連載
#4 Busy Brain
小島慶子さんがふり返る「発達障害が知られていなかった時代」
1970年代、両親は我が子に発達障害があるとは考えなかった時代でした
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
あとから考えれば、ADHDの特徴を持つ私と、物事を自己流に解釈して被害妄想を募らせてしまう傾向がある母との組み合わせは、かなりの珍道中というか、なかなかに難儀なものでした。幼い子どもにとって、親は世界のガイドであり翻訳者でもあります。ガイドが思い込みで説明をしたり、翻訳者が度を越した意訳をしたりすると、子どもは目の前の世界とのリアルな出会いを信じられなくなって、やがて親の作り上げた世界の中に暮らすようになってしまいます。母に限らず我が子への執着と世間に対する警戒心が強いほど、親の思い込みや意訳は多くなります。子どもが自ら世界に触れて確かめる前に「それはこういうもの」とついいらぬ口を挟んでしまうのです。
3歳で日本に来て、住んだのは東京・清瀬市の団地でした。このとき初めて私は同年代の子ども、しかも同じ髪と目の色で同じ言葉を喋っている子どもたちを目撃します。団地の中央にある公園の脇を通った時、しゃがんで遊んでいる女の子たちを見て「あ、トモダチだ」と思いました。すると母は私の手をぎゅっと握って「あの子たちは言葉遣いが悪いからダメ」と言いました。大変残念でしたが、なるほどトモダチというやつは混ざっていいのと悪いのとがあるのだなと学習しました。
やがて度重なる母の警戒警報発令によって、世界と自分との間に透明な膜ができました。様々なものから母のシールドで守られていた当時の私は、スノードームに閉じ込められているようなものでした。ガラス越しに世界を眺めながら、母と二人きり、生温い羊水の中で暮らしていたのです。
ただ幸か不幸か、頭の中には非常に我の強い脳みそが入っており、それは誰も手を突っ込むことができない強固な頭蓋骨に守られた脳漿(のうしょう)プールに浮いていたので、羊水の侵入を阻むことができました。狭いドームの中では母の目から逃れることはできませんでしたが、いつかこの膜が破れて外に出られるだろう、本当の誕生が訪れるはずだと、母子カプセルの中で日々抵抗を続けたのでした。
もしかしたら母は、子どもを通じて団地の主婦たちの輪になし崩しに引き込まれてしまうのを恐れたのかもしれません。まずは自分が信用できる母親仲間を見つけて、それから子どもたちを引き合わせようという作戦だったのかも。当時はまだ海外駐在経験のある人はうんと少ない時代でしたから、話題の合う人を見つけようと思うと、どうしても父の会社関係で付き合いのある女性たちになったのではないかと思います。
公立保育園で息子たちを育てた私からするとそれはいくぶん過保護なやり方で、子どもの友達は子どもが勝手に選ぶのがいいだろうとも思いますが、幼い時に虐められて辛い思いをした母が、クセの強い我が子をなるべく摩擦の少ない環境で育てたいと思った心情は十分に理解できますし、実際、のちに母のその懸念は的中することになりました。
さてこの時点でもまだ私は、自分は特別に選ばれた子どもであるという天上天下唯我独尊マインドで生きていました。けれど同時に、寂しい、行き場のないような気持ちも抱えていました。それは団地の4階のベランダにしゃがんで、眼下の路上で遊ぶ子どもたちを眺めている時や、ダイニングテーブルで作業をしている母の足元に寝転んで、味気ない天板の裏側を眺めている時に感じる無聊(ぶりょう)のようなものです。この所在なさは、大人になってからも常に意識の底に流れている気がします。
癇癪を起こしがちだった私は、幼いながらもそんな自分を恥じていました。家族の様子から、自分の様子がやや常軌を逸しているらしいと感じることもありました。衝動のコントロールが難しく、結果として、わがままだとかはしゃいでいるだとか、同じようなことを繰り返し注意されていました。気をつけていてもなかなか上手にできないなあという自覚はありましたが、それはひとえに性格と心がけのせいだと思っていました。
1970年代には発達障害というものがあるとは一般には知られていませんでしたし、例え知られていても、両親は我が子に障害があるとは考えなかったでしょう。彼らは、この末っ子の癇癪持ちではしゃぎ屋のところは、本人が心がけを正し、行動を改めれば改善すると考えていました。もちろん私もそう思っていました。今でも、育てにくい我が子の問題は先天的なものではなく、性格や心がけがよくないのだと考える親は多いでしょう。しつけが甘いのではと自分を責めたり、子どもが不真面目だからと考えるかもしれません。
「性格か、障害か」「しつけか、治療か」という単純な区分けができるものではないでしょうし、素人判断で決めるのは誰のためにもなりませんから、専門家の助けを借りて丁寧に原因を探ることが、親と子どちらにとっても最善ではないかと思います。そのような助けがなかった時代の親たちはさぞ戸惑い、悩んだことでしょう。そしてもちろん、当の子どもたちだって、なぜうまくいかないのだろうと悩んでいるのです。子どもは生来、生真面目なものですから。
清瀬の団地での生活はパースの家での生活とは全てが違っていましたが、3歳児には国境なんてないし、どこにいても毎日が新発見の連続ですから、日本という国を特別に意識したわけではありませんでした。新しい環境は匂いや音や気配などの様々な情報に溢れており、それらは言葉に置き換えられることなく直に体に取り込まれました。
