連載
#15 Busy Brain
「目の前のタスクしか見えない」ADHD小島慶子さんの埋もれる記憶
自分でも呆れるほど昔のことはさっぱり忘れ、記憶の順番がぐちゃぐちゃなのです
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です! 今回は過去をすぐ忘れてしまうが、その記憶は連想ゲームで掘り起こされるという、小島さんの〝脳みその特性〟についてお話します。
さて、香港日本人学校で過ごした前々回の80年代に話を戻しましょう。小学3年生になった頃には友達もたくさんでき、学校が楽しくなりました。ところが12月末に日本に帰ることに。仲良しの友達と別れるのが寂しくてなりませんでした。でも帰国したら幼稚園の頃の友達にもまた会えるし、いじめられることもないだろうと思っていましたが、そうはいきませんでした。
当時はまだ帰国子女が珍しかった時代。クラスにはシンガポールに行く前に一緒に遊んでいた友達もいたので油断して、いつものおしゃべりが出ました。「とにかく大人しくして、聞かれた質問にだけ答える」という転校生の鉄則をすっかり忘れてしまったのです。
久々に友達と会えた嬉しさから海外での話をたくさんしたら、すぐに「自慢している」と嫌われてしまいました。おしゃべりがやめられないのはADHDの衝動性の表れかもしれませんが、本人としてはそれに加えて相手を楽しませようという気持ちもあるのです。
でもその「こうしたら楽しんでくれるだろう」見込みがずれていたのですね。本当に学習能力がないというか……シンガポールに行く前にも、外国に引っ越すのが嬉しくて友達に話しまくり「それ自慢だよ」と咎められたのに、なぜそんなうかつなことをしたのでしょう。同調圧力が高く、嫉妬心の強いコミュニティにおいて、ADHDのある人や帰国子女が無傷で生き延びるのは至難のわざです。
過去のことをすぐに忘れてしまうのも、世渡りには不利かもしれません。私は自分でも呆れるほど、きれいさっぱりと昔のことを忘れてしまうのです。日めくりカレンダーのように、脳内の作業机の上にあるのはいつも目の前の「今」です。ちぎり取った過去はどこかにいってしまいます。
世の中には、時系列でみっしりと書き込んだ手帳を小脇に抱えて生きているような人もいますよね。そういう人はちゃんと昔の出来事や出会った人を覚えているし、明日の予定も頭に入っています。私は毎日ページをちぎってはその辺に放っておくものですから、記憶の順番もぐちゃぐちゃで、大抵のページは山に埋もれてしまいます。そうやって目の前のタスクだけを見て生きているので、次の予定すらわかっていないことがほとんどです。翌日にならないと、その日やることに意識が向きません。
これも本人としては魔法にかかったような心持ちなのですが、「次の予定を確認する」ということ自体を思いつかないのです。いくらカレンダーに書き込んでも、スマホやパソコンにリマインダーをセットしても、意味がありません。リマインダーが画面に表示した予定を、目は見ていても脳が見ていないので全く記憶に残らない。あるいは一瞬「ああ」と思ったらすぐ今考えていたことに戻ってしまうので、あっという間に上書きされてしまいます。
夢中で本を読んでいるときにページの間に横からメモを挟まれても「邪魔だな」と思うだけで、ページをめくったらもうメモの存在を忘れてしまうようなものです。時々、そうやってページに挟まったまま忘れられているメモがパラリと落ちてきて、「わああああ」と慌てることもしょっちゅうですし、誰かに言われるまで気づかないこともあります。何か予定したことを予定通りにやるには、それが書かれたメモを常に今読んでいるページにはさみ直さないといけません。つまり、意識の最上面にタスクを置き続けない限り、一瞬で埋もれてしまうのです。
というわけで、メールはフラグをつけてもすぐに画面の底に沈み、1週間以上経って偶然掘り出されるのを待つことになります。仕事の仲間には、急ぎの用事は必ずメッセージアプリとメールを併用して連絡し、それでも応答がない時は電話してくれるようにお願いしています。
