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ビートたけしが語った志村けんの光と影、ライバルに託した笑いの牙城

「関東風のちゃんとしたコントをドリフターズが中心にやって関東の牙城を守ったんだよね」

「土8戦争」とも称され視聴率競争を繰り広げた志村けんさんについて語るビートたけしさん=栃久保誠撮影
「土8戦争」とも称され視聴率競争を繰り広げた志村けんさんについて語るビートたけしさん=栃久保誠撮影

目次

志村けんさんが急逝して約半年が経った。同時代を生きたライバルであり、戦友でもあったのがビートたけしさん(73)だ。かつて二人は、『8時だョ!全員集合』(TBS系)と『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の主力メンバーとして活躍し、人気を二分。その戦いは「土8戦争」とも称され、壮絶な視聴率競争を繰り広げた。そんな二人だが、1998年からバラエティーでの共演が増えていく――。下積み時代からくる「複雑な内面」、様々な番組に顔を見せるようになった経緯、ザ・ドリフターズとひょうきん族の違いなど、たけしさんが知る志村さんについて聞いた。(ライター・鈴木旭)

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ビートたけし
1947年1月18日生まれ。東京都出身。1973年に浅草フランス座で芸人修業中に知り合ったビートきよしと漫才コンビ「ツービート」を結成。1980年代の漫才ブームで一躍人気者になる。その後、個人でバラエティーやドラマ、映画、出版の世界で活躍。映画監督・北野武としては、1997年にベネチア国際映画祭グランプリを受賞。その他の作品でも国内外で数々の賞を受賞し、世界的な名声を博す。2016年にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ(フランス)、2018年に旭日小綬章を受章。近年は精力的に小説を執筆しており、ビートたけし名義では『アナログ』(新潮社)、『キャバレー』(文藝春秋)、北野武名義では『大親分! アウトレイジな懲りない面々』 (河出新書) などがある。
 

最初に会ったのはマックボンボン時代

――最初に志村さんとお会いになったのはいつ頃ですか?

けんちゃん(=志村けんさん)とは、マックボンボンってコンビでコントやってた頃かな。ちょっと顔合わせた頃にドリフのボーヤになっちゃったんだよ。ただ、そこでは本当に挨拶程度で、浅草で会っても別に話はしなかったね。番組で言うと、フジテレビの『新春かくし芸大会』で会ってるとは思うんだけど、オレが出た頃はツービートというよりも、ほとんど一人でやっていた頃じゃないかな。


――そんなに早い段階でお会いしていたんですか! 志村さんの著書『変なおじさん』(日経BP社)の中に「(たけし)軍団の人がまだ5人くらいのころに2年続けて正月に一緒にゴルフに行ったりした」と書かれています。プライベートでも交流があったようですね。

ゴルフは何回か行ったね。軍団のメンバーがゴルフブームになっちゃって。けんちゃんっていうのは、いかりや(長介)さんがいて、ドリフターズがあって、そこのボーヤで。ちょっと芸能の世界では、メンバーの人たちからみても下なんだよね。

いかりやさんって昔風の人だったから、けんちゃんは厳しい修業時代を積んでメンバーになってるんだよ。

ただ、東京人というか、関東のミュージシャンらしいコンビネーションを図って笑わせる世界にいた人だから、認められたのは早いよね。ポンポンッと上がっていって、いつの間にかドリフの主力になっちゃった。加藤茶さんとけんちゃんがいて、いかりやさんがいる座長芝居みたいなのはすごく得意だったね。

テレビ番組の録画撮りのためのスタジオで、スタッフを呼び、進行上の注意を伝える志村けん=1988年5月
テレビ番組の録画撮りのためのスタジオで、スタッフを呼び、進行上の注意を伝える志村けん=1988年5月 出典: 朝日新聞

「東スポ大賞」特別賞に志村けんを選んだ理由

――1997年、志村さんは「第6回 東京スポーツ映画大賞」の特別賞を受賞しています。同賞の審査委員長であるたけしさんが、このタイミングで志村さんに賞を贈られたのは、なにか理由があったのでしょうか?

