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連載

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#45 「見た目問題」どう向き合う?

「障がい」表記で差別はなくなりますか?アルビノ当事者が語る現実

本当に必要な「配慮」って何だろう?

「障害」は「障がい」と書いた方がいいのではないか――。賛否が分かれてきた、この疑問について、アルビノの雁屋優さんが切り込みます(画像はイメージ)
「障害」は「障がい」と書いた方がいいのではないか――。賛否が分かれてきた、この疑問について、アルビノの雁屋優さんが切り込みます(画像はイメージ) 出典: PIXTA

目次

生まれつき肌や髪の色が薄い、遺伝子疾患・アルビノの雁屋優さん(25)には、長年抱いてきた疑問があります。「障害」を「障がい」と書き換える風潮に対するものです。単語自体が持つ、ネガティブな響きを消し去りたい。そんな意図に理解を示しつつも、「当事者が直面する現実を覆い隠してしまうのではないか」という違和感が根強いといいます。自らも「ふつう」とは異なる外見や、症状の一つ・弱視によって苦労してきた立場から、こうした「配慮」についての思いをつづってもらいました。

他人と共有できなかった日常生活の不便さ

私が「障がい」表記に気づいたのは、中学生か高校生の頃だった気がする。自治体の広報誌やTVに登場していた。初めてそれを見たとき「不自然だ」と思った。

私はアルビノなので肌や髪の色素が薄く、弱視もある。移動中、目当ての建物を見つけるのに人より時間がかかった上、道に迷ってしまうこともあった。そのようにして、日常生活に不便さを覚えることはたびたびだった。

しかし、その頃は、現在持っている障害者手帳を申請していなかった。そのため厳密には障害者ではなかったのだが、「障害者と健常者のはざま」にいる自覚はあった。身体的なハンディキャップにより、暮らしの様々な場面で困難を感じがちで、どちらかというと障害者の側に立って物事を考えようとすることが多かった。

一方で、私が経験する苦労を、大多数の人々は背負う必要がない。だから、悩みや苦しみを訴えても共有してもらいにくい。その結果、孤立したり、差別の対象になってしまう場合もある。私はずっと「障害がある」と認めることを恐れてもいた。

雁屋さんは弱視のため、移動中に目的地の建物がなかなか見つけられず、苦労したことがある(画像はイメージ)
雁屋さんは弱視のため、移動中に目的地の建物がなかなか見つけられず、苦労したことがある(画像はイメージ) 出典: PIXTA

問題文の「障がい」を、「障害」と書き換え回答

そんな私だが、「障がい」という表記を目にするたびに、複雑な感情を抱いたのも事実だ。「漢字一ついじっても、私の視力は上がらない」と反発を覚えた。

視力に合った眼鏡を買おうとすると、どうしても高価になる。肌が紫外線に弱いことから、それなりに値が張る、UVカットの上着やアームカバーも手放せない。「『障害』の表記を気にするより、金銭的な生活支援を充実させてほしい」と思ったものだ。

「『害』という字には良くないイメージが付きまとう。だから『障害』ではなく、『障がい』と書こう」。そんな話を聞いたことがある。言葉は概念を形成し、実際に人々の行動を左右する。だからこそ、障がいという表記が生まれたのだろう。

この判断が「障害という言葉が持つ、ネガティブな響きを取り払いたい」という、ある種の気遣いに基づいているのは理解できる。ただ、こうも思う。そのことによって、覆い隠されてしまうものはないのだろうか、と。

私が弱視であることは既に述べたけれど、「ふつう」とは異なる外見のため、不利益を被る機会も少なくなかった。アルバイトの面接で、色素が薄い肌や髪を理由に落とされたこともある。

こうした現実は、言葉遣いを改めたところで、どうにかなるものではない。だから障害を障がいと表す風潮に違和感を抱いたし、その流れに加わりたくなかった。学生時代、試験の小論文の問いに「障がい」とあっても、本文では「障害」と書くなど小さな抵抗を続けていた。

小論文の問題文に「障がい」とあっても、解答するときは「障害」と書いていた(画像はイメージ)
小論文の問題文に「障がい」とあっても、解答するときは「障害」と書いていた(画像はイメージ) 出典: PIXTA

「車を運転できないと苦労する社会」への疑問

そもそも、障害はどこから生じているのだろう。学生時代は「目が見えづらいから苦労しているんだ」などと思ってきた。しかし『私がアルビノについて調べ考えて書いた本』(生活書院)という書籍を読み、新しい視点を得た。

障害は個人の側にあるのではなく、その状態であれば生きていくのが不利になるように社会がつくられていることに問題がある――。自身もアルビノで、社会学者である著者・矢吹康夫さんは、他のアルビノ当事者へのインタビュー調査結果を踏まえ、そんなメッセージを提示する。

この主張に触れ、考えた。

例えば、眼鏡などで矯正しても、視力が極端に低ければ運転免許は取れない。これは、私も実際に経験したことだ。

完全な自動運転技術などが実現すれば、事情は変わるかもしれない。ただ現状では、運転手の身体的能力が基準を満たしていて、十分な安全が確保できない限り、こうした状況が生まれてしまうのは仕方がないと言える。

でも、運転ができない人が生活に苦労するのは、車がないと困るように社会がつくられているからだ。交通機関が発達していない地域では、特に顕著だろう。地方都市で生活していた頃、食料品を買いにスーパーに行くのにも車が必要で、運転できる同居人に頼ることしかできない自分を情けなく感じた。

こうした事情を踏まえると、障害者の生活が不便であることの責任を、一方的に当事者自身に求めるのは論理的ではない。むしろ、個人を取り巻く環境にこそ、メスを入れるべきではないのだろうか。

それが進まないまま言葉遣いを改めても、本質的な「配慮」にはつながらないのではないか、と思う。

車がないと移動すら困難になる。そんな社会のあり方に、雁屋さんは疑問を持っているという(画像はイメージ)
車がないと移動すら困難になる。そんな社会のあり方に、雁屋さんは疑問を持っているという(画像はイメージ) 出典: PIXTA

「障害」のネガティブさを取り払う努力こそ必要

最近は行政などによる障害者支援も広がっているが、現場の人手不足もあり、必要な人全員に十分行き渡っているとは言えないだろう。私が「障がい」という表現に抵抗感を覚えるのは、実際に生活の不便さを感じさせる「害」が、存在し続けているからなのかもしれない。

障害があっても、障害のない人とさほど変わらない頻度で、出かけたいときに出かけられるよう移動支援を充実させる。そういった効力の高い対策を打ち出し、社会全体で実践するなど、本当の意味で「障害」をネガティブな言葉でなくすための努力が大切なのだと感じる。

いつか社会が、障害があっても苦労しないと言えるような状態になったら、私も「障害」と表記することをやめるかもしれない。忘れてほしくないのは、年を重ねれば誰でも障害を負い得るという事実だ。不慮の事故などで、明日、突然障害者になる可能性だってある。

だからこそ今、障害者に必ずしも優しくない環境の改善が必要であり、そのために立場を超えて手を携えていくことが不可欠なのではないだろうか。有効な方法を、この記事を読んでくれている皆さんと一緒に考えていきたい。

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