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「ものまね」変えた偉人たち コロッケの妄想、タモリなりすまし革新
「メインになれない芸」が一大ジャンルに、新世代で進む「ハイブリッド化」
お笑いには欠かせない芸の一つである「ものまね」は、江戸時代にまでさかのぼる歴史がある。1920年代にラジオ文化が花開くと古川ロッパが「声帯模写(せいたいもしゃ)」と称して再流行。テレビ時代の1970年代後半、タモリが革新を起こし、1980年代には、コロッケら「ものまね四天王」がエンタメジャンルとして確立させた。時代の機微を取り込み、時に「金脈」を掘り当てることで進化してきた、ものまねの歴史をたどりながら、その魅力について考える。(ライター・鈴木旭)
「ものまね」の起源は、文明が起きる前に行きつく。人が動物や鳥の鳴き声をまねするのは、言葉よりも先にあったと考えられるからだ。また、なんらかの行動や状況を現す“○○ごっこ”という遊びも、古くからあったようだ。
演劇研究家の河竹登志夫氏は、日本大百科全書(ニッポニカ)の中で、『古事記』『日本書紀』にまでさかのぼり、「海彦(うみひこ)山彦説話にみる被征服者の滑稽(こっけい)なマイム(物真似=ものまね=戯)も、原始芸能の一形態といえる」と指摘するなど、その源流には「最古の芸能」とも言われる歴史がある。
日本で「ものまね芸」の起点となったのは、 江戸時代の後期に誕生したとされる「声色遣い(こわいろづかい)」だ。舞台に登場する歌舞伎役者をまねたもので、これが「有名人のものまね」の元祖と言われている。
メディアが限られていた時代は、大衆に支持される有名人はごく少数だった。この声色遣いは、寄席演芸やお座敷遊びなどの文化として戦前まで引き継がれていった。
一方で、江戸時代から、人間ではなく動物の鳴きまねをする寄席文化もあった。猫や犬、鳥や虫の鳴き声など、洗練された芸で観客を魅了していたという。
大正・昭和の時代に活躍した芸人には、おんどりなどの鳴きまね以外に軽妙な語り口でマジックも披露するアダチ龍光、コオロギやウグイスを得意とした三代目江戸家猫八らがいる。
古典的な芸として知られていたものまねは、1920年代中盤に再び脚光を浴びることになる。
昭和初期に活躍したコメディアン・古川ロッパが、声色を「声帯模写(せいたいもしゃ)」と命名。人のしぐさやなんらかの動きをまねる寄席の芸「形態模写」をもじったこの言葉が一般に浸透し、洗練された芸としてものまねは再び注目を集めることになった。(矢野誠一著『エノケン・ロッパの時代』(岩波新書)より)
その背景には、1920年代にスタートしたラジオ文化が大きく関わっている。ラジオが主流の1950年代あたりまで、有名人、著名人をまねる声帯模写はお茶の間の娯楽だった。現在でも通じる「ものまね」のニュアンスは、ここが原点と言っていい。
ロッパの声帯模写の秀逸さについては、ある逸話が残っている。1931年8月8日、元祖マルチタレントとも言われる徳川無声が酒と睡眠薬の過剰摂取で倒れ、生放送のラジオ番組に出られなくなった。そこで代役を務めたのがロッパだった。ロッパは代役であることを明かさず、無声のまねをして番組の40分間を押し通した。
これを聞いていた誰もが代役を務めたロッパに気づかなかったというから驚きだ。無声の妻は、隣室で夫がいびきをかいて寝ているのを知りつつ、ラジオからいつもどおりの声が流れてきて信じられなかったと語っている。(小林信彦著『日本の喜劇人』(新潮文庫)より)
テレビが一般に普及すると、声帯模写は死語となり衰退していく。当時はあくまで声をまねることが主軸にあり、視覚的な派手さに欠けた芸だったのだ。ビジュアルが優先の時代に入って、舞台役者や映画俳優だけでなく、政治家や評論家など、ものまねの幅も広がっていった。
ラジオからテレビが主流の時代へと移り変わった1960年代。ものまねは、歌手や芸人による洗練されたものと、庶民の日常会話に出てくる「ちょっとした笑いのタネ」として大衆化されたものに二分化していた。
たとえば1967年から放送された『象印スターものまね大合戦』(テレビ朝日系・1977年7月終了)では、人気歌手や芸能界のスターが別の歌手の持ち歌をまねるという内容だった。その評価は、“スターの隠れた一芸”に向けられたものであり、寄席芸人の卓越したものまねに対するものと同義で、すっかり形式化されていた。
1970年代後半、そんなものまね芸に革新を起こしたのが、デビュー間もないタモリだった。
もともとインチキ外国語やインチキ宣教師などのパフォーマンスで独特な魅力を放っていたが、とくに衝撃を与えたのは1960年代に歌人・劇作家としてカリスマ的な人気を博した故・寺山修司のものまねだった。
タモリが画期的だったのは、寺山の文学的な言い回しやクセのある津軽弁だけでなく、「いかにも寺山が言いそうなこと」をまねしたことだ。たとえば「タモリっていう人はパロディストではなくて、やっぱりカリカチュア……つまり、戯画化されたものを描く天才じゃないか。こういうふうに思うわけです」といった口調だ。
本人は一度も口にしたことがないにもかかわらず、その語り口は寺山以外に考えられないものだった。当時、この芸は「思想模写(しそうもしゃ)」とも称され、以降のものまね芸に大きな影響を与えた。(1981年10月16日号の「週刊朝日」(朝日新聞社) 沢田亜矢子と寺山修司の対談記事より)
2013年10月に放送されたニッポン放送の60周年開局記念番組『われらラジオ世代』に出演したタモリは、自身の芸を「なりすまし」だと語っている。寺山のものまねは、その最たるものだった。
