お金と仕事
仕事にプライベート持ち込んでもいい 聴覚障害の両親持つ社長の決意
ビジネスを円滑にする「必要な無駄」
仕事とプライベートは分けるべきか。上司と部下、同僚同士でも、私生活に立ち入られることに抵抗感を抱く人は少なくありません。一方で、まったくバックグラウンドがわからない人とは仕事がしにくい場面もあります。聴覚障害者の両親を持つ耳の聞こえる子ども(通称CODA)として、声で話すよりも先に手話を身に付けた尾中友哉さんは、自身の経験から「プライベートな会話を『必要な無駄』として取り入れることが大事」と語ります。聴覚障害者の持つコミュニケーション感覚を組織開発にいかすビジネスを起業した尾中さん。副業やリモートワークなどが広がる中、尾中さんの言葉から、職場でのプライベートな距離の取り方について考えます。(櫻井紫乃)
尾中さんは聴覚障害の両親のもとで育ち、声で話すよりも先に手話で話し始めました。子どもの頃から、両親と関わる大人の間に入り手話通訳をしてきたそうです。通訳の際には、正しく情報を伝えるために、発話者の表情や動きをよく観察し、言葉の内側にある心の動きも捉えられるよう意識してきました。
耳の不自由な父の背中を見て育った尾中さん。聴覚障害により多くの苦労を背負ってきた気持ちに触れ、いまを一生懸命生きようという思いが強かったと話します。
学生時代には映像制作や、新聞制作に打ち込みました。就活では、マスコミ業界を重点的に受け、念願の大手広告会社に入社します。
しかし、連日続く接待や誰の反応も見えない仕事に働く目的を見失い、2年で退社。その後、フリーランスを経て起業しました。自身の経験を通して、仕事の軸にしていることがあるそうです。
「『務め』になるようなことを仕事にする」
尾中さんが大事にしているのは、江戸時代の、私的な部分である暮らしと、公的な部分である仕事の間にあった「務め」の概念です。
例えば道路を掃除することは、普段の暮らしを快適にするためでもあり、その道を使って仕事をしやすくするためでもあります。また、自分以外の地域の人にとっても役に立つことでした。
「『務め』を通して、社会とのつながりを持つ。リラックスして、熱中して取り組めることは何か」
会社を辞めた尾中さんは、良い意味で「公私の境目がなくなる」ような「務め」を仕事にすることができないかと考え始めました。
起業へのきっかけとなったのは、たまたま並んだ団子屋さんでのハプニングでした。長蛇の列が進まず、先頭で何かもめ事が起きていると気づきました。お店の人が聴覚障害のお客さんとコミュニケーションが取れず、トラブルが起きているようでした。
尾中さんは思わず間に入り、手話通訳をしました。その場は和やかに解決し、また列に戻ったそうです。すると、先ほどのお客さんが近づいてきて、尾中さんにお団子を渡しました。
「そのお団子があまりにうれしくて。鳥肌が立ちました。自分が手話で話せることも、聞こえない人と暮らしてきたことも忘れていた」と気づき、転職活動を開始したそうです。
しかし、次の職業を探す中で感じたのは、「自分は支援者になりたいのか?」という疑問です。
「父と母と暮らして、確かに両親への助けになることもやりました。でも、僕も両親にたくさん助けてもらい成長してきました。だから自分は支援者という発想ではない。聞こえる人と聞こえない人の組み合わせでどんな価値が生まれるのか? 両親と自分ということでもあり、社会と自分ということでもある。これは『務め』の概念に近いテーマだと思いました」
そんな思いから起業に至ったそうです。
幼少期から通訳を通して他者の心の声に耳を傾けてきた尾中さんですが、一方で大人になった自分の心の声を拾い上げることには難しさを感じていました。
「組織に従順すぎたり人と比較ばかりしたりしていると、自分の心の声を押さえ込んだり、形を変えて伝えていることに慣れてしまい、自分が変わってしまいそうになります。心を殺さないためにまず自分の心の声に気づいてあげること。その声を言葉として表に出すことが大事だと思うようになりました」
