連載
#3 味わい深い「校歌」の世界
愛され過ぎた校歌、同じ曲が別々の学校で 作曲はエールの古関裕而
残された数千曲、取材中にまさかの情報が
校歌といえば、全国各地の学校にあり、同窓生が一緒に口ずさめる歌です。いわば、学校のアイデンティティーといえるもの。ある日ふと、自分の母校の作曲者が、古関裕而さんだったなと思い出しました。何げなく地元の校歌を調べてみると、メロディーも歌詞も同じ二つの校歌の存在を知ることに。なぜ同じ校歌を違う学校で歌っているのか、取材しました。(朝日新聞記者・影山遼)
私の地元は福島市ですが、同じく福島市で生まれ育った古関裕而さん(1909~1989年)は、「栄冠は君に輝く」や「六甲おろし」(阪神タイガースの歌)、「高原列車は行く」などを作曲しました。実は、本名は「裕而」でなく「勇治」です。
悲しいことに、あまり愛校・愛社精神のない私ですが、校歌はいまだに覚えています。中学生の時には、部活の練習試合で行く他の中学校の体育館に掲げられた校歌を見て、「あ、また古関さんが作曲しているな」と、どこでも出会う名前を不思議に感じていました。
福島市にある古関裕而記念館によると、古関さんは福島にとどまらず、全国各地で校歌や応援歌を作曲していました。福島県内では約100校の校歌や応援歌を作ったそうです。どうりで、県内各地で「作曲:古関裕而」の校歌を見かけたわけです。
自分の記憶の中にしっかりと根付いている校歌を、古関さんはどのような気持ちで作っていたのでしょうか。NHKの連続テレビ小説「エール」の対応で多忙を極める中、記念館の学芸員が教えてくれました。
取材の冒頭、学芸員の氏家浩子さんから、いきなり衝撃の言葉が。「校歌の作曲は、古関の仕事のおまけみたいなものです」
さらに「正確な記録がないので、何校で作ったかという数字も生き物のように流動しています」と続けます。
2012年に氏家さんが着任してからも「数個は新しい校歌が見つかっています」。実際には古関さんが作っていたとしても、楽譜や感謝状といったものが見つからないと、確認できなかったからだそうです。「まさか私の母校のやつも…」と心配になりましたが、古関さんの作ったものとして記念館は把握している、とのことでした。一安心です。
どのようないきさつで校歌を作っていたのでしょうか。「戦前から作っていましたが、どうして作ることになったのか、経緯が分からないものが大半です」と氏家さん。福島県外では東京や広島、福岡で多いといいます。「作詞家が知り合いというケースが多いようです」
地元のために無料で作るなんて偉いな、と勝手に思っていたのですが、氏家さんは「校歌だからといって、古関はタダでやることはありません」とぴしゃり。作曲を生業とし、仕事に誇りを持っているからこそ、お金はもらったといいます。ただ、中にはこんなエピソードもありました。
「古関は『誰にも言わないで』とこの時は言ったみたいですけどね」と氏家さんは付け加えます。
古関さん自身、校歌については「年齢や性別を問わずに、学校という共通項を持つ人が一緒に歌えることを意識していた」そうです。
歌謡曲や流行歌と違い、古関さんが作る校歌は、歌詞が先にあった上で、メロディーを作っていました。そのため、歌詞からその土地をイメージし、それに合った曲を作る。だからこそ、私の校歌も土地に根を下ろした曲になっていたような気がします。
「地元の歴史・自然・風土、全てを読み込んで校歌を作っていたので、これからも大切に歌い続けていってほしいと思います」と氏家さんは話します。
取材の途中、またしても驚きの事実が氏家さんの口からこぼれました。
「歌に愛着があるため、同じ校歌を使っている学校があります。知りませんでしたか」
一体どういうこと?
同じ校歌を使っているのは、いずれも福島県の伊達市にある松陽中学校と桃陵中学校です。メロディーも歌詞も全く一緒。違っているのは、最後の校名の部分だけです。
松陽中の方だけ、JASRACが著作権を管理していたため、桃陵中の歌詞のみ掲載します。
どうして同じ校歌なのか、手がかりを求め、桃陵中の校長・佐藤政俊さんに話を聞きました。
佐藤さんの前任はまさかの松陽中。「着任した日にすぐ校歌を歌えました」と、少し誇らしげに笑います。生徒は意外と、両校の校歌が同じだと知らないこともあったそうです。
当時を詳しく知る人が、歴史を教えてくれました。始まりは、この地に1987年まであった保原中学校の生徒数が多くなり、学校を分ける必要に駆られたことだといいます。
教えてくれたのは、当時保原中で教員をしており、その後、桃陵中の校長も務めた清野茂徳さんです。保原中は自身の母校でもあります。清野さんは「保原中は相当なマンモス校で、校舎も古くなっていたのですが、町の規模では新しく二つ作るのが難しい。そこで、新しい学校(=桃陵中)は一つだけにし、もう一校(=松陽中)は校名変更という形をとったようです」と振り返ります。
その頃、新しくできる学校は、校歌も新規で作るという流れがあったそうです。ただ、新しくできた桃陵中から、これまで慣れ親しんだ曲を歌い続けたいという生徒が登場し、さらには、地域の大人たちからも校歌を消したくないという熱い思いが生まれました。最終的には、歌詞内の校名だけを変えることの「了承をとった」といいます。
誰か上が決めたわけでなく、素晴らしいメロディーと歌詞を守りたいと、自然発生的に生徒と大人の統一見解が生まれていくところを清野さんは目の当たりにしました。新しく作るのにお金がかかるという課題もありましたが、お金の話は二の次でした。
清野さんによると、今でも成人式では、両校の卒業生が一緒に歌う光景も目にできることがあるとか。「母校の歌が受け継がれている、素晴らしいことです」
作った本人は校歌について、どのように考えていたのでしょうか。
古関さんの自伝「鐘よ鳴り響け」(集英社文庫)に、下記のような記述があります。
もしかしたら、古関さんの頭の中からは、地元の校歌のいくつかは消えていたかもしれません。それでも、校歌は歌い継がれ、その学校特有のアイデンティティーを作っていく。流行歌は世代によって曲調が変わっていきますが、校歌だけは根本的な部分で変わらずに残り続けていく。不思議な存在です。(新しい種類の校歌も生まれていますが)
やはり昔から歌い慣れてきた曲は良いものがあるなあと思っていたところ、取材の最後に、記念館の氏家さんからまさかの話が。「朝日新聞や産経新聞などの社歌も古関の作曲ではなかったですか」。中学の校歌だけが古関さんの仕事かと思っていたら、社歌でもお世話になっていたのでしょうか?
ただ、一度も歌ったことがありません。周りに聞いてみても、そもそも存在自体を知りません。社史をめくっても見つからず。昔の記事でも「幸か不幸か朝日新聞には社歌がない」と書かれています。
紆余曲折を経て探し出したのが朝日新聞の歌「町から村へ」という、たしかに古関さんが作曲した歌がありました。これは社歌なのか、否か。当時の資料を見てみると、新聞の宣伝と販売店の応援のために作られた曲のようで、社歌ではないようです。この辺りの経緯は、また機会があれば触れたいと考えています。
今時、社歌を歌う会社は多いのでしょうか。校歌だけでなく、社歌もいずれどこかで取材したいと思います。
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