その頃はもう、漫才とか吉本新喜劇とかっていう関西のお笑いがテレビに溢れちゃって。いまだにそうだけど、関西弁が東京を席巻してるっていうかね。標準語は関東弁ではないんだけど、完全に標準語が関西弁に根付かせられてしまったようなところがあった。「めっちゃ」とか大阪の言葉なのに、いつの間にか全国的になっちゃったしね。

だからある時期まで、吉本新喜劇とか藤山寛美さんの松竹新喜劇とは別に、関東風のちゃんとしたコントをドリフターズが中心にやって関東の牙城を守ったんだよね。その少し前に、コント55号の萩本(欽一)さんとかもいるけど。

オイラの若い頃は、漫才なんて完全に関西のもので。ツービート以外はみんな関西勢だったからね。テンポは関西だし、ツッコミの言葉も「アホ」っていうような言葉遣いだし。そういう部分で、けんちゃんに託したところがあったよね。


――志村さんは、ちょうどこの頃から自分の番組以外のバラエティーに顔を見せるようになりました。この心境の変化について、なにかご存知でしたら伺えますか?

けんちゃんの不得意なところは、アドリブがきかないってところで。仮台本みたいなものがあって、それに沿いながらアドリブを入れるのはうまいんだけどね。関西の、とくに、さんまとかオレがやっていたような“台本がない”っていうようなものには、ちょっと相当参ったんじゃないかな。

しかも世の中がそっちに流れて、オレとかがやってる番組みたいな「雑談が中心のお笑い」っていうものがメインになっていったのもあるし。そういうのを見て、本人もいろんな番組に出て挑戦したんじゃないかと思うけどね。

「関東風のちゃんとしたコントをドリフターズが中心にやって関東の牙城を守ったんだよね」=栃久保誠撮影
「関東風のちゃんとしたコントをドリフターズが中心にやって関東の牙城を守ったんだよね」=栃久保誠撮影

「ひょうきん族vsドリフターズ」の時代が確実にあった

――たけしさんがなにかアドバイスをしたわけではなく、志村さん自身が時代の潮流を感じたんじゃないかと。

ドリフターズって孤立してるというか、お笑い界の中で片っぽの頂点としていたからね。もう一方に、オイラみたいな雑魚がいてさ(笑)。お互いに見てたよね、山の上から。こっちはそんなに気にしてないんだけど、向こうはかなり意識してたんじゃないかな。

世の中の一般的なお笑いの情勢が関西風になびいていることに、すごくイラついてたんだと思う。テレビ的には「ひょうきん族vsドリフターズ」の時代が確実にあったわけだから。


――たしかに『ひょうきん族』から“総合バラエティー”という枠が生まれて、トークや企画性を重視した番組が増えていったところがありますよね。

ドリフはカッチリしたネタを生中継でやって、なるたけアドリブをやらずに、いかりやさんの指示した通りに動いて、なおかつ笑いをとるみたいなね。アドリブみたいなものもあるけど、1時間の舞台をうまく使うためにハナから仕組んであるものなんだ。

一方で、我々の『ひょうきん族』はビデオ(収録)で、1時間番組なのに4時間も撮って全部使えないみたいなね(笑)。テレビ創成期のすごくいい形で残ったドリフのカッチリしたコントに、“ファジー(「あいまいな」「ぼやけた」などの意味)”って言葉が流行した時代だからか、非常にダラけたその場の雰囲気だけで番組をやってるひょうきん族が対抗したわけ。前提として、オレもわかってやってたしね。

それで結果的には、どっちが「勝った」「負けた」じゃなくて、両方とも終わってしまったっていう。ただ、後になって気が付くのは、『ドリフ大爆笑』とか『加トちゃんケンちゃん(ごきげんテレビ)』とかって、ドリフはしっかり流れが続いてるんだよね。その時々のコントをちゃんとやってる。

だけど我々は、陽炎(かげろう)のようにポンッと出て二度とやらない。そう考えると、けんちゃんのほうがちゃんとしたことをやってたなって思うよ。

「後になって気が付くのは、『ドリフ大爆笑』とか『加トちゃんケンちゃん』とかって、ドリフはしっかり流れが続いてるんだよね」=栃久保誠撮影
「後になって気が付くのは、『ドリフ大爆笑』とか『加トちゃんケンちゃん』とかって、ドリフはしっかり流れが続いてるんだよね」=栃久保誠撮影

なかなか天下取るまで大変だったんだろうね

――1998年にたけしさんは『志村けんのバカ殿様』に出演されていますが、きっかけはなんだったのでしょうか?

その番組に出る前だったと思うんだけど、当時よく二人で飲みに行ってたんだよね。西麻布が多かったけど、シガーバーみたいなトコで葉巻を二人で吸ったりして。そこで、オレが「『バカ殿』はダチョウ(倶楽部)使ったりして面白いね」なんて言ったら、「出る?」「いいの?」って軽い感じで出ることになったんだよ。

ただ、出たはいいけど、やっぱり難しかったね。こっちはアドリブばっかりやりたくなっちゃうし(笑)。けんちゃんが「ここにきた時に、カメラはここに入って」とかってカメラマンに撮り方を全部指示するんだけど、それ見ちゃうとアドリブも入れようがないっていうか。「うわぁしっかりしたコントやってるんだ」と思ったね。


――とはいえ、以降は『加ト・けん・たけしの世紀末スペシャル!!』や『神出鬼没!タケシムケン』など共演が増えています。お会いする機会も多かった時期だと思いますが、志村さんと接していて感じたところがあれば伺えますか?

