連載
#12 Busy Brain
小島慶子さんが語る「それが性暴力と知ったのは40年経ってから」
強い屈辱と罪悪感を覚え、その怒りを全て自分に向けてしまいました
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です! 記事の後半に性暴力に関する表現が含まれます。
小学校1年生の時、引越し当日にショックを受けたシンガポールの社宅は、想像していたような白いお屋敷ではないけれどよく見れば特別にひどい家というわけでもない、古い一軒家でした。壁の上部には通気口がたくさん開いており、虫やトカゲが出入り自由。壁にはメロンシャーベット色のかわいいヤモリが貼り付いていました。
一階は冷たいタイル張りのリビングダイニングと、使っていないアマさん(住み込みのお手伝いさん)用の小部屋、キッチン、洗濯部屋、トイレ。二階はバスルームのついたマスターベッドルームと、私が使う子ども部屋、もう一つは錆びたベッドフレームが天井まで積み上げられた暗い部屋。家の裏には大きな椰子(やし)の木が生えていました。初めて聞く熱帯の鳥の声と、甘く瑞々しい緑の香り。私はシンガポールがすぐに好きになりました。
転入したシンガポール日本人学校は当時世界最大規模で、児童の多くは駐在員の子どもたちでした。海外帰国子女というと現地校でのいじめや英語で苦労する話が多いですが、日本人学校には言葉の壁はない代わりに独特の息苦しさがあります。企業社会が濃縮された駐在員コミュニティでは、父親たちの肩書で子どもたちの人間関係が左右されかねません。両者をつないでいるのは母親たち、いわゆる駐妻の人間関係です。
妻たちは、我が子が学校で夫の上司の子どもを泣かせたり、夫の取引先の部長の子どもをいじめたりしないかを気にしなくてはなりません。ですから子どもたちはまだ小学生だというのに、親の肩書きや企業の序列について自然と詳しくなりました。
私も1年生にして「一番えらいのはそうりょうじ、次がこうぎんとかとうぎん、その次がみつびしぎんこうとかすみともぎんこうとかで、その下がみついぶっさんとかまるべにとかで・・・」などと企業名に詳しくなり、日本人会のどのおじさんがえらくて、どのおばさんを怒らせてはいけないのかも何となく知っていました。私たち日本人は、祖国とは全く異なる自然や文化の中に身を置きながら、企業社会の力学が浸透した濃密なニッポン共同体の中で暮らしていたのです。
大抵の駐在員は3年か、長くても6年ぐらいで日本に戻るか次の転勤先に移動するので、日本人学校では転入・転出は日常茶飯事です。その国に他の子よりも長くいる古株の子や、多くの国に住んだことがある子は一目置かれていました。日本からの転入生はいわば初心者。通過儀礼としていじめに遭います。私も早速、スクールバスで仲間はずれにされました。
近所で一番の古株は、日焼けした肌にイカのように真っ黒な瞳を光らせた女の子でした。あたりの子どもを従える女王様です。バスに乗った初日、女王様はそばに来ると名前を尋ねました。バス中の子どもたちがこちらを窺い、クスクス笑っているのが聞こえました。
それから毎朝、仲間外れや嫌がらせの標的にされました。具体的にどんなことをされたかは全く思い出せません。覚えているのは、とにかく辛かったということ。スクールバスの運転手さんは気の優しそうなずんぐりしたシンガポール人のおじさんで、子どもたちが騒ぎ立て、私が泣いているのを時々気にしていました。
ある日耐えかねておじさんのそばに駆け寄り「ヘルプミー!」と叫びましたが、困ったような顔をしただけで、助けてはくれませんでした。運転手さんはバスを安全に運転するのが仕事なので仕方がありません。この時、大人は生きるためにお金が必要で、お金のためなら泣いている子どもを見捨てることもあるのだと知りました。
バスに乗りたくないと渋る私を、母は毎朝手を引いて集合場所まで連れて行きました。街路樹の緑や垣根のブーゲンビリアの濃いピンクの花はキラキラと輝いているのに、なんであんなバスに乗らなくちゃいけないんだろう。囃(はや)し立てる声が響く車内から見える朝の都会は、明るい活気に満ちていました。白く光るビルを涙目で眺めながら、バスの中は地獄だけど、シンガポールは美しいと思いました。
そんな目に遭っていたのに、いじめっ子の女の子に声をかけられればのこのこと遊びに行きました。仲間として扱われないのは辛いけど、遊び相手がいないのは寂しかったからです。転校生であること以外、自分がいじめられる理由はわかりませんでした。ADHDが原因だったのかどうかもわかりません。いじめるやつがいたから、いじめられたのです。女王様にしてみたら、相手は誰でも良かったのですから。
いじめられる子にどんな原因があったかではなく、いじめる子にどんな事情があったかを考えなければ、いじめはなくなりません。あの子はなぜ、いじめをしないではいられなかったのでしょう。あの子と同じ陰険な目をした母親はどんな人物だったのか。あの家庭は、どんな事情を抱えていたのか。
その家ではいくら暴れても大人に怒られなかったので、子どもたちのたまり場になっていました。女王様は時々、母親の見ているところで男子を集めて座らせ、“ご褒美”を披露していました。みんなの前に立つと小首をかしげて体をくねらせ、「今からおっぱいを見せまーす」と言って服をずらすのです。
