云々される男女間道徳への警鐘として、現代の理念の中で活かす」ともあります。
しかし、「貞操を守った」という記述について、まちづくり協議会の宮内淑事務局長は「いまの価値観とは違います」と、言います。女性の生き方が多様化した現代では、「信念を貫いた女性」として捉える人が増えているようです。
また、まちづくり協議会の瀬村要二郎会長も「松江さんの生き様の善し悪しは、人それぞれが考えること」と話します。「『関ケ原の戦いがここであった』というように、地域の歴史を伝える『史跡』として墓を残したい」と言い、まちづくり協議会は今年度、墓を雨風から守るために木造のお堂を建てる予定だそうです。
お墓、人形、民謡、町名……。様々な形で、いまも松江さんが生きた証しは残っています。松江さんの悲痛な最期は、時代によって捉え方は様々です。四国・松山に赴任して3年目。松江さんを知ったことで、私もこの地域の人たちとつながりがもてました。
江戸時代に生きた一人の若い女性が架け橋となって、人の輪ができる。そんな縁をつくる力が松江さんにはあるのかもしれません。
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