やっぱり弟子時代の厳しさを抱え続けていた感じがあったかな。「あぁボーヤの時に苦労したのかな」って感じる瞬間はあった。

いざメンバーになっても、なかなか天下取るまで大変だったんだろうね。だから、酒飲むしかないのかなっていうか。やっぱ精神的にだいぶキツかった時代が長かったんだろうなっていう感じがあった。


――よくも悪くも、いかりやさんの影響を受けていたと……。いろんな内面をお持ちだったんですね。

基本的には、すごく気を遣う人だしマジメなんだよね。だから、コントに対してもマジメっていうか。バカバカしいことをただやるっていうんじゃなくて、“つくり上げたバカバカしいこと”が面白いっていう。

我々が「バカバカしいことが偶然出てくるのを狙ってエサを撒く」って笑いなのに対して、けんちゃんは「バカバカしいことをちゃんと狙って、頭の中に描いてからこなす」っていうやり方。計算されたっていうよりも、計算に沿った笑いだよね。我々は計算間違いしたら、間違ったままで元に戻そうとしなかった。そのままのほうが面白いと思ってたの。

今考えてみると、『ひょうきん族』なんか再放送にたえられないよ(笑)。「なにやってんだ、コイツら」って。そこをいくと、ドリフのコントは今でも見られるし、よくできてるなって思うね。

「けんちゃんはバカバカしいことをちゃんと狙って、頭の中に描いてからこなすっていうやり方。計算されたっていうよりも、計算に沿った笑いだよね」=栃久保誠撮影
「けんちゃんはバカバカしいことをちゃんと狙って、頭の中に描いてからこなすっていうやり方。計算されたっていうよりも、計算に沿った笑いだよね」=栃久保誠撮影

けんちゃんはやっぱり枝雀さんなんだよね

――志村さんは2006年から舞台『志村魂』をスタートさせています。たけしさんもある時期から若手芸人のライブに突然出たり、芸能事務所「タイタン」主催のライブで落語を披露したりもしていますが、「もう一度舞台に立ちたい」という思いは原点回帰からくるものなのでしょうか?

オレの場合はテレビが長すぎて、演芸場とかライブで客前に立つって機会がなくなったんだよ。テレビでも客前はあるんだけど、笑わすためじゃなくて番組としてあるんであってね。自分一人で笑わせるような客前に出てないと、緊張感とか雰囲気、間がわからなくなるから。それで、なるべくやるようにしたの。

けんちゃんもドリフやってたし、テレビの収録が多くなってから生の緊張感が欲しくなったんじゃないかな。それで一座を持ったんだと思う。お笑いの人はとくにそういうところがあるよね。芸能っていうのは人に見せるためにやるものだけど、「テレビの向こう側の人にやる」っていうのは反応がわからないし。そこをいくと、一番ダイレクトに笑いがくるのはライブだからね。


――やはり、芸事は「生の舞台」が一番なんですね。志村さんは落語家の2代目・桂枝雀さんのファンだったことでも知られています。たけしさんから見て、志村さんのコントに枝雀さんの要素を感じるところはありますか?

お笑いに対するスタイルで言うと、けんちゃんはやっぱり枝雀さんなんだよね。オレは枝雀さん苦手なんだ。関西の落語自体好きじゃないからね。表現の仕方が大げさだし、「ここが笑いどころだよ」って押しつけがましいところがあるような気がしちゃって。

オレ、(5代目・古今亭)志ん生さんが大好きだから。そこはだいぶ違うね。志ん生さんの落語っていうのは、何気なく言って笑わせてるんだけど、その後にかぶせてくるから。“江戸前”とか“粋”とかってなると、志ん生さんになっちゃうよね。

あと志ん生さんはカミさんやらせると、やたらうまいんだ。オレは、子どもの頃に母ちゃんの腰巻きのあたりに抱きついた匂いがするって意味で「腰巻きくさい」って言ってるんだけど。枝雀さんは、やっぱり関西の漫才の女になっちゃうんだよ。あの人は落語やお笑いに真剣すぎて、「どうでもいいじゃないか」っていうおおらかさや余裕がないんだよね。志ん生さんは、ものすごい稽古するんだけど、表面上はどうでもいいっていう見せ方なの。

もちろん二人とも、ものすごく真剣に取り組んでると思うよ。ただ、志ん生さんは客前でそれがわかったら恥ずかしい。枝雀さんは一生懸命やんなきゃって感じがあって、その差じゃないかな。けんちゃんが枝雀さんを好きなのは、意外に貪欲でマジメだったからかもしれないね。

落語家・桂枝雀
落語家・桂枝雀 出典: 朝日新聞

実力があったってことだよ。すごいなって思う

――最後に志村さんとお会いになったのはいつごろになりますか?

