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「女の子になりたい」サンタさんに宛てた手紙 性と向き合った31年

「私には無理」という諦めを壊したもの

男性に生まれたことに疑問を持ち続けてきた、水谷ゆうこさん。幼い頃、クリスマスプレゼントとして女性になることを望み、手紙に思いをつづったそうです。自らの本心と向き合う日々について聞きました(画像はイメージ)
男性に生まれたことに疑問を持ち続けてきた、水谷ゆうこさん。幼い頃、クリスマスプレゼントとして女性になることを望み、手紙に思いをつづったそうです。自らの本心と向き合う日々について聞きました(画像はイメージ) 出典: PIXTA

目次

生まれながらの性別と、望む性別とが一致しない人々がいます。水谷ゆうこさん(31)も、その一人です。「普通の男の子」として成長する中で、自らの体に違和感を覚えてきました。声変わりや、男性特有の体臭に悩んだ思春期。結婚生活を経て、「女性になりたい」との本心と向き合えた日々。やがて性別適合手術を受けることを決意したという水谷さんに、自分らしい人生へと踏み出す勇気が持てるまでの歩みについて語ってもらいました。(聞き手=withnews編集部・神戸郁人)

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男女の水着、形の違いに抱いた違和感

私が初めて、自分の体に違和感を覚えたのは幼稚園生の時でした。3歳年上の兄の影響で水泳を始めたんですが、男の子だから、水着を履いても下腹部までしか隠れない。でも、女の子は胸までカバーされている。「何で形が違うんだろう」と疑問に思ったんです。

幼少期って、男女一緒に着替える機会がありますよね。その時に「自分とは違う生き物がいる」「私は女の子じゃないんだ」と思うこともしばしばでした。とりわけ、男性器がついていることに、嫌悪感をもよおしていました。

とはいえ体を動かすのは大好きで、友達とサッカーや鬼ごっこを楽しむ子どもでした。服装もズボンやトレーナー姿で、特段スカートに憧れた記憶はない。一方で引っ込み事案なところもあり、自分の存在のあり方に対する疑念を、漠然と抱き続けている状況でした。

そして5、6歳の頃でしょうか。クリスマスのプレゼントについて伝えるため、親に「女の子になりたい」と書いた手紙を渡したんです。「サンタさんは何でもしてくれる」という気持ちが強かったので。ところが完全にスルーされてしまい、幼心に大ショックでした。

この経験から「かなわない夢なんだ」と悟ってしまったところはあります。性的違和がありつつ、自分らしく生きているような、ロールモデル的存在が少ない時代でしたし。周囲からは「ちょっとなよなよしているけれど、普通の男の子」と思われながら育ちました。

インタビューに応じる水谷ゆうこさん。
インタビューに応じる水谷ゆうこさん。 出典: 山本哲也・戸塚光太郎撮影

声変わりに苦しみ、ひげを抜いた思春期

小学校に入ると事態は悪化していきます。特に第二次性徴が来て、声変わりが始まったことはつらかった。元々、口調や声質が特徴的で、周囲にしゃべり方をまねされるといった「いじり」を受けていたので、ガラガラにかすれていく声が嫌いで仕方なかったです。

体育の授業で、男女の着替え場所が完全に分けられたことによって、「自分は間違いなく男性である」と思い知らされる経験もしました。更に中学生以降は、ひげをピンセットで抜いたり、カミソリで体毛を剃(そ)ったりするようになりました。

制汗シートで、頻繁に体を拭いていた記憶もあります。自分の体から男性的な臭いがしてくるので、嫌だったんです。一方、体を動かすことは好きだったので、部活はバスケットボール部に入りました。運動すると、日常的なストレスも、少し忘れられましたから。

この頃から、自分よりも他人の生き方を優先するようになった気がします。部活の試合でも、果敢にシュートを打っていくタイプではなく、良いパスができれば満足できた。目立たず、当たり障りなく過ごしたい。相手が喜んでくれたら、それで十分だと思っていました。

必然的に、人と深く付き合うことも苦手になっていきます。異性から告白される場面もあったのですが、恋愛関係に発展することはなかったです。好きという感情がわからず、好意を伝えられても「うそなんじゃないか」と感じていました。

こうした経緯から、高校は男子校に進学しました。女性がいなくなると「もう男として生きていくしかない」と諦めるというか。強くなろうと柔道部に入り、一人称も「僕」から「俺」に改めます。それでも違和感は消えず、周囲に相談できないまま時間が過ぎていきました。

水谷さんは、大人になってから料理の道へと進み、飲食店のキッチンに立ってきた。
水谷さんは、大人になってから料理の道へと進み、飲食店のキッチンに立ってきた。 出典: 山本哲也・戸塚光太郎撮影

「女性になりたい」本心と向き合ったカウンセリング

転機が訪れたのは、大学に入った後のこと。1年生の夏、友人のお父さんが経営する居酒屋でアルバイトをしたんです。ホール勤務だったんですが、まかないご飯を作ってくれるキッチンの人たちが優しくて。食べることが好きだったので料理の道に興味を持ちました。