ではどうやって過去のことを思い出すのか。連想ゲームのようなものです。今書こうとしているもの、つまり意識の最上面にある関心事から、ああそういえばこうだったああだった、それはつまりこうでああで……などと思考を巡らせていると、破りとった日めくりの山の中から、いろんなものが掘り出され、つながってひらひら飛んでくる。
それがどんな組み合わせで掘り起こされるのかはそのときにならないとわかりません。で、今書いているもののために脳内の作業机の前面にそれらを貼り出して、書き終えたらまたぽいっと記憶の山に戻してしまうのです。ちゃんと整理してファイルしておけよ!!!と自分でも思うのですが、やらないのですね。
ここにまた重大な問題があります。そもそも記録することにあまり意味を感じていないのです。同じことを再現しようという気がない。私はよく講演もするのですが、一切台本を作りません。台本に書いたらもう飽きてしまって話す気にならないし、話し始めたらどうせ違う中身になってしまうからです。以前も書きましたが、とにかく書き換わり続け、更新され続けてしまう脳みそなのです。
もちろん講演のテーマとタイトルは決まっていますが、頭の中で今日はこんなふうに話そうかなと大体のイメージを作ったら、あとは演壇に立ってお客さんの顔を見て、そのとき話したいように話します。二度と同じようには話せません。
それで60分とか90分間お客さんを退屈させることなく話せるので、器用ですねと言われますが、こんなことは誰でもしています。友達や家族と会うとき、台本を作って行ったりしませんよね。その場の思いつきで2時間でも一晩でも話せるでしょう。一方的に話すのと会話は違うと言うでしょうが、返事があるつもりで話せばいいのです。
講演ではお客さんの顔が見えます。その反応を見ていれば、自分が話していることにどんな返事が返ってきたのかわかりますし、それに対してどう返せばいいかを考えればいい。いわゆる普通の会話と同じです。
むしろあらかじめ決まっているものを何度でも再現できる方が特別な才能です。何度再現しても飽きない物語こそ優れた物語であり、何度同じ役を演じても人を感動させる演者が優れた演者なのでしょう。それだってお客さんの反応との対話なのでしょうが、思いつきで筋を変えられる講演と違って、決まった筋書きがあるのですから、より高度な表現力が求められるのではないかと思います。
おっと、話が大幅に逸(そ)れてしまいました。それというのも子ども時代の話はすでにこれまで何度も書いたり話したりしているので飽き飽きしており、頭の中の作業机の上に置いたのはいいが、例によって連想ゲームが始まってしまったのです。
これで元の話に戻らないと「あの人の話はすぐに脱線してしまっていつもめちゃくちゃだ」と誹(そし)りを受けるので、本人の頭の中の連想ゲームを読者がちゃんと追えるように工夫して、最終的には元に戻ることが肝要です。(でも多分、子ども時代の話は次回になるでしょう)
これもあえてADHDに関連づけて言えば、目の前の一番強い刺激、つまり一番面白そうなことにひゅっと意識が持っていかれるので、一見話が飛躍することが多いのではないかと思います。お話を作るのが比較的得意な人がADHDの特徴を持っていると、一風変わった個性的な話をするので褒められたりすることもあるかもしれません。
人はいくつもの特徴や長所短所、得手不得手の掛け算でできていますから、ADHD=才能豊かということもなければ、ADHD=全て人より劣っているということもないでしょう。天才肌を印象付けようと「自分はたぶん発達障害だ」などと自己診断で言う人に時々出会いますが、随分単純なものの見方だと思います。
人間関係の苦労は、余計な一言やおしゃべりが多いことが原因でもありました。これにはADHDの特徴である衝動性も関係しているかも知れません。脳みそが頭の中でずっとおしゃべりしており、思いついたことを誰かに話したいとなると、我慢できずに口にしてしまうのです。我慢できるようになるにはかなり時間がかかりました。
実は今でも、会議などのさほど面白くない場面でじっと黙っているときには、頭の中で「おお黙っているぞ、えらいぞ、そうだ私はいくらでも黙っていることができるんだぞ。こんなことができるようになったなんて大人だなあ!」などと絶えまなく喋っています。
