連載
#1 Busy Brain
ADHDと診断された小島慶子さん「私の脳に、世界はどう見えたか」
どんなにうんざりしようとも生涯離れられない、このお喋りで忘れっぽい脳みその生態
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
3歳まで、私は他の子どもを知りませんでした。父の転勤先のオーストラリア・パースで生まれ、周囲に日本人がほとんど住んでいない環境で、街に出るとき以外は両親と9歳年上の姉と飼い犬とだけ接触して過ごしていたのです。あとは両親が出かけるときにやってくるベビーシッターと。広い芝生の庭、日当たりの良いリビング、窓の外に光る青い川面に点々と浮かぶヨットの白い帆。それが世界でした。はるか北の彼方に日本という場所があることも知りませんでした。
西オーストラリア州の州都パースは、頬の垂れた猫の顔みたいな形をした大陸の、左のほっぺたの先っちょあたりにある街で、世界で最も孤立した都市とも言われます。地図を見れば一目瞭然。西には広大なインド洋、北にも東にも延々と大地が続くばかりで目立った都市はなく、南に行けば荒れ狂う南極海と白い極地。かつては捕鯨船で賑わったフリーマントルという古い港には、日本の南極観測船しらせが極地に向かう前に食糧を積み込むために寄港します。
父は大手商社で鉄鋼原料を扱う会社員でした。1970年、オーストラリアの鉄鉱石を買い付ける仕事のために、日本人はまだ百人程度しかいなかったというパースに30代後半で妻子を伴って赴任。アルバムには、マウント・ニューマンという真っ赤な土に覆われた鉄の採掘場に、ヘルメットを被って立つワイシャツ姿の父の写真が何枚も残っています。姉は現地の小学校に通っていました。真っ先に思い浮かぶ当時の記憶には、人がいません。昼間は母と二人きり、近所のオーストラリア人の子と遊ぶこともなく、一人遊びをしていました。
ですから長いこと、自分は神様に選ばれた特別な子だと思っていました。友達という他者を持たなかった私は自分を相対化するすべがなく、ただでさえ全能感に溢れている幼少期に、自分と世界との境目も曖昧なままに、この世に唯一の子どものような心持ちで暮らしていたのです。
当時の記憶は断片的で、前後のつながりもはっきりしないものがほとんどです。ただ「ああ、ここが、“今”の始まりなんだ」と思ったシーンは鮮やかに覚えています。両親の寝室で、薄い水色の小花が描かれた化繊のキルティングのシュルシュルと冷たい織地のベッドカバーに座りながら、正面の窓から差す朝日を浴びているのです。そして「ええと昨日はどこに遊びに行ったんだっけ、そうだ滝を見に行ったんだ」と家族とのドライブ旅行を思い出している。同時に、今日という未知の時間が確実に用意されていることを知って、とても満ち足りた気持ちでいるのです。
ずいぶん長い間、この記憶は前生を終えて今生にスリップした瞬間だと思っていました。すでに生きるということを自分は知っているはずなんだが、という妙な既視感があったからです。やがてそれは寝起きの頭の霧が晴れるように、長じるに従って薄らいでいきました。
この連載は、40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された私の半生の実況のようなものです。自分の脳みそについて語るということは、どんな診断名がついたかを語ることではなく(それは医師の仕事)、私には世界がどう見えたかという話をすることに他なりません。それが障害ゆえなのか、気質ゆえなのか、パーソナリティによるものなのか、環境によるものなのかはわからない。おそらくそれらすべてが、私の認知の仕組みを作っているのでしょう。
時には生きる障害となり、時には生来の個性として尊重され、御し難い自己のありようとして、また祝福されるべき天与の才として、どんなにうんざりしようとも生涯離れられない、お喋りで忘れっぽい脳みそ。その生態は、きっとあなたとは違うでしょう。私たちはみんな、ひとりぼっちの寂しい脳みそを生きています。骨の独房に閉じ込められ、絶え間ない思考労働という終身刑に服しているのです。かすかに漏れ出る苦役の呻(うめ)きを、こうしてかろうじて文字にしたものが、せめて互いの孤独の慰めになればと思います。
どうか、同じ診断名がついてもそれは決して同じ障害ではないということを念頭に置いてお読みください。これは世界に一つの、私の脳みそに映った世界の話です。
母はことあるごとに、私がどれほど育てにくい子どもであるかを語って聞かせてくれました。癇癪持ちで利かん気で、すぐに「ご機嫌ななめ」になるひねくれ屋。よく叱られては、泣きすぎてひきつけを起こしている体を母に預け、庭に咲く黄色いバラを眺めたものです。「こんなに優しくするなら、あんなに怒らなくても」と思いながら、重く甘やかな安堵に浸っていました。
先述したようにこのころは他に小さな子どもを見たことがない生活でしたから、遊ぶ時は一人でした。女の子だからと人形も与えられましたが、どういうわけか、人の姿をしたものは可愛くないのです。嫌悪を通り越して憎悪すら感じていました。赤ん坊の時から、人形を持たせると散歩の途中でベビーカーから崖下にぶん投げていたそうですから、生来のものなのでしょう。
