連載
#11 Busy Brain
小島慶子さんがひもとく、「いきなりその話?」と不興を買うADHD
光の速さで連想が進むので、いきなり前置きなしに話してしまう、ということに
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
小学1年生になってそれほど経たないうちに、父の単身赴任先のシンガポールに引っ越すことになりました。この窮屈な暮らしから抜け出せる!とワクワクしました。きっとシンガポールでは、新しい友達がたくさんできて、大きなお屋敷に住んで、おしゃれな習い事もできるだろう。
母に「お家は大きくて白くて立派なの?」「テニスとバイオリンを習ってもいい?」と尋ねると「そうよ、大きなお家よ」「もちろん習ってもいいわよ」と答えてくれました。なんて素敵なのでしょう。
集団登校の道すがら、私はそれをウキウキしながらみんなに話しました。するとあのお行儀ポリス姉妹が「慶子ちゃん、それ、ジマンていうんだよ。みんないやな気持ちになるから、やめなよ」と言いました。
そうか、嬉しい話をすると不愉快になる人がいるんだな、自分は恥知らずで間抜けであったなと思いました。でもいいんだ、こんな人たちとはもうすぐお別れだから、と山を切り崩すブルドーザーを横目に見ながら思いました。新しい公園と小学校ができる予定でした。何もかも急ごしらえの、造りかけの町は私を疲れさせました。
いよいよシンガポールに行く日がやってきました。大学受験準備のために日本の高校の寮に残る姉と別れて母と二人で飛行機に乗り、空港で出迎えた父の運転する車で夜遅く社宅につきました。その時のことははっきりと覚えています。お屋敷どころか、見るからに冴えない、古い小さな家でした。殺風景な狭い庭には痩せっぽちのレモンの木が一本。
「ここがお家?」「テニスは? バイオリンは?」
母は、まあそのうちねと言葉を濁しました。騙されたのです。外国に行くのを嫌がらないようにと、夢のような話を聞かせたのです。胸いっぱいに希望を膨らませたたった7歳の子どもが、どれほど失望するかを考えもせずに、適当なことを言って異国に連れてきたのです。
暗闇に浮かぶ陰気な家を見上げて、心底悲しくなりました。「夢なんて叶わないんだ」と思いました。ウキウキしていた自分が惨めでした。いま子どもを持つ身になって考えると、あれは本当に間違ったやり方だったと思います。どんなに幼い子どもでも、騙してはいけません。相手の知性を信用して、できないことはできないと言い、けれどこんな素敵なことがあるよ、と事実に即して現実的な希望を持たせてあげればよかったのです。
貧しくて苦労の多い家庭で育った両親は、子どもを育てるのが本当に下手でした。彼らなりに奮闘したのだと思いますが、彼らもまた十分に愛されたことのない不器用な子どものままだったのです。
もしも私がもともと過敏な子どもでなかったら、あんなに失望することもなかったのかもしれません。それに頭の中で膨らんだ想像は、まるで一度見てきたかのような現実感を伴ってありありと目に見えたものですから、実際の風景との落差が非常に大きかったのだと思います。
実は今もちょっとそんな傾向があり、行ったことのない場所での仕事の予定が入ると、その仕事のことを考えているうちに「こんな感じの部屋でこんな感じでやる会議だろう」などと想像がどんどん具体化して行き、実際現場に行った時に全然違うので「ああそうだ、私ここに来るの初めてだったんだ」とハッとする、ということがよくあります。
それにしても、シンガポールショックは大きかった。あのとき、うら寂れた家の風景とともに味わった「人生には、期待通りの素敵なことなんて起こらない」という深い落胆と怒りは、通奏低音となって大人になるまで影響を及ぼしました。そうではないと思えるようになったのは、努力が報われたり、縁に恵まれたりする経験を重ねた中年期になってからでした。
