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コラム

「障がいは個性」にうなづけない 作業所での恋、手話で誘った映画

私は、「彼女の世界」が知りたかった。

退職を機に、20年前の出会いを思い出したという篭田さん=写真はイメージです
退職を機に、20年前の出会いを思い出したという篭田さん=写真はイメージです 出典: pixta

目次

車いすユーザーの篭田雪江さんは20歳の頃、職場で重度の聴覚障がい者の女性と出会いました。先月、約30年勤め上げたその職場を退職した篭田さんは、「彼女の世界」に思いをはせます。「私は一般的な聴覚障がいのことではなく、彼女の『聞こえない』ということこそを知りたかった」という言葉の真意を綴ってもらいました。

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退職…思い出した20年前の出会い

私事になるが、先日職場を退職した。

持病である腎臓不全の症状悪化のため、三か月ほど前から休職していた。体調が好転に至らないため、休職を続けたいと申し出たところ、職場の規則上三か月以上の休職は私自身にも職場にも面倒な問題が生じるらしく、なによりこれ以上復帰を焦るよりはゆっくりからだを休ませた方がいい、まだまだ先の人生は長いのだから、と返事がきた。

復帰を目指してはいたが、もう無理かもしれない、いう思いもあったので、少し考えた末にその提案を受け入れた。体調さえととのえばいつでも復帰を待っているから、との言葉をもらい、その考えも捨てきれないが、今はまだその方向に視線を向けることはできない。

高校卒業後、この職場に入った。以前記事に書いたように、はじめから望んで選んだ場所ではなかった。もっと自分を高められるところへの転職を考えた時期もあった。だがよいこと悪いこと含めて様々な理由が重なった末、最後までこの場所で働き続けた。20数年。

職場では、本当にさまざまなひとたちとの出会い、別れがあった。

記憶をたどるでもなくたどっていると、あるひととの思い出がふわりとよみがえってきた。

「私は、耳が、聞こえません」

彼女が手にしていた、磁石の力で白いボードに文字や絵の書けるおもちゃ「せんせい」には、そんな言葉が記されていた――。

彼女は「「私は、耳が、聞こえません」と書いて伝えてくれた=写真はイメージです
彼女は「「私は、耳が、聞こえません」と書いて伝えてくれた=写真はイメージです 出典:pixta

2歳年上の彼女は、重度の聴覚障がい

私が20歳の時、彼女は職場に実習でやってきた。実習といっても簡単な見学、体験的なもので、既にいくつか会社をまわってきていた。

彼女は幼い頃の高熱が原因で聴覚を失った。聴覚障がいといっても様々だが、彼女の場合、ほぼ音を聞き取ることができない重度の聴覚障がいだった。だから実習ではメモや持参してきた「せんせい」を使った筆談や、唇の動きを読み取ることでやり取りをした。私より2歳年上。ろう学校高等部ではソフトボールをしていたからというわけでもないだろうが、心身の柱がしっかりしている印象を受けた。

【聴覚障がい】
身体障害者福祉法によると、①~③のいずれかにあてはまると聴覚障害に該当する。
①両耳での聴力レベルが70デシベル以上②片耳の聴力レベルが90デシベル以上かつ、もう片耳の聴力レベルが50デシベル以上③両耳による普通の会話の聞こえ方が50%以下。
2016年に厚生労働省が実施した「生活のしづらさなどに関する調査(全国在宅障害児・者等実態調査)」によると、聴覚・言語障害者数は、推計で34万1千人となっている。

実習担当は、年齢の近い女性同僚と私が交代で受け持つことになった。

当時全盛をむかえていた印刷編集専門機を私は「せんせい」を使ったり、唇の動きが見やすいように意識して大きく動かし、必死に説明した。彼女も真剣に学んだ。メモはすぐに埋まっていった。彼女はひとつ機能を覚えるたび、感心したようにうなずき、そして笑った。

実習三日目後。私は彼女に好意を持ちはじめた。笑えるくらいにあっさりと。彼女いない歴イコール年齢男だった私など、こんなものである。

仕事帰り、書店で「はじめての手話入門」を買った。夜、部屋でイラストや解説をもとに手や指を動かした。はたから見たらひどいパントマイムだったろう。

そうしながら、私は改めて考えていた。

耳が聞こえないって、どんな世界なんだろう。

少しでも知りたくて、耳に指を強く突っ込み、話してみる。自分の声は頭には反響している。だがそれはどこか別の人間が脳内で話しているみたいで、相手にしっかり伝わっているかわからない。CDを再生してみる。曲がかすかにしか聴こえない。彼女はほとんど聴覚がないから、そのかすかな音もわからないのだろう。そもそも音楽を聴くということが困難だから、好きな曲があるのかもわからない。