夜の救急車のサイレン、遠くを走る電車の音、カルキと洗濯粉の涼しい匂い、深夜に流れるネスカフェのCM、金属の新聞受けのひんやりとした手触り、よそのうちのドアから漏れる陰気な匂い。この世は湿った森のように年老いており、私はその物悲しい佇まいを愛していました。時々、何処かへと魂が焦がれ出るような、あるべき場所への帰還を待ち望むような心持ちになったものです。
死んだ人目線、と私は呼んでいるのですが、こんな風にまるで自分がとっくにこの世を離れてしまっていて、懐かしい景色を眺めに戻ってきたかのような気持ちになることは、今でもよくあります。
幼稚園に上がる少し前、団地から東京郊外の新興住宅地の一戸建てに引っ越しました。多摩丘陵を切り開いて作った造成地で、まだ空き地の方が目立つ、新しい街。ここで私は初めて見知らぬ子どもたちの群れと出会いました。自宅のすぐ前にある幼稚園に通う、近所の子たちです。
オーストラリアで生まれ、3歳を過ぎるまで他の子どもを知らずにいたため、気づけば誰かと友達になっているという体験がありませんでした。自意識過剰に加えて、トモダチというものに対する過剰な期待や不安があったので、集団生活デビューはなかなかに緊張するものでした。
先述したように、母は幼少時にいじめにあうなどして過酷な生い立ちであったのと、婚家との関係や駐在妻ソサエティでいろんな経験をしたため、人付き合いというものにかなり用心深くなっていました。私はどのようにして子ども社会に入っていけばいいかわからず戸惑っているところに、母から「友達なんて、あてにならないものだ」と繰り返し聞かされたため、他人の表情や言葉をどのように解釈すれば良いのか、初期の段階でかなり混乱することとなりました。
例えば誰かの態度を「おっ、これは自分に対する好意なのかな?」と思っているところへ、横から「あなたは今、意地悪されているのだ」と言われると、相手の好意的な態度をどう解釈すればいいかわからなくなります。しかし母が間違っていることを言うはずがないので、好意的に見える相手の中に、懸命に意地悪な要素を探すことになります。それはどうしても無理があるので、相手ではなく自分を否定するしかなくなるのです。つまり、このような態度を好意的だと感じる自分が間違っているのだ、と考えるに至るわけですが、そうなると見るもの全てが信じられなくなります。
子どもは、相手の態度から真意を予測し、会話などを通じてその裏付けを得ることで自分の予測が正しかったと確認することを繰り返して、人間関係のカンを養うことができるのではないかと思います。私の場合は、生まれつき他人の感情が読み取れないのではなく、むしろかなり細やかに読み取れていたところへ、母の視点という強烈なバイアスがかかったことで激しく混乱し、強い自己不信と対人不安を抱くに至ったのではないかと思います。
発達障害のある人はみんな“コミュ障”で、他人の気持ちがわからないと思われていますが、そんなに単純なものではありません。発達障害にはASD(自閉症スペクトラム)、ADHD(注意欠如・多動症)、LD(学習障害)などがあり、複数の障害を持つ人もいます。ASDは人の気持ちを読みとるのが苦手で、社会的コミュニケーションに困難を伴うことがあるとされています。意思疎通が非常に困難で、社会生活を送るのに多くの支援が必要な人もいれば、中には、そうした自分の特性を理解して対策を講じ、長所を伸ばすことで仕事や人間関係のスキルを身につけている人もいます。
ASDを公表している著名人には、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさんなどがいますが、苦手なことや困りごとの度合いは人それぞれです。同じ障害でも、うんと困難な状況にある人とそうでない人では、事情は全く違います。同じ人でも、置かれた環境によって困り具合が変わることもあります。ですからメディアなどで知った一例をもって「発達障害ってあんな感じ」と決めつけるのは、避けなければなりません。障害は人の数だけあり、人は複雑な生き物です。また、その人の全てを障害で説明する事はできないのです。
ここまで読んできてお分かりのように、私がなぜ私になったのかは、生まれ持った特徴や家族との関係など様々な要素の影響があり、ここからここまでがADHD、とはっきりわかるものではありません。
ある時は相手の感情がわからなくて混乱し、ある時は必要以上に細かいところまで感じ取ってしまい、かつてはその振れ幅に翻弄されることが多かったのですが、年齢と共に様々な経験を積み、むしろその幅を生かして、相手を多面的に捉えることができるようになりました。この対人関係の振れ幅が発達障害の影響を受けているのか、愛着形成の問題の影響を受けているのか、そのどちらもなのか、どちらでもないのかは、専門家ではない私にはわからず、専門家が円グラフですっきりとその割合を示すことができるものでもないでしょう。
グダグダと歯切れが悪いなあ、そんな曖昧なことを言わないでくれ!と思うのなら、曖昧さを恐れるご自身の心の動きを、よく眺めてみる必要があるかもしれません。この連載は何かをズバッと言い切るために書いているのではなく、生身の人間がいかに切れ味が悪く混み入った存在であるかを晒(さら)す試みなのです。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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