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連載

#13 Busy Brain

小島慶子さんの小学校時代「いじめに加担し、深い後悔」

いじめられていた惨めな自分を帳消しにできると思ったのです

小島慶子さん=植田真紗美撮影(朝日新聞出版)
小島慶子さん=植田真紗美撮影(朝日新聞出版)

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!今回は、小島さんが転校先の香港日本人学校でいじめに加担してしまったときを振り返り、その時どんな感情の揺れがあったのか、心の内をお話します。

転校先は、香港日本人学校

 前回は初めての日本人学校生活でいじめられた話を書きました。以前、幼稚園時代に仲間外れにされた話も書いたので、やはり障害があるといじめられやすいのだなと思った人もいるでしょう。発達障害以外にも、転校生だったとか、背が高かったとか、人見知りだったとか、子ども社会で目をつけられそうな理由はいくつも考えられます。けれど繰り返しますが、いじめはされた方ではなく、する方が悪いのです。そして障害を持つ人がいつもいじめられるとは限りません。いじめる側になることもあり得ます。

 シンガポールで9ヶ月暮らしたあと、小学2年生で香港に引っ越しました。1980年のことです。色鮮やかな花々と緑に覆われたシンガポールから、高層ビルが密集し雑多なエネルギーに満ちた香港へ。今度は古い一戸建てではなく、海を見下ろす新しい高層マンションでの生活です。

 香港はシンガポール同様、イギリスによる植民地支配を経て日本の占領下に置かれました。戦後は再びイギリスの支配下に置かれ、1980年当時もイギリス統治のもとで、中国系の人々を中心に、世界中から集まった人々が暮らしていました。海と山に挟まれた狭い土地に、近代的なビルと古い暮らしがひしめきあう不思議な島。甘くてみずみずしいシンガポールの空気と違って、香港の風はしょっぱい生活臭がしたけれど、なんだかワクワクする活気を感じました。

 転入先は、当時シンガポールに次いで世界で二番目に大きかった香港日本人学校。もう日本からの初心者入学ではありませんから、自信がありました。案の定、世界一大きな日本人学校から来た転入生に周囲は興味津々で、制服はあったかとか校庭はどれくらいの広さだったかなど色々と質問されました。シンガポールでは私服登校で、体育の時だけ蘭の花の校章のついた体操服を着ること、校庭はうんと狭くて、学校の裏の小さなモスクのある丘が運動場代わりであることなどを話すと、みんな驚いていました。

 香港日本人学校には水色のワンピースの制服があり、薄緑色の塗料が塗られたコンクリートの校庭と、大きな屋根付きプールがありました。プールからは、黒みがかった緑に覆われた急峻な岩山がすぐ目の前に見えました。

 教室では少しの間、転校生に対する通過儀礼のような仲間外れはあったけれど、徹底無視でかわすうちにすぐに収まって、近所に住む仲の良い友達もできました。毎朝夕のスクールバスは楽しいお喋りの時間です。ついに自分は「普通の子」になれたのだと安堵(あんど)しました。でも決して学校が平和だったわけではなく、クラスにはすでにひどいいじめの標的になっている子たちがいました。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: iStock

いじめる側に立って湧き上がった安堵と優越感

 転入した2年生のクラスでいじめられていたのは、髪の長い女の子でした。子どもたちは休み時間の度にその子をからかい、囃(はや)し立てました。怒ったり泣いたりしているその子を見ていると、ついこの前までの自分を見ているようで苦しくなり、動悸(どうき)がしました。同時に「いじめられているのはもう私ではない」という安堵が湧き上がってきて、優越感を覚えました。

 あのスクールバスでの地獄の日々、女王様と家来たちは私にとって憎い敵であり、同時に眩(まぶ)しい強者でもありました。悲しいことに、いじめられながら、私はいじめっ子たちを羨ましく思っていたのです。仲間と一緒に人を傷つけて楽しむことだってできる、強くて自由な人たちだと。本当はただの弱い卑怯者たちなのに、一人ぼっちで惨めな気持ちになっているときには、そう思えませんでした。

