連載
#3 帰れない村
原発事故、避難させた先は…「『殺人罪』ではないか」亡き町長の怒り
「原発が危険な状況に陥っているなんて、夢にも思いませんでした」
2018年4月、福島県浪江町の馬場有町長(当時69)は、私の取材にせき込みながら答えた。胃がんで他界する、約2カ月半前のことだった。
東日本大震災が発生した2011年3月11日、浪江町沿岸部には大津波が押し寄せた。町役場はその夜、津波や地震の被害への対応に追われた。
町役場は原発から北に約8キロ。停電が続き、携帯電話もつながらない。国や福島県、東京電力からは情報が一切寄せられなかった。
原発が危機的な状況に陥っていると知ったのは、一夜明けた3月12日午前5時44分。椅子で仮眠を取っていた馬場町長が目を覚まし、発電機で視聴可能になったテレビの画面を偶然見たとき、政府が第一原発から半径10キロに避難指示を出したことを知った。
「まさか原発が」。10キロ圏内には町民の約8割、約1万6千人が暮らしている。すぐさま災害対策会議を開き、原発から20キロ以上離れた町西部の旧津島村に避難することを決めた。
午前8時40分、3台のバスによる町民の輸送が始まった。馬場町長が町役場を離れた直後の午後3時36分、南東で原発の1号機が水素爆発する音を聞いた。まるでジェット機が墜落したような音だった。
避難先となった旧津島村には約8千人が身を寄せていた。近隣の住民が総出で炊き出しや避難者の世話に当たっていた。
そこで翌日夕、防護服を着て周辺で放射線量を測定している男たちを目撃する。「町民が怖がるので、やめてもらえませんか」と申し入れても、聞き入れてもらえなかった。
「もしかすると、この地域はすでに放射能で汚染されているのではないか」
予感は半ば的中していた。事故で発生した放射性プルーム(雲)は原発から旧津島村がある北西方向に流れた。馬場町長は結果的に住民を放射線量の高くなる地域へと避難させてしまっていたのだ。
国所管の「SPEEDI」(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)は、放射性物質が北西に飛散することを事前に予測していた。しかし国は結果を浪江町には伝えず、福島県も結果をメールで受け取っていながら、伝えなかった。
馬場町長は5月、福島県の担当者が拡散予測を浪江町に伝えなかった事実を報告しに来たとき、泣きながら謝る担当者にこう詰め寄った。
「放射能の汚染予測がわかっていたら、町民を津島には逃がさなかった。あなた方の行為は『殺人罪』にあたるのではないですか」
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。
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