そうやって黙っている自分を褒めそやして沈黙の継続を奨励しないと、退屈でやっていられないのです。もじもじイライラキョロキョロしないで、いかにも思慮深そうな顔で黙って退屈な話を聞けるようになったのは、20代でアナウンサーの仕事を始めてからです。経験豊富な出演者たちと共演したり、自分の姿を映像で見ることを繰り返すうちに、適切な振る舞い方が少しずつわかってきました。
それでもいまだに、見えないところで手元など体の一部が微妙に動いていることが多いですし、動きを無理やり制御した結果、強張(こわば)った感じになっていることも少なくありません。あるいは逆に話に集中しすぎて、美しい姿勢を保つことをすっかり忘れてしまい、背中が丸まったり、顔つきが無防備になっていたりします。
人の話を真剣に聞いている時は誰しも、ニコニコ愛想のいい顔はしていないものです。にもかかわらず相手の話に集中し、聡明で美しい微笑みをたたえ、背筋を伸ばし、美しく足を流して座り、適切なタイミングで感じのいい相槌を打つ、という超マルチタスクをこなさないと「絵になるアナウンサー」はできません。若い頃の私がテレビよりもラジオの方に自由を感じたのは、ラジオではしゃべりに集中すればよく、見た目への配慮をしなくてもよかったこともあります。
「みんなに好かれるアナウンサー」と「感じのいい転校生」は似ています。やることは同じです。黙ってニコニコしているか、必要なことだけを話せばいいのです。話しかけられたらにこやかに、簡潔に答えること。聞かれもしないのに自分から話し始めないこと。その場で一番力のある人を見定め、その人が気分良く過ごせるように気を使うこと。そうやって転校生として経験を積んだのに学習できず、アナウンサーになってからも同じことでつまずいたのですから、本当に懲りない性分です。集団の中で浮かないようにすることが下手だった一方で、喋ったり書いたりすることが仕事になったのですから、自分の特徴に合った環境を選ぶことはやはり大事です。
こう書くと、傍若無人なおしゃべりだと思うかもしれませんが、そうではありません。何しろそれで散々失敗してきていますから、いつも大変な気遣いをしてヘトヘトになっています。ADHDなどの発達障害やそれに近い特性を持つ人の中には、工夫をして社会生活に適応している人がたくさんいます。結果として「普通」「ほぼ普通」「変わり者だけど問題ではない」ぐらいに見えている人でも、そのために非常に多くの労力を使っている場合があります。
経験や知識を使ってコミュニケーション上の困りごとを軽減できても、その分とても疲れるのです。この「人並みに生きていくことはできるが、すごく疲れる」というのは、周囲にわかってもらいづらく、精神的にもかなり堪えます。
少しずつ工夫を重ね、現在では自分の過剰さをコントロールできるようになりましたが、それでも家族などの親密な人間関係では、つまり真剣に相手に向き合っている間柄だと、思いが言葉になって溢れ出し、その密度と強度で相手に圧力を与えてしまうことがあります。思いの圧が高いとでもいうか……。これを私は、高圧洗浄機体質と呼んでいます。
つまり、高圧洗浄機が高い水圧で水を飛ばして汚れを落とすように、思いの圧が高く饒舌である点を活かせば普通では届かないような遠くにまで言葉を届けることができます(こうして文章を書いたりテレビに出たり講演したり)。しかしその一方で、至近距離で直に浴びると怪我をするほど過剰であるということです。
息子たちと離れて暮らして7年目になりますが、母親が日豪往復でも親子の関係が希薄にならないのはビデオ通話と、この高圧洗浄機体質のおかげなのではないかと思います。思春期などはむしろずっとそばにいるより、これぐらい離れているぐらいの方がいいのかも。なんだか映画の「シザーハンズ」にも通じるものがありますが、そばにいた頃からこの過剰さに耐性があった夫や息子たちは、特異体質なのかもしれません。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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