 香港に転校してしばらくしたある日、私はいじめる側に回りたくなりました。自分が安全圏にいることを確認したくなったのです。休み時間に標的の女の子を囃(はや)し立てるいじめっ子たちの尻馬(しりうま)に乗って声をあげ、強者になった気分を味わいました。自分は多数派だと思うと高揚感に包まれ、気が大きくなりました。もっと自由を堪能したい、自分はどんなひどいことだってできるんだと思いました。

 そこで喧騒に紛れて標的の女の子の机にこっそり自分のノートを入れ「なくなった理科のノートがこの子の机にあった! 盗まれたんだ!」と濡れ衣を着せてみました。ところがすぐ隣にいた男子に自作自演であることを見抜かれ、その場で暴露されました。彼は、女の子の容姿や振る舞いを罵(ののし)りあげつらうのは“正当な制裁”だけれども、濡れ衣を着せるのはインチキな手口であると判断したのです。

 ご都合主義な基準ですが、私は彼に感謝しています。もしもあのとき濡れ衣作戦が成功していたら、私は味をしめて偽りの盗難被害を振りかざし、いじめをエスカレートさせていたでしょう。暴力を振るう“自由”を手に入れた権力者気取りで。

 女の子をいじめていたみんなは、一斉に私を非難しました。強者や多数派や“正義”の側になれるなら、相手は誰でも良いのです。そして実際私がやったことは、非難されて当然でした。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

なぜ、いじめを思いとどまることができなかったのか

 なぜあのとき、思いとどまることができなかったのか。いじめをやめさせようとは思わず、むしろ加担してみたいと思ったのか。彼女がいじめられている限り、自分はいじめられないとわかっていたからです。いじめる側になれば、いじめられていた惨めな自分を帳消しにできると考えたからです。実際は帳消しどころか、より惨めで卑しい人間に成り下がっただけでした。

 いじめに加担した私の心中には、自分が排斥されるのではないかという不安と、シンガポールでいじめられたことへの恨みや鬱屈が溜まっていました。自分も暴力をふるう“自由と権力”を手に入れたいと思いました。また、いじめを一層盛り上げることで仲間に認められたい、喝采(かっさい)されたいという気持ちもありました。注目を集め、承認されたかったのです。それを誰かを踏みつけにすることで手に入れようとしました。私にはあの女の子を嫌う理由はありませんでした。ただ、みんなが標的にしていたから狙っただけです。

 翌日からもいじめの標的はあの子のままで、子どもたちは代わるがわる新しいいじめの手口を考え出し、調子に乗った転校生が濡れ衣を着せようとしたことはそれ以上大きな騒ぎにはなりませんでした。でもきっと、私を軽蔑した子はたくさんいたでしょう。

 中でもあの標的にされていた女の子の怒りと軽蔑のこもった眼差しは忘れることはできません。私は人の尊厳に触れ、彼女の気高さと強さに打ちのめされました。恥ずかしさのあまり、みっともない言い訳をして謝らずにごまかして逃げました。いじめっ子は強者なんかじゃなく、ただのクズでした。落ちぶれて初めてそれに気がつきました。

 いじめをするやつがいる限り、いじめはなくならない。いじめられていた彼女に原因があったのではなく、歪んでいたのは、いじめに加担した私でした。

 もう一つ、新しい環境で承認されるためにとった手段はいわゆるパクリでした。国語の授業でお話を書く課題があり、クラスメイトが書いた『じゃがいもおばさん』というお話がとても面白く大受けで、先生も絶賛したのです。そこで私は『にんじんおばさん』という似たような話を書いて提出しました。先生は「よく書けているからみんなの前で読むように」と言ってくれたのですが、当然みんなは『じゃがいもおばさん』の二番煎じだとわかるので、反応は熱狂的ではありませんでした。

 褒めてもらったのにとても後味が悪く、罪悪感が残ったので、人真似(ひとまね)はするもんじゃないなと思いました。あのとき、大受けしなくて本当によかった。私は愚かでみっともない子どもでしたが、天罰とでも言おうか、いじめもパクリもすぐに露見して恥ずかしい報いを受けることになりました。40年経った今も自分のしたことは忘れることはできません。

写真はイメージです
写真はイメージです 出典: PIXTA

小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。

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