連載
#10 Busy Brain
ADHDの衝動?「授業に集中できない子ども」だった小島慶子さん
わかり切ったことのおさらいや反復練習がじれったく、苦痛でした
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
最初に通った小学校は東京郊外の公立小学校でした。1979年度入学の1年生はうじゃうじゃおり(いわゆる団塊ジュニア世代というやつです)、校舎に入り切らないので校庭に建てたプレハブ校舎で勉強することになりました。
プレハブ校舎には不服でしたが、私は小学生生活が割と気に入っていました。まず、いろんな新しい道具がもらえます。インクのいい匂いのするカラフルな教科書と、冷たくてサラサラの紙に薄い水色で線が引いてあるノート。表紙には虫とか花の写真がついています。算数のお道具箱にはお花の形の可愛いおはじきみたいな磁石がいっぱい入っていました。絵の道具も素敵です。
新しくて珍しい細々したものがたくさんもらえるということは、眺めたりいじったりするものがたくさん手に入ったということですから、それだけ気が散るということでもあります。
でも私としては授業中に、眺めたりいじったりするものがたくさんあるのは助かりました。先生から見たら、おしゃべりが多く、落ち着きがなく、授業に集中できない子どもだったでしょう。それは、目の前の美しいものや心地いいものよりも、授業が面白くなかったからなのです。
一番強い刺激に気を取られるのがADHDの特徴のようですから、それも理由かもしれません。わかりきっている「あ」の書き順なんかよりも、昨日買ったばかりの真新しい消しゴムの匂いや直角のエッジの美しさの方がよほどキラキラしていたし、嗅いだり撫でたり揉んだりしげしげと眺めたりして、私なりに真剣に未知なるものと出会っていたのです。それに思いついたことはすぐ人に言いたくなるので、どうしても私語が多くなります。
幼い頃から年上の人に囲まれて育ったので、とにかく早く大きくなりたいと思っていました。教科書を読めば先に進みたくなるし、6時間目まであると聞けばフルに授業を受けたくなる。通学路も寄り道しながら自分のペースで登下校したい。
ところがどうやら学校というところは何もかも「みんな一緒に、ちょっとずつ丁寧に」がルールらしいのです。1年生は午前中しか授業がなかったり、集団で登下校しなくてはならなかったりしました。つまらないなあ、なんでこんなぐずぐずしているのかな、と不服に思いました。
ああ面白そうだ、やってみたい!と思うと気が逸(はや)り、わかりきったことや既に経験していることをおさらいするのが苦痛なのです。
これはもしかしたら、ADHDの特徴である衝動性にも少し関係があるのかもしれません。頭の中でイメージしたことにワクワクすると、すぐに取り掛からないといられないのです。何か新しいことを習うのでも、平易な基礎学習とか反復練習などはすっ飛ばしたくなります。ですから、1年生になってしばらくの間はとっくに知っている平仮名を書き順からゆっくりゆっくり習って何回も練習するのが退屈で、じれったいなあと思いながらやっていました。平仮名なんかいいから、早く漢字を教えてくれよ、知らない漢字を!と。
これと関係があるのかもしれないですが、昔から、何かを買っても説明書をじっくり読みません。まず触ってこうかなとかいじってみて、どうしてもわからなければ説明書を見るけど大抵は読まない。なのでだいぶ経ってから「なんと、こんな機能が!」と発見することがあります。長年使っている電子レンジに物を入れて「レンジ」というボタンを押せばレンジが勝手に考えていい具合に加熱してくれる機能があるのも、つい先日友人が教えてくれるまで知りませんでした。
さて小学校にあがると、年功序列の上下関係にいやでも組み入れられることになります。それまではただの友達のお姉ちゃんだった人が、同じ学校の先輩になるのです。ある日、何かと意地悪な女の子の説教好きな姉から「慶子ちゃんはお姉さんのことを名前で呼んでいるから失礼だ」と咎(とが)められました。「そうだよ、シツレイだよ」と横から妹も言います。
我が家では9歳年上の姉と互いを名前で呼び合っていたのですが、それは日本では「失礼」らしいのです。これが、私が人生で最初に出会ったお行儀ポリスとムラ社会でした。お行儀ポリスは他人の振る舞いにダメ出しすることが正義だと思っています。あたかもそれが社会のオキテであるかのような言い方をして、お前のやり方はなっとらんと言う。相手よりも優位に立つために「失礼だ」をやるのですね。今はネット上にも大量発生しています。
この意地悪な姉妹から強く感じたのは「外国帰りのお前とその家族は、日本の常識から外れているぞ」という威圧でした。おそらく家庭でもそんな話になっていたのではないかと思います。当時は海外に行ける人は少なかったですし、まして外国で生まれた子どもなんて滅多にいませんでした。
住宅地の古株一家としては、オーストラリア帰りの小島家が目障りだったのかもしれません。お行儀ポリス姉妹の両親は美意識が高く、自然との調和を目指した個性的な家に住んでいました。自分たちは当地きってのインテリだという自負があったのでしょう。
「日本では年上のきょうだいを名前では呼ばないものだ。名前で呼んでいるお前は野蛮である」と言われて、私は姉に対しての無礼ではなく、ニホンという場所及びそこに適応している人々に対しての無礼を咎められていると感じました。頭の中には、ニホンという大きな丸の外側にポツンと自分がいるイメージが浮かびました。まずい、中に入れてもらわないと生きていけないと、切実な焦りと不安を感じました。同調圧力に怯(おび)えたのです。
家族はそんなのは気にしなくていいと言ったのですが、お行儀ポリスの戦略に見事にハマった私は「日本では、そう呼ばなくちゃいけないんだよ」と主張して、姉を「お姉ちゃん」と呼ぶことにしました。“普通”にならなくてはいけないと思ったから。こうしてあの意地悪な姉妹は、ニッポンムラの小さな憲兵として、危険分子を改心させることに見事成功しました。年功序列のタテ社会の掟を無視する不届き者を成敗したのです。
この時から、私と姉の関係は対等ではなくなりました。相手を名前ではなく続柄で呼ぶことによって、はっきりとした上下関係ができてしまったのです。もしも子ども憲兵の恫喝(どうかつ)に屈せずに名前で呼び続けていたら、姉との関係は今とは違ったものになっていたかもしれません。
70年代、多摩丘陵を切り開いた新興住宅地では、人口が急増していました。私たちは丘を一つ越えた遥か遠くの小学校まで、集団で通学しなくてはなりませんでした。私は相変わらず周囲から浮いた存在で、友達との登校はチクチクとした時間でした。下校の時には友達と別れ、一人で住宅地を歩き回りました。よそのうちを眺めて、もしもこのうちの子だったら、と空想するのが大好きだったのです。これは今でも変わりません。違う人生があったかもしれないと想像するのは、楽しいものです。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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