連載
#5 Busy Brain
小島慶子さん、大人からの好意に抱いた「性的感情への罪悪感」
大人がかまってくれたことを喜んでいる自分が、罪深い存在に思えました
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
Webでの連載なので、毎回読む人ばかりではないでしょう。またかと思うかもしれませんが、まずは最初に。
この話は「発達障害だからこうなった」でも「ADHDの典型例」でもありません。私の話は、これまでにあなたが出会った、あるいは今後出会う発達障害を持つ人の話とは違うはずです。余計な話もたくさん出てくるので、何の参考にもならないかもしれません。なぜそんな無駄なものを書いているのかというと、眼鏡を外して欲しいからです。連載のタイトルを読んで「ああ、発達障害の話だな」と思ったあなたの目と、この文字との間にある透明なレンズに、気付いて欲しくてこれを書いています。
幼少期に安心して人と関係を結ぶ経験が少なかったせいか、私には強い対人不安がありました。いまも完全になくなったわけではありませんが、経験を積んで次第にうまく対処できるようになりました。意見を言いたいという欲求と、強い人見知りが同居しているので、周囲からは両極端に見えたかもしれません。
テレビに出る仕事をしている人はみんな「目立ちたがり屋」「自分大好き人間」に見えるでしょう。でも、引っ込み思案の芸能人も珍しくありません。私は普段からよく喋るので誰も内気だとは思いませんが、実際はどちらかと言えば内向的というか、自分の縄張りを広げることよりも、巣籠(すご)もりする方を好みます。
新型コロナウイルスの流行に伴って仕事のオンライン化が進み、以前より家にいる時間が長くなっても、さほど苦になりませんでした。もともと、できれば出かけたくないのです。東京では一人暮らし。自分の部屋が好きで、放っておくと何日でも部屋から出ません。メイクもせずお風呂もさぼり気味で、ひたすらパソコンに向かって書いたり読んだりしています。SNSに自撮り写真も滅多に上げません。
そういえば以前、番組でお話を伺った作家の三浦しをんさんが、締め切りが迫ると何日も風呂に入らないこともあるので、友達から急に呼び出されて飲みに行こうなんて言われても絶対に行けないとおっしゃっていました。わかる気がします。
私はもともと飲み会が好きではないので酒の誘いはありませんが、今は自撮りの問題があります。日に何度も自撮り写真をSNSにアップする人は珍しくないですよね。でも自宅にいると、思いついたら自撮り、なんて無理です。顔も洗ってないことがザラですから(今も)。夏の部屋着は2枚のTシャツとヨガパンツをグルグル着回しているし、冬は平気で何日も同じパーカーを着ています。気に入ったらそればかりになるのです。
そもそも、自撮りが好きではありません。好きな人には申し訳ないのですが、自撮りしている姿というのは、かなり間抜けです。撮った写真にもいろんな欲望や自意識がダダ漏れしてしまうので(加工すると余計に)、それを人様に見せるのは非常に恥ずかしい。何よりも、身なりを整えなくてはなりません。服を着替えるとか化粧をするとか髪の毛を整えるとか、そんな手間をかけてもうまい写真の一枚も撮れないのです。こんな苦行があるでしょうか。
しかし仕事柄、全くやらないというわけにもいきません。そこで収録や撮影の仕事の時に、つまりヘアメイクをちゃんとしている時に自撮りストックを作ろうと思うのですが、これを毎度毎度忘れるのです。たまたまうまく思い出して撮っても、今度はSNSへのアップを忘れる。思い出しては何かに気を取られて忘れ、また思い出しては他のことを先にやってしまって忘れ、結局撮影してから投稿までに3ヶ月ぐらいかかることも。
だからすっかり季節が変わっていて、服装が暑苦しかったり寒々しかったりします。家族といる時も自分の写真を撮ることがほとんどないため、取材で「普段の様子のわかる写真を貸してください」と言われるといつも難儀します。
もしかしたら、仕事でプロの方に撮影していただくことが多く、良く撮れた写真がたくさん世に出ているので、わざわざ自撮りで残さなくてもという気持ちがあるのかもしれません。このSNS時代において、映像は記録ではなく実況ですから、毎日こまめに上げ続けるのが正解なのかもしれませんね。
しかし、目は最も強欲で暴力的な器官です。見せることは媚(こび)であり支配であり、見ることは所有であり服従です。私生活までそんな「見る・見せる」という権力闘争の場にしたら、逃げ場がなくなってしまう。同じ視覚のやりとりでも「書く・読む」だったら、こちらの見た目に文句を言われない分、映像よりは暴力的ではないでしょう。しかし文字にはカメラとはまた別の酷薄さがあるので、隠したい部分によって、映像と文字を使い分けるのが良いのかもしれないです。
少なくとも私は、この連載が執筆時の自撮りを条件にしていないおかげで、朝7時にベッドから出たままの格好で16時過ぎまでパソコンの前に座っている今の姿を世に晒(さら)さずに済んでいるというわけです。