彼女のことを、もっと知りたい。

だが実習期間はたったの三週間。あまりに時間がない。だから二週目の金曜、かけらみたいな勇気を振り絞り「せんせい」に書いた。

週末、遊びに行きませんか。

そして握った右手を鼻に持っていって、すっと離した後、頭を下げながら手を開き、軽く下におろした。

よろしくお願いいたします、の手話だ。

突然の手話に驚いた彼女だが、少し考えた後、にっこりとうなずいてくれた。

【手話通訳】
「手話通訳者」や「手話奉仕員」といった都道府県や市町村ごとの民間資格と、厚労省が認める「手話通訳士」資格がある。
朝日新聞デジタル:映らぬ訳者、難しいカタカナ コロナで手話の課題鮮明に

初めてのデートは映画館へ

週末、待ち合わせ場所で彼女を車に乗せた。すでに心臓はばくばくで、ひどく落ち着かなかった。

私たちは映画館に入った。事前に行きたいところはありますか、とたずねたら彼女がそう答えたのだ。作品はおすすめがあったらと言うので調べた末、当時上映していた「ダイ・ハード3」にした。とにかくわかりやすいのがいいかと選んだ。観た方はおわかりだと思うが、なにごとにもついてない刑事と家電屋のおじさんふたりがばたばた町中をもがく作品だ。今になると正しい選択だったとはとても思えず、赤面するばかりだ。でも映像と字幕だけで伝わるのがよかったのか、彼女はおもしろかった、と喜んでくれた。

昼食はよく通っていたラーメン店で食べた。地元では有名だったが、初デートで選ぶところだったかはやはり疑問だ。だがやはり彼女はラーメンを食べ、頬をなでた。おいしい、と言ってくれた。

その後のことはあまり覚えていない。家の用事があって早めに帰らねばならないと最初に言われていたため、食事の後はコーヒーを飲んだくらいでほどなく別れたからだろう。

なにも、話せなかった。なにも、訊けなかった。なにも、伝えられなかった。私は、ため息をつきつつ車を家へ走らせた。

待ち合わせ場所から、車で映画館に向かった=写真はイメージです
待ち合わせ場所から、車で映画館に向かった=写真はイメージです 出典:pixta

知りたいこと残したまま別れの時

実習最終週も慌ただしく過ぎていった。私は焦りを覚えていた。訊きたいこと、知りたいこと、伝えたいことが山ほどあった。だが実習と仕事が忙しく、そんな時間は取れなかった。

なにもできないまま金曜夕方になった。彼女は各部署へ挨拶まわりをはじめた。私たちの部署にもひとりひとりにおじぎをしてまわった。

やがて私のところにきた。彼女はそれまでみたいに「せんせい」は使わなかった。左手の付け根あたりに、伸ばした右手を軽くあてた。

ありがとう。

私たちがわずかな時間で繰り返した手の言葉を、彼女はゆっくりと伝えた。

私もおなじくそう手で伝えた。

それが彼女との、最後の会話だった――。

そもそも「障がい」って、なんだろう

改めて彼女との短い交流を振り返っているうち、ある問いかけが立ち現れてきている。

そもそも「障がい」って、なんだろう。結論を出すには無謀な、そんな問いかけだ。

彼女とのできごとをもう一度思い出してみる。

共に出かけた時、移動は私の車を使った。その際車いすをトランクに積み込んでもらった。普段ひとりで運転する時は自分で助手席後ろに積み込むのだが、それだと助手席を前に出さねばならず、座りにくくなるためだ。目的地に着いた時も、彼女に車いすを降ろしてもらった。トランクへの車いすの積み降ろしは、私ひとりではできないことだ。

【身体障がい者と自動車運転】
1960年に施行された道路交通法によって、身体障害者も運転免許の取得が可能になった。腕や足が動かせなくても、専用の装置のついた車であれば試験を受けた上で運転をすることができる。

映画館の受付やラーメン店での店員とのやり取りは私が行った。それ自体は彼女でもできただろう。観たい映画の表示画面やメニュー表の望む品を指差しするなりすればいい。それでもやり取りは私が行った。声での会話が可能な私がやる方が早いのは確かだし、彼女に気苦労をかけるのも申し訳なかったから(彼女は苦労と感じていなかったと思うが)。

