連載
#6 #半田カメラの巨大物巡礼
戦艦大和の古里に広がる「仏像ワールド」型破りな僧侶が込めた郷土愛
「未完の大仏」が象徴する平和への熱い思い
明治時代、広島県の山間(やまあい)に建てられたお寺に、全国から熱い視線が注がれています。その理由は、敷地内に並ぶ仏像の数々。エキセントリックな配色や、アンバランスな体格が、訪れる人々に鮮烈な印象を刻むのです。実は、ほとんどが一人のお坊さんの手になるもの。「知る人ぞ知る風変わりなお寺」という評判を覆す、一体一体に込められた平和への思いについて、大きな物を撮り続ける写真家・半田カメラさんにつづってもらいました。
戦時中、戦艦「大和」が建造されたことで知られる、瀬戸内海に面した造船の街・広島県呉市。この呉の港を見下ろす山の中に「岩松山 源宗坊寺(いわまつやま げんそうぼうじ)」はひっそりとたたずんでいます。
ふもとに広がる住宅地を抜け、細い山道をひたすら登って行くと、突如として道の脇に異様な造形の2体の像が現れ、ハッとします。右手を振り上げ見開いた目は、まるでこちらを威嚇(いかく)しているかのようです。
実は仁王像なのですが、果たしてどれほどの人が認識できるのでしょう。その造形は、常人の考える「仁王」という概念を、ひらりと飛び越えていくよう。ここが源宗坊寺の入口です。
さらに奥へと進んで行くと、お寺の案内看板を発見し、先程の像は仁王像であったこと、この先にまだたくさんの仏像があるということがわかるのです。
境内に入って、まず出迎えてくれるのは焔摩天(えんまてん・閻魔大王)。本堂の先には延命地蔵、毘沙門天もあります。どれもこれも、説明されなければそうとは気付かないほどの、独創的な造形に驚かされるばかりです。
「次はどんな仏像が現れるのか」とドキドキしながら振り返った先に見えてくるのが、源宗坊寺最大の仏像、像高6メートルはあろうかという巨大な不動明王大仏です。
私は最初にこの大仏を見たとき、高い台座の上に位置する不動明王が、天をにらみつけているのだと思いました。
しかし、それにしては何かがおかしい。よく見れば像の下半身が石垣に埋まっています。お寺の方に話を聞けば、不動明王は「胎内仏」になるはずだったのだそう。胎内仏とは、仏像の内部に納める小さな仏像のことです。
お寺によると、元々は不動明王像を内側に安置する形で、全高約30メートルの釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ=お釈迦様)を造る予定でした。しかし完成に至らず、そのままの状態で残され、遺跡のように自然と一体になっているのです。
私が立っている足元には、確かに大きな手と足のオブジェのようなものがあります。説明を聞いて初めて「これが造られるはずだった大仏の手足なのだ」と気付きました。
どれだけ大きな物を生み出そうとしていたのか、壮大すぎて言葉を失います。
源宗坊寺は1906(明治39)年に、稲田源宗(いなだ・げんそう)さんという一人の僧侶により開かれました。源宗さんは今で言う、医師や薬剤師のような仕事も行っていて、地元の人から慕われていました。
人々を癒し、救いたいという熱い思いからでしょう。ある日、プロの仏師でないのに一人せっせとコンクリートの仏像を造り始めます。稲田源宗オリジナルデザインの個性的な仏像が、山の中に一つ、また一つと設置されていきました。
源宗坊寺の境内には、現在35体の仏像が自然と共存するように点在しています。そのうち13体のコンクリートの仏像が、源宗さんの手によるもの。残りの仏像は源宗さんが亡くなった後、ご縁がありお寺で預かったものだそうです。
少しずつ山の中に仏像が集まり、現在の源宗坊寺が形作られていったのでしょう。現在は上半身しか見えない坐像(ざぞう)の不動明王が完成したのは1915(大正4)年。そのとき、地元の新聞社が取材に来ています。
メディアに取り上げられるほど見事な仏像を造ったのに、源宗さんは大仏を造るため、不動明王を覆い隠すように、腰の位置まで岩を積み上げていきました。
結果的には、その先の作業に着手することなく、源宗さんは亡くなってしまいます。長い年月をかけ、これだけ大きな仏像を手がけようとするモチベーションとは何だったのでしょう?