3歳までは他の子どもを知らず、幼稚園で初めて集団の子どもの中に身を置くことになった当時の私は、非常に人見知りが強く、祖父母の前でも柱の陰から出てこないような子どもでした。大人がこちらに関心を持ってくれているのはわかるのですが、それにどうやって応えて良いかわかりませんでした。
なぜか大人に好意を向けられると、性的な、いやらしいことをされたような気持ちになるのです。相手が女性でも男性でも、大人がかまってくれたことを喜んでいる自分が、罪深い存在に思えました。だから、相手の期待通りの反応をせず、絶対に笑わないようにしました。すると、膨れっ面で目も合わさない子どもの機嫌を取ろうと、大人はさらに近寄ってくるのです。
大人の猫なで声を聞くと、ビロードを逆撫でしたときのような重たく柔らかい感触と甘く鈍い刺激臭を伴う感情が湧いてきて、鼻腔(びこう)の奥がすうんとします。その暗い感情は乳首の裏から両脇にかけて広がって胸郭を満たし、やがて胸骨のあたりが重く沈み込み、息が苦しくなって、頭が締め付けられるのです。
そしてあの居ても立っても居られないムズムズが足の裏あたりから湧いてきて、すぐに体を動かさないと叫び出しそうになります。そんな時は、大人に対していっそう反抗的で可愛げのない態度を取り、相手が怒り出したり、失望したりするのを見ると、ムズムズがすうっと抜けてスッキリしました。
そのいやあな感情は、強い自己嫌悪と、罪悪感からなるものです。もしかしたら、大人を性的な存在と感じてしまうことに対する罪悪感だったのかもしれません。ここには何か重要なミッシングリンクがあると思うのですが、ずっと手をつけずにいます。まあ、蓋(ふた)を開けてみたら何もない、記憶の枯れ尾花かもしれないのですが。
このいやあな感じは、3〜4歳の頃から中学生頃まで続いたでしょうか。しばらくは忘れていましたが、20代の頃、当時の交際相手が性交中に私の体を使って実母と交わっているつもりになっているような気がした時に、久々に強烈に蘇りました。ことが終わってから耐え切れずに「あなたは今、私を貪りながら、お母さんと交わっているつもりになっていたよね。死ぬほど気持ち悪いので金輪際(こんりんざい)やめてくれないか」と激怒しました。
その時に気づいた交際相手の抱える課題はなかなか根深く、結局その男性は最後までママの幻影に支配されていたように思います。いま男児を育てる身としては、非常に興味深く、警句となる記憶です。
大人をわざと怒らせて、相手が自分を嫌うように仕向けたのは、先述のように性的な罪悪感と、自罰感情があったからです。自分は人に嫌われるのがふさわしいと思っていました。「けいこちゃん、可愛いわね。お人形をどうぞ」と言われて「わあ、ありがとう。嬉しい!」と笑顔で相手を喜ばすのは、感情奉仕をさせられているようでシャクでした。
そんな温かいやりとりが自分に許されるはずがないとも思いました。好意を示す人はみんな裏があるように見えたし、受け入れたら負けだと思いました。私は大人から疎まれ、可愛げがないと言われる子どもじゃなくちゃいけないのだと。
幼稚園でもそれをやったものだから、当然ながら先生方に嫌われました。大人を試していたのです。ひねくれた子どもを、それでも受け入れてくれようとする大人がいるかどうか。いて欲しいと願う気持ちと、いなくてザマアミロだという気持ちがありました。隙あらば自分をいじめてやろうとするもう一人の自分は、もしかしたら家庭内で自分に向けられたまなざしを内在化してしまったものかもしれないです。
きょうだいは互いを意識して、つい比較してしまうものです。ですから親がきょうだいを公平に扱うことは、とても重要です。我が子を加害者にも被害者にもしないために「あなたはかけがえのない大切な存在だ」と、どちらにも同じように伝えなくてはなりません。
また、親に贔屓(ひいき)されている子どもにキツく当たるきょうだいを「あの子もかわいそうだから」と放置するのもいけません。「もっと愛して」と抗議できない子どもは、親の寵愛を受けているきょうだいに「お前は価値がない」と言い聞かせて、自分よりも多く与えられた愛を無価値化しようとします。
いくら親が愛を注いでも、子どもの認知が歪んでいれば、それは愛として認識されません。親の愛を奪われた子どもは、愛を奪還することが無理だとわかると、それを手にするきょうだいを壊すことで不公平を解消しようとするのです。
例えば3人きょうだいでは、親にとって子どもひとりは全体の3分の1かもしれませんが、子どもにとったら親は1です。3人きょうだいだから親を3分の1ずつにしようなんてことは考えません。だから親も、1対1ですべての子どもに向き合わなくてはなりません。ある子は1.5で、ある子は0.5なんて重み付けを変えてはいけないのです。これは自分が子育てをする上で、最も気を付けていることの一つです。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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