いま無理矢理に理由をつければ、世界に一人の子どもであるという自意識を持った私は、他者との関係を模倣するごっこ遊びなどに興味が向かなかったのかもしれません。当時執着していたのは、中が空っぽの赤いプラスティックでできたドーナツ型のおもちゃで、いつも飼い犬と取り合っていました。
どこにも角張ったところがなく無駄のない形、乾いた滑らかな樹脂の手触り、水気の多い赤の色調、中に閉じ込められた空気の気配、指で弾くと響く虚ろな音、真ん中の穴に指を入れてくるんと回した時の小気味よさ、どこをとっても完璧な、永遠に見飽きることのない美しい輪っかでした。
この赤ドーナツの洗練された調和と静謐に比べたら、ごちゃごちゃと色や形が組み合わさった人形は調和とは程遠い雑音と不調法の塊で、その上「これは人間だよ! お友達だよ!」と厚かましく押し付けてくる何者かの意図がありありと感じられ、侵入者への警戒を呼び起こすには十分のいかがわしさに満ち満ちていました。
赤ドーナツは、私の感受の自由を尊重し、それがなんであるかを規定しようと踏み込んできたりしません。手にする者を信頼しているのです。お菓子を模したおもちゃだと思おうが、美の結晶だと思おうが、ただの触ると安心する丸い物だと思おうが、赤ドーナツは黙って甘受します。
私はその忠実さと気高さを愛していました。飼い犬のダックスフントもまた、あのトーラス(輪っか)の滑らかなフォルムと樹脂の歯触りをこよなく愛していたので、取り合いはいつも真剣勝負でした。噛まれるかもしれないと身の危険を感じても、なんとしても譲るわけにはいきませんでした。奴の歯が滑って、細長い口から唾液塗(まみ)れの輪っかを無事奪還できたときの誇らしさと言ったら。世界で私と犬だけが、赤ドーナツの値打ちを知っていました。
母は、寝室の白い籐籠に絵本をいっぱい入れておいてくれました。姉のお下がりだったのか、それとも日本から取り寄せていたのか『キンダーブック』という月刊絵本が何冊も、それに『三びきのやぎのがらがらどん』などのお話、わらべうたを集めた切り絵風の絵本など、繰り返し眺めたものです。
中でも切り絵風のわらべうたの絵本は、真っ黒な背景に鮮やかな手毬や風ぐるまが描かれていて、美しいけれどどこか寂しく懐かしく、そこがとても気に入っていました。母が歌ってくれたわらべうたのなんとなくマイナーがかった音調も好きでした。私にとってはそれが見知らぬ国「にほん」の最初のイメージでした。子どもへの読み聞かせは親の子ども時代の追体験というか、生き直しでもあるので、この出所不明の寂しさは、幼少期の母の心象風景なのかもしれないです。
『がらがらどん』は全体に絵のタッチが荒ぶっており、見ているうちにザワザワと不安になるばかりか、橋の下のトロルがとんでもない恐ろしさでした。ドロドロと茶色く溶けかかった塊にでっかい目鼻がついており、そのいやらしく執念深そうな顔つきと太い怒鳴り声は(確かに聞いたのです)、2〜3歳の子どもに軽く心的外傷レベルのショックを与えるのに十分でした。絵本のページをはみ出した茶色い腕がニュルニュルと伸びてきて今にも川に引き摺り込まれそうな気がして、トロルのページは絶対に開けないようにしていました。
トロルが我が子にそれほどまでの恐怖を与えていることを知った母は、普段使っていない日当たりの悪い部屋を「トロルの部屋」と名付け、娘が言うことを聞かないときに閉じ込めることにしました。トロルの部屋に入れるわよ!!と脅されるのは何より恐ろしく、そして実際閉じ込められたときには正気ではいられず、ドアを叩いて泣き叫びました。
がらんとした部屋の窓の外には中庭の陰気な緑が繁っており、その藪(やぶ)の中にはイグアナやら毒蜘蛛やらが潜んでいると日頃から聞かされていたのです。薄暗い部屋の横手から今にも大きなトロルの腕が伸びてきそう。部屋の真ん中に蹲(うずくま)った怪物が、あの虚ろな目玉でこちらを見ている気がしてパニックになりました。
このときにはもはや自分がなぜそこに閉じ込められる羽目になったのか、何を受け入れることを求められているのかなどはもうすっ飛んでいて、ただただ恐慌の中にありました。子どもの心に住み着いたトロルを見事現実世界に呼び出すことに成功した母でしたが、残念ながら教育的効果はなく、私はそんな目に遭わされても相変わらず扱いにくい子どもであったばかりか、暗がりや誰もない廊下などを異常に怖がるようになってしまったので、しつけとしては大失敗だと言えるでしょう。
ただあるとき、なぜかトロルの部屋が怖くなくなっていることに気がつき、自分は成長して化け物退治に成功したのだと思うことができたので、結果としては良かったのかもしれないです。
お話ではヤギたちが協力してトロルを退治するのですが、巨大なヤギが蹄(ひづめ)で蹴り殺してバラバラにするというこれまた残忍な手口で、殺戮のあと川に流されていくトロルの破片が一層恨みがましく、川面から立ち上る生臭い体液の臭いまでするようで実に強烈な印象を残しました。そんなわけで、長じてから自分の子どものために買ったときにもビクビクしながらページを開いたのですが、初見から30年を経た大人にも十分に衝撃的な絵柄で、改めて名作であることを実感したものです。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
1/10枚