『天才!志村どうぶつ園』(2019年4月13日の放送回)だね。けんちゃんが小っちゃな柴犬(殿くん)を連れてきて、オレも犬(権蔵くん)飼ってるから一緒に出たんだ。そしたら、なんかお互い照れちゃって、まぁ話になんねぇこと(苦笑)。笑い話一つしないで普通に撮っちゃったから、スタッフはガッカリしただろうなと思う。もうちょっと盛り上がると期待したんだろうけどね。

番組でお互いにののしり合うなんてことまではならなかったっていうか……。「なんだ、お前。酒ばっかり飲んでやがって」なんてことは言えなかったからね。だから、もうちょっと深く付き合って、なんでも言えるようになったら面白かったと思うけど。コントやっても絶対面白くなったと思うよ。


――一視聴者としても、そんなお二人を見たかったです。残念ながら亡くなってしまった志村さんに、届くなら言ってあげたいこと、思いなどあれば伺えますか?

まぁ「お疲れさん」だろうな。あんまり突然だったから、なにか言えるような別れもできなかったし。

何人もいた弟子志願者の中で荒井注さんの代わりに入ったのは、すごく幸運なことであると同時に実力があったってことだよ。すごいなって思う。『8時だョ!全員集合』が終わってからも自分の番組を持って、最近まで現役でやっていたっていうのは、芸能界にいても滅多にできることじゃないし。だから、そこは「よく頑張ったね」と言ってあげたいね。

ただ、もうちょっと早くにリタイアしてもよかったって感じるところもあるかな。お笑いの人ってみんなそうだけど、よっぽどのことがない限りリタイアしないんだよね。やっぱり死ぬことよりも芸事のほうが好きだから、ゆっくりとした老後を選ばないんだと思う。

そういう意味では、「現役で売れてる間に天国に行けてよかったじゃん」って気がしないでもないけどね。

「お笑いの人ってみんなそうだけど、よっぽどのことがない限りリタイアしないんだよね。やっぱり死ぬことよりも芸事のほうが好きだから、ゆっくりとした老後を選ばないんだと思う」=栃久保誠撮影
「お笑いの人ってみんなそうだけど、よっぽどのことがない限りリタイアしないんだよね。やっぱり死ぬことよりも芸事のほうが好きだから、ゆっくりとした老後を選ばないんだと思う」=栃久保誠撮影

取材を終えて

今回の取材で、志村さんとたけしさん、二人の相違点がはっきりと見えた気がする。たけしさんは、漫才ブーム、『ひょうきん族』という関西色の強い潮流の中で、ほとんど一人で東京の笑いを背負っていた。一方で志村さんは、いかりやさんがネタのヒントにしていた関西の演芸文化を吸収しつつ、関東を代表するドリフターズの笑いを継承していたのだ。

二人を引き合わせたのは、この“東京、もしくは関東の笑い”という接点だった。1990年代は、ダウンタウンをはじめとする関西の若手芸人たちが、東京を拠点に活動し始めた頃だ。たけしさんは、この流れに危機感を抱いた。一方の志村さんも、アドリブの多い関西風のトークバラエティーに頭を悩ませていたのだろう。

そんな背景を知るはずもない当時の私は、テレビの前で『バカ殿様』で共演している二人を見てドキドキしていた。今まで相容れない芸風だと思っていた二人が同じ画面にいるのだから当然だ。実際に出演者のたけしさんもやり方の違いを感じたようだが、その後もコントやバラエティー番組での共演は続いた。

たけしさんは好奇心旺盛で、実は優しい人だと感じる。たとえ自分と考え方や方法論が違っていても、興味があれば自分のほうから出向いてコンタクトをとる印象が強い。志村さんに対しても、タイプの違う芸風だからこそ、なにかしら化学反応が起きると期待していたのだと思う。それだけに、もう少し二人の距離が近づいていたら……。いや、二人の共演をリアルタイムで見られた私たちは、本当にラッキーだったと受け止めるべきだろう。

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