そんなわけで、私は子どもたちに空手形を切ったことはありません。うんと幼い時から、彼らの知性を信用し、小さな胸の内に宿ったキラキラした期待の光を大事に扱うよう心がけました。やると約束したことは必ず実行し、もし願いを叶えてあげることが難しくなった時には、嘘をついたりうやむやにしたりせず、正直に話して、代替案を示し、彼らの希望を聞きました。
自分の期待や希望が尊重されるという経験をすることが、子どもたちにとっては重要です。そして当初の計画がうまくいかなくても「他にやりようがある」と思えること。そうすれば安心して新しいことに挑戦できるようになるのではないかと思います。
感受性が強く、想像力が豊かで、頭の中で映像化した通りにならないと落胆したり苛立ったりするのは、私の生来の気質でもあり、ADHDの特性も影響していたのかもしれません。英語でBusy Brainと言うように、頭の回転が速く、変化が目まぐるしくて、いつも脳みそが混み合っているのです。何かに興味を持つと次々と連想が生まれ、イメージが膨らみます。いろんなアイディアも浮かんで、すぐにでも行動に移したくなります。
一つの刺激に対して他の人がまっすぐ3コマ進む間に、変則的に30コマくらい進むので、側(そば)から見ると唐突で、「なんでそこ?」という反応になるのです。
例えば、何人かで話している時にAさんが「昨日食べた餃子が美味しかった」と言ったとします。「どこで食べたの?」「どんな餃子だった?」「何個食べたの?」などと話の先を促す質問をするのが通常の展開ですが、Busy Brainの持ち主Bさんはそこで「Cさんは前に参宮橋(さんぐうばし)で財布落としたことがあったよね」などと言い出すのです。
Aさん「昨日食べた餃子が美味しかった」
Bさん「そういえばCさんさ、参宮橋で財布落としたことあったよね?」
会話が成立していませんね。
しかしこの時、Bさんの頭の中では、「Aさん餃子食べたのかあ。私も前においしい餃子食べたことあったよな。ああ、あれは確か代々木の店で、その後みんなで参宮橋で飲んだんだよな。その時一緒にいたCさんが酔って財布無くしちゃってみんなで朝まで探して、大変だったなあ」という連想が光の速さで進み、いきなり前置きなしにCさんの話をしてしまう、ということだったりするのです。
ギアチェンジとコース変更が速すぎて、傍目(はため)にはワープしたみたいに見えます。しかし本人の中ではちゃんと話の筋がつながっています。「なんでいきなりその話?」などと顰蹙(ひんしゅく)を買うことを繰り返し、連想ゲームの概略を話さないと相手は理解できないのだと気づき、適切なタイミングで適度な概略を入れつつ話す工夫を重ねると、速すぎるギアチェンジは長所になります。発想豊かでユニークだというプラスの評価になるのです。
必要なのは自分と相手の間に橋をかけたり翻訳したりする技術です。当時は手探りでしたから、これを身につけるまでにはたくさんの失敗をして、ずいぶん苦労しました。
あの幻のお屋敷事件は私にとってはトラウマになりましたが、母にしてみたら、子どもを傷つけないように話を合わせたのでしょうし、小さな子がヘソを曲げるのはよくあることだと思ったのだと思います。もしも彼女も誰かに知性を信用してもらってちゃんと話を聞いてもらう経験をしていたら、違うやり方ができたのかもしれません。
そういえば父も母のことをいつも「にぶちゃん」とか「どじ」とか呼んでからかっていました。彼女が本当は足が速く、父よりも運動神経が良く、活発で挑戦することが好きな女性だったと知ったのはつい最近のことです。母もまた女性であることで能力を低く見積もられ、期待されずに育ったいわゆる「翼をもがれた女の子」だったのかもしれません。
できることならタイムマシンで80年前に戻り、小さな女の子を抱きしめて「あなたは賢くて強いんだよ。自分にも世の中にも期待していいんだよ。あなたを信じて応援してくれる人は必ずいるからね」と言ってあげたいです。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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