私はそれを一番後ろから見ていました。女王様の姿はみっともなかったし、それを食い入るように見ている男子たちも、黙って見ている女の子たちもみんなバカに見えました。小学校低学年の女の子がそういう方法で人心掌握をはかり、親がそれを容認していたのは当時の私から見ても異常な光景でした。
女王様には弟がおり、こいつはよく私をうつ伏せにして背中に乗っかり、脇の下から手を入れてしつこく触ってきました。この時の記憶は今でも思い出すと体を洗い清めたくなるほどの嫌悪感を伴います。あいつは私を仲間内の最下層にいる子どもだとわかっていてそれをやったのです。無理やり触っても構わない、抵抗できない立場にある女だと思ったから。
そして実際、私は嫌だと言えませんでした。女王様の小便くさいベッドに組み伏せられて後ろから触られている屈辱を他の子たちに知られたくなかったし、悲しいことにそいつが嫌いでならないのに、身体的な反応はときおり性的快感を伴っていたのです。だから黙っていました。拒絶感と性的快感に引き裂かれた結果、胸元に手を突っ込んできたそいつではなく、そのような矛盾した反応をする自分自身を強く嫌悪するようになりました。自分は汚れた共犯者だと思ったのです。
それが性暴力と知ったのは40年経ってから、ある専門家に子どもの性虐待について話を聞いた時でした。「加害者は、性的快感を与えることで子どもに罪悪感を植えつけようとすることがある。子どもは虐待被害に加えて自己嫌悪と罪の意識に苦しみ、被害を誰にも言えず、精神的に極めて深い傷を負うことになる。性的快感があったのなら虐待には当たらないとするのは誤りである。
例えば加害者による物理的な刺激によって被害者が勃起したからといってその子が性行為を望んでいたことにはならない。女児も同様で、刺激に対する身体的な反応をもって“喜んでいた”“本人が望んでいた”とするのは全くの誤りであり、そうした行為は極めて悪質で巧妙な虐待であり、性暴力である」と聞いて、自分がされたこともまさにそれであったと気がつきました。
加害者は自分と年もさして変わらぬ子どもでしたが、あれは性暴力だったのです。いきなり触られた私は、強い嫌悪と同時に、身体に加えられた刺激が脳で快感として処理されてしまったことに強い屈辱と罪悪感を覚え、その怒りを全て自分に向けてしまっていました。けれど、悪いのは触った方です。立場の弱い相手にのしかかり性欲のはけ口にしたあいつが悪いのであって、されたことによって心身を振り回され混乱させられた私が悪いのではない。それに気づくのに40年以上かかってしまいました。
性暴力被害にあったことがきっかけで性的に過剰な行動をとる人の中には、もしかしたらこのような自己嫌悪や罪悪感を植え付けられたことに苦しんでいる人がいるかもしれないと思います。被害体験を「どうでもいい性体験の一つ」にしてしまいたくて、あるいは性的に反応した身体への自罰行為として、無意識のうちに自らに性暴力を働くような行動をとることもあるのかもしれません。
子ども同士の遊びに見えても、無理やり胸や性器を触るのは性暴力です。「水着で隠れる場所は人に見せたり見せろと言ったり、触らせたり触らせろと言ったりしてはならない。相手が誰でもあなたはNOと言っていいし、もし嫌なことをされたら相手が悪いのであって、あなたは悪くない」とうんと小さい時から伝えることは、我が子を被害者にも加害者にもしないためにも重要であると改めて思います。
女王様たちのいじめについて、家庭訪問に来た担任の先生に涙ながらに訴えたとき、いつもは元気のいい先生は困ったような、それ以上は言ってくれるなという顔をしました。母も加勢してくれましたが、先生への遠慮があるのか、あまり強くは訴えませんでした。どうやら大人の力で解決してもらうことは期待できないと判明して目の前が暗くなりましたが、やはり幼い頃にいじめられっ子だった母が「とにかく無視しなさい」と言ったのをきっかけに、少し状況がマシになりました。
いじめはなくなりませんでしたが、何を言われても何をされても一切無視することに決めたら、無視する強さを持っている自分を見直して信頼することができるようになったのです。いじめがなくなったかどうかは覚えていませんが、程なくして香港への転校が決まったので、毎朝の地獄とはおさらばすることになりました。
香港に転校するときは、私はもう初心者ではなく、海外生活経験者です。世界一大きな日本人学校から世界で二番目に大きな日本人学校に転入するのですから。
後付けで考えれば、人間関係がうまくいかないことにはADHDも影響していたのかもしれません。思いついたことをすぐに口にするとか、喋り過ぎてしまうとか。けれどそれだけでなく、幼少時に同世代の子どもとの接触が少なかったこと、生来の激しい人見知り、愛着形成がうまくいかなかったことによる見捨てられ不安、人付き合いの適切なロールモデルが身近にいなかったことなど、いくつもの要因があるでしょう。
発達障害というと「空気が読めないからいじめられる」と言われたりしますが、障害の有る無しにかかわらず、残念ながら人が集まればいじめは起き得ます。いじめられる原因を探すのではなく、いじめる動機と、いじめを生む環境に注目することが大事ではないかと思います。人はなぜいじめをするのか、どのような環境でいじめが生まれやすいのか。たとえいじめられた側になんらかの要素があったとしても、それを理由にいじめを正当化することはできません。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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