2016年、尾中さんは聴覚障害者と共にビジネスを行う株式会社Silent Voiceを立ち上げました。翌年には聴覚障害のある子どもを対象にした教育事業を行うNPO法人Silent Voiceを設立します。
Silent Voiceでは、企業向け研修や、ろう児・難聴児向けの総合学習塾を展開し、聴覚障害者の強みを生かす社会の実現に向けて活動しています。
社員にも「務め」の発見を大切にして欲しいと話す尾中さん。会社としてのビジョンや目標といった、ゴールになるものの目線合わせだけでなく、その人の今をかたどっている価値観、人生、原体験にも目を向ける必要があると強調します。
そのために、プライベートにある「必要な無駄」を積極的に採用し、職場の環境づくりに生かしているそうです。
「僕自身が『務め』を大事にしているから、社員にとっての『務め』の発見も大切にして欲しいと考えています。そのために、人生で何を目指したいのか。いま過ごしている時間がゴールに向かうどの部分なのかを自他ともにはっきりさせる。その人自身が情熱を持つことが大切だと考えています。メンバーの頑張っている姿は見たいですが、強制的に何かをさせられても、最大限のパフォーマンスは出ないので。『頑張れ』と言わないで済む会社を目指しています」
「必要な無駄」を採用することは、メンバー個人の仕事に対する意義付けだけでなく、職場の働きやすさにもつながっていると話します。
「今まで知らなかった部分が分かるようになると、相手がなぜその言動をとるのか分かるときが多くなります。相手を知れば知るほど優しくできると思いますし、心理的安全性の担保にもつながりますよね。働く上で一定の『無駄』がないと、仕事は進んでも相手のことが見えてこない。それを『必要な無駄』と考え、積極的に無駄なことをしています」
尾中さんは、プライベートの会話が少ない職場だとコミュニケーションにズレが生じたり、離職につながると懸念します。一方、仕事以外のコミュニケーションがある組織は結果的に従業員のエンゲージメントが向上し、働きやすくなるだけでなく生産性も上がる傾向にあると言います。
Silent Voiceが提供している企業向け研修プログラム「DENSHIN」では、無言語コミュニケーションを体験できます。
音を遮断した環境で、声や文字を使わずに、表情やジェスチャーだけで、伝えたいことを相手に伝えます。
例えば、お題が「りんご」の場合、頭にのせたりんごを弓矢で撃ち落とすようなジェスチャーをする人もいれば、ジーパンでりんごを拭いてかじるように表現する人もいます。
「りんご」と聞いてイメージするものは同じですが、その表現方法は、本人の経験によってさまざまです。
伝えているつもりでも、相手によっては受け取り方が異なります。また、相手の伝えたいことを理解しようと思った時、人は相手の目を見たり、体を向けたり、笑いかけたり、全身で相手の話を受け止めようとする姿勢を取ります。
尾中さんは、仕事でのコミュニケーションで大切なことは「伝わる」ことに責任を持つことだと話します。
「伝える」と「伝わる」の違いについて尾中さんは、次のように語ります。
「『伝える』は一方向的でありプロセスですが、『伝わる』は双方向的であり結果です。伝えるだけでは、実はコミュニケーションは成立していない。相手の反応を見つつ柔軟に伝え方を変えていく。その共同作業こそがコミュニケーションであり、『伝わる』ことが求められる結果です。その共同作業は必ず信頼関係に置き換わります。一番やりたくないのは、相手に『伝える』だけで終わってしまって『なんで伝わってないんだ!!』と怒ってしまうことですね」
「コミュニケーションの『伝わる』という結果を生めないと、中長期的にその組織が結果を生み出していることって、どうも想像がつかないんです。僕たちは、まだ若くて未熟な組織ではありますが、それが信念になっています。それくらい、僕の人生や、聞こえる人と聞こえない人が一緒に働くって、コミュニケーションの課題が日々連発しているんです。でも、たくさん課題にぶつかってきたから、持つことのできた信念なのかもしれません」
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