彼女から話はずれるが、職場には以前、視覚にハンディのある女性がいた。だがひとりで出かける姿を見かけたことがある。介助も受けず、白杖も使わず道を歩いていた。階段も壁に手を添えながらひとりで昇っていた。階段昇降もまた、私ひとりでは絶対無理なことだ(全盲の方の事情はまた違うだろうがここでは措く)。

最近、パラアスリートの活躍がよく取り上げられるようになった。片方の腕や脚を失った陸上選手や水泳選手が疾走し、宙を飛び、水を切る。車いすラグビー選手が激突し合いながらボールを奪い合う。そんな躍動ぶりには心底驚かされてしまう。このひとたちを障がい者と言っていいのか、という思いすら浮かんでしまうほどに。

そういった、自分も含めたハンディを抱えたひとたちの「できる」「できない」を見、考えるほど、「障がい」というものが曖昧になり、わからなくなってしまうのだ。

障がい「だけ」に目を向けるのではなく

障がい者と健常者、そんな区切りは必要ない。以前「障がい者という名称を変えたい」という記事を書いた。それを読んでくださった方々の感想にはそういう主旨のものが多かった。記事内でもそれもありだ、と書いたし、彼女を含め今まで出会ってきたひとたち、目にしてきたひとたちを振り返ると、やはりそうかも、とも感じる。

聴覚にハンディのある彼女にも映画は楽しめた。視覚にハンディのある元同僚女性も街を歩き、階段を昇り降りしていた。私も幸い動く両腕があって、車いすで階段や段差などない限り道を進めるのだから。

それを考えるとよく謳われる「障がいは個性だ」、が正しく感じてくる。そう思うのは自由だし理想でもある。だが私自身は最後にはうなずけない。「できる」があるとはいえ、私を含め、はからずもからだの機能の一部を失ってしまった苦しみや悲しみ、葛藤はひとりひとりに必ずあるからだ。自分ではどうしようもできない範囲が厳然とある。それを乗り越えたくてもできないひともおられるだろう。私自身にもそういう部分がある。強いひとたちばかりではない。だから「個性」と前向きにとらえきれない。

だからこそ障がいを含めた「そのひと」を見ることが大切になる。できる、できない。苦しみ、悲しみ。それらを互いに見つめ合う。当然すべては無理だ。明かせない部分だってある。それでもできる限りわかり合い、支え合い、補い合えれば――なにげないことからでいい。彼女が私の車いすを運んでくれ、私が彼女の分まで店員とのやり取りをしたように。

「障がい」とは、ネガもポジも含めた「そのひと」を知ること。決して前向きなだけのことではないし、結論ともとても言い切れない。ただこの基本軸だけは失わずにいたい。20年以上たった今、彼女にそう教えられたような思いがしている。

それでもできる限りわかり合い、支え合い、補い合えれば――=写真はイメージです
それでもできる限りわかり合い、支え合い、補い合えれば――=写真はイメージです 出典:pixta

知りたかったのは「聞こえない世界」じゃない

20歳の頃、音のない世界に生きる彼女と出会った。

彼女があれからどうしているかはわからない。結婚したらしい、という話は何年後かに聞いた。もしかしたらお子さんにも恵まれたかもしれない。幸せでいてくれたらいいとこころから思う。

音のない世界のことは、今もわからない。

知る方法はいくらでもあった。聴覚にハンディのあるひとに実際にたずねればいいし(実際職場にも他に聴覚にハンディのあるひとがいた)、書物で知識として学ぶこともできた。ネットで検索すればいくらでも情報は出てきただろう。でも結局、実際に動いたことはなかった。

私は、「彼女の世界」が知りたかった。

私は、耳が、聞こえません。

はじめて会った時、彼女の手にした「せんせい」に記されていたその言葉。

その言葉の意味は彼女だけのものだった。他の聴覚にハンディのあるひととはきっと違う、彼女だけの「聞こえない」ということ。私はそれが知りたかったのだ。一般的な聴覚障がいのことではなく、彼女の「聞こえない」ということこそを。

あの時買った「はじめての手話入門」は以後の引っ越しのごたごたで失くしてしまったから、近々買い直してみよう。もう一度ぎこちなく手や指を動かそう。最初はパントマイムだろうが、そこからでいい。

そしてもし、彼女にまた出会うことがあったら。その時は左手の付け根あたりに、伸ばした右手を軽くあてて、もう一度しっかり伝えたい。そしてたずねられたらたずねたい。

あの時は、ありがとう。

あなたの世界は、どんな世界ですか、と。

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