約半年後、未経験者も厨房(ちゅうぼう)に立たせてくれる、新宿のシーフードレストランに移ります。パスタやグリルを作ってみると、すごく楽しかった。約2年働いた頃、調理師の資格が取れる専門学校にも通い始め、学業と並行して熱を入れました。

大学と専門学校を卒業後、いくつか店を転々として、神楽坂のイタリアンレストランで本格的にキャリアを積みました。朝に家を出て、日付が変わった頃に帰る。そんな生活を5年近く送ります。ハードだけれど、料理している時だけは自分の境遇を忘れられました。

その後、結婚生活も経験しました。しかし、妻と徐々に価値観が合わなくなり、ストレスから心を病んでしまったんです。心理カウンセラーの方に話を聞いてもらうようになりました。

その過程で何度も問われたのが「『相手に喜んでほしい』と繰り返しているけれど、あなたはどんな人生を送りたいんですか」。自分の感情を表しても良いんだと、初めて思えた経験です。1年近くやり取りした結果、「女性として生きたい」と明確に思い至りました。

性別適合手術については、ネット上で関連情報を検索するなどして、既に知っていました。でも何となく、「私には無理だろう」と諦めていた。自分の気持ちに素直になりたくて、離婚が成立してから、手術に向けた準備に取り組みます。

水谷さんが手がけたメニュー。創作料理を含め、そのレパートリーは多岐に渡る。
水谷さんが手がけたメニュー。創作料理を含め、そのレパートリーは多岐に渡る。 出典: 山本哲也・戸塚光太郎撮影

「男っぽくあらなきゃ」という思いが小さくなった

ほどなくして、注射で女性ホルモンを投与する治療を始めました。髪を少しずつ伸ばして、肌質も徐々に変わっていって。すると、周囲に事情を隠すことが嫌になってきたんです。イタリアンレストランを辞め、コールセンターや弁当店でアルバイトをしました。

女性らしさを身につけるため、メイクや発声法を教える「乙女塾」という団体の門もたたきました。自作のお菓子を片手に通ううち、スタッフさんから「料理を作ってくれないか」と言ってもらえたんです。交流会用のメニュー作りや、料理教室などを担当しました。

乙女塾の生徒やスタッフの中には、私同様、性別に悩みながら生きてきた人たちが少なくありません。だから自分を偽る必要がなく、すごく居心地が良かった。「男っぽくあらなきゃいけない」と、「見えない誰か」を気にすることが減りました。

そうした中で、「性別を移行したい」という気持ちは、ますます強まりました。昔からの幼なじみにも相談に乗ってもらうようになったんですが、反応は「良いんじゃない」「頑張って」とあっさりしたもの(笑)。特別扱いされないことが、逆にうれしかったです。

両親にも思いを伝えました。最初に打ち明けたのは母だったんですが、本心からの願いだと、なかなか信じてもらえなかった。それでも根気強くコミュニケーションを取り続けると、「あなたが生きやすいように生きたら」と言ってくれました。

一方、父に話したのは、ここ最近のことです。昔から、進路について言い合いになるなど、そりが合わないところがあって心配でした。しかし母から事情を聞いていたからか、「お前が幸せなら良い」と認めてくれて。長年抱えてきた、モヤモヤした気持ちが晴れました。

現在は思いを共有してくれる人々に囲まれ、自分を大切にできるようになったと語る水谷さん。
現在は思いを共有してくれる人々に囲まれ、自分を大切にできるようになったと語る水谷さん。 出典: 山本哲也・戸塚光太郎撮影

「これからの人生が楽しみ」

手術を受ける病院は、技術力などを踏まえて、タイの施設を選択。新たに膣(ちつ)を作るので、術後は棒状の器具を一日2回差し込み、一定時間固定する「ダイレーション」という作業を、3カ月ほど続けなければなりません。その間、痛みや出血により仕事ができなくなるため、生活費を含め200万円ほどの資金を準備しました。

今年4月に渡航できる予定だったのですが、新型コロナウイルスの影響で延期になってしまったんです。それでも夢を諦めたくなくて、準備を続け、9月中に改めて手術を受けられることになりました。

ただ予想より出費がかさんでしまい、将来自分の店を持つため、手術関連費とは別に開業資金として貯(た)めていた、約100万円も取り崩す予定です。そもそも、ウイルスの威力が収まる気配はなく、今後レストランなどを経営していくのは厳しいかもしれません。

そこで新しい未来を描きました。簿記の勉強を始めたんです。手術後は激務である料理人を続けられないかもしれない。そんな思いから、経理など事務職に就くための地ならしを進めています。取り組んでみると、案外面白くて。帰国早々、試験を受ける予定です。

自分の生きる道を広げてみたい。こうした視点は、ウイルスの流行で、色々なことを自粛したからこそ得られました。タイにも参考書を持って行くつもりです。これから先、どう生きられるか楽しみですね。

これまで、私自身が嫌いだから、人のために尽くすというところがありました。でも今は、素直に「誰かの笑顔が見たい」と思えるし、そのことが最終的には自分の力にもなると考えられています。

手術が終わったら、人生はより良くなると、もっと強く確信できる。そう願っています。

※記事の内容は、今年9月中旬時点の取材結果に基づいています

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