時代は大正から昭和に移り変わる頃。当時、呉は日本を代表する軍港でした。30メートルの釈迦牟尼仏は、完成していれば、木々の上から顔がのぞき、呉の港を見下ろすほどの大きさだったはずです。
胎内に怒れる不動明王を宿す、柔和なお顔のお釈迦様。そんな構造を採用したのは、きっと愛する呉の街を外敵から守りたかったからなのではないでしょうか。
源宗さんは1939(昭和14)年7月に死去。その後、第二次世界大戦が勃発します。戦艦を製造する軍需工場が立ち並んでいた呉も、空襲に見舞われるなど、戦渦に巻き込まれていきました。
源宗さん亡き後の源宗坊寺は、二代目住職にあたる娘さんに引き継がれます。娘さんが他界してからは、祭事や維持管理のため、離れた場所に住むお孫さんが定期的に訪問。しかし、それ以外の時期は、僧侶がお寺に常駐していないという状態が長く続きました。
そして今から5年前、源宗坊寺を今後どうするか、という親族会議が開かれます。東京出身で、当時は都内の商社で働いていた、源宗さんのひ孫にあたる日下元正(くさか・げんしょう)さん(51)も同席します。
三代目住職である日下さんの父は、間もなく70歳を迎えようとしていました。日下さんが承継しない選択をした場合、お寺を誰かに譲るか、もしくは処分するか、いずれかのアクションを起こさなければなりません。
商社での勤続23年目にして、「広島のお寺を継ぐか継がないか」の選択を迫られることになった日下さん。すぐには決断できず、一年間悩んだ末、2016年に家族を連れて呉へと移住することを決意します。
ご縁のあるお寺で修行を積み、僧侶として活動できる身となり、現在は住職である父とともに、副住職として源宗坊寺で日々お勤めをしています。
実は日下さん自身、お寺を継ぐことについては「自分の中にNOという選択肢はなかった」と話します。
年末年始には毎年、法要の手伝いなどのため呉に帰省しており、源宗坊寺には特別な思いがありました。一方で、幼い子どもを育てていたため、一年間かけて家族の了承を得たのだそうです。
日下さんいわく、準備期間を経て行った修行中は、タイミングや出会う人々にも恵まれ、道がどんどん開けていくように感じていました。
「初めてのはずなのに、過去に経験したことがあるように思える。そんな懐かしい感覚に包まれることが何度もあり、次第に『この道を行ってもいい』という確信めいたものを感じるようになりました」
源宗さんは、不動明王像を覆う大仏を完成させることなく、この世を去りました。仏像には、その遺骨の一部が埋められていると言われています。
まさに源宗さん自身が大仏となり、未完の大仏を完成させたのだと、日下さんは考えているそうです。
「これから『大仏になったお坊さん』のストーリーを人々に伝えながら、源宗坊寺を地域に根付かせる活動を行っていきたい」。今後の展望について私が問いかけると、日下さんは熱く語ってくれました。
源宗坊寺は「知る人ぞ知る風変わりなお寺」として、一部の人々に驚きを持って受け入れられています。
確かに源宗さんの造った仏像は型破りで、写実的とは言いがたいかもしれません。しかし、だからこそ、作為的でない純粋な情熱が伝わってきます。
そして詳しい説明を聞き、一体一体に込められた思いを知れば「単に風変わりな仏像」という以外の、違った部分が見えてくるのです。
源宗さんの情熱は、それを伝える語り部なしでは、容易に理解することができません。これからは日下さんがお寺を守り、熱い思いを伝えていってくれることでしょう。
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