2000年代初頭にブレークしたものまねタレントの原口あきまさ、コージー冨田は、明石家さんまやタモリといったタレント本人とそっくりな表情、しぐさ、言動で注目を集めている。その原点は、新人時代のタモリのスタイルにあると言っていいだろう。
1980年代、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)に出演していた片岡鶴太郎が、近藤真彦、たこ八郎などのものまねで脚光を浴びた。とはいえ、ものまねをエンタメ化、ジャンルとして確立させたタレントといえば、真っ先に思い浮かぶのがコロッケだ。
高校卒業後、地元・熊本のスナックやショーパブで修業を積み、芸能界入りのチャンスをうかがっていた。そんなある日、知人の紹介でタモリ、赤塚不二夫、所ジョージという面々を前にものまねを披露するチャンスを得る。満を持してコロッケは上京。しかしネタを見せるやいなや、所から「似てるけど面白くない」とダメ出しを受けてしまう。
悔しさを胸に熊本へとトンボ返りしたコロッケは、所の指摘された問題をどうクリアするか研究を重ねる。そこで生まれたのが、歌手・ちあきなおみのものまねに代表される“ビジュアルを誇張する芸”だった。(上記内容はすべてTBS系列の『サワコの朝』2015年10月17日放送分より)
転機は20歳の時に訪れる。1980年に『お笑いスター誕生!!』に出場し、グランプリこそ逃すも、6週勝ち抜きで銀賞を獲得。以降、バラエティー番組で顔を見せるようになり、徐々に知名度が上がっていく。
極めつきは1985年に出演した『ものまね王座決定戦』(フジテレビ系)だ。五木ひろし、松山千春、美川憲一らを誇張したパフォーマンスで視聴者を釘づけにした。さらに同番組に出演したコロッケ、清水アキラ、ビジー・フォー、栗田貫一の4組は「ものまね四天王」と呼ばれ、一世を風靡(ふうび)。1989年からは『ものまね珍坊』(前同局・1992年3月終了)がスタートするなど、一大ブームを巻き起こした。
一方で、1983年にデビューした清水ミチコは、コントもできるものまねタレントとして活躍。ジャンル化されたものまねとは別に、片岡鶴太郎に通じるスタイルもまた進化していった。
その最たるタレントが、ものまねブーム最盛期の1988年にデビューした松村邦洋だった。ビートたけし、高田文夫、西田敏行、掛布雅之など、それぞれの特徴を見事にとらえたものまねで人気を獲得した。ちなみにビートたけしの「ダンカンバカ野郎!」というものまねは、松村が流行(はや)らせたもので、本人は一度も口にしていない。
また、松村は1992年1月に放送された『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)の出演をきっかけに、ダチョウ倶楽部、出川哲朗らと「リアクション芸人」の1人としても活躍。同年にスタートした『進め!電波少年』(前同局・1998年1月終了)では、松本明子とともに司会を担当し、アポなし訪問や街の不良少年を更生させる企画など、過激なロケを敢行して自身のキャラクターを確立していった。
松村の登場は、ものまね番組以外のバラエティーにものまねタレントが出演するきっかけの一つになったと言える。2000年代に入ると、先述したコージー冨田、原口あきまさ、そのほか長州小力、神無月などが、自身の“顔となるものまね”を武器にバラエティー番組で活躍するようになった。
2000年代中盤には、歌声だけでなく見た目や話し方まで宇多田ヒカルになりきったミラクルひかるがブレーク。また同時期に、お面のように芸能人のイラストを顔に添え、あごだけを露出して声をまねるHEY!たくちゃんも注目を浴びた。
その後、テレビアニメ『ドラゴンボール』の主人公・孫悟空の声優で有名な野沢雅子ネタを持つアイデンティティ・田島直弥、普段は女性らしい容姿と声にもかかわらず、武田鉄矢、大友康平といった低い歌声をまねる“ギャップものまね”で話題となったりんごちゃんなど、ものまね芸の幅は広がっていった。
和田アキ子の“しゃべりものまね”でブレークしたMr.シャチホコに至っては、もはや「本人よりも本人らしい」という逆転現象さえ起きている。なぜものまねは、ここまで多様化したのだろうか。
この点について、ものまねブームの火付け役となったコロッケは、2014年7月に掲載されたORICON NEWSの取材の中で「(デビュー間もない)当時モノマネは、ジャンルとして決してメインになれない芸だったんです」「(メインにするには)そこに新たなエンタテインメントの要素を取り入れるしかなかった。その『新たなエンタテインメント』というのは僕にとって“妄想と破壊”だった」と語っている。
つまり、ただ歌声を似せるだけでなく、演出の仕方によっていくらでも飛躍できるのが“ものまね”なのだろう。その遺伝子は、現在のものまねタレントに脈々と引き継がれている。
マジックや腹話術といった芸が洗練され、伝統芸能化しつつある中、ものまねがここまで変化を繰り返しながら、一大ジャンルとして人気を維持できているのも興味深い。そこには、アイテムがなくてもすぐに披露できる、時代の顔となる著名人が登場するたびに素材の対象になるなど、たくさんの理由が考えられる。ただ、そのもっとも大きな理由は「人が人を表現する」という複雑さにあるのではないだろうか。
「対象となる人物が、どんな場面でやっていたことを、どんなふうにまねするか」というパターンと、演者側の声質を含めた個性とのかけ合わせは際限なくあるだろう。しかし、試行錯誤の末に何者かが突然金脈を掘り当てることがある。この周期的に訪れる“絶妙なものまね”があるからこそ、見る者を飽きさせないのだと思う。
進化の目覚ましいものまねだが、個人のしぐさを過剰に強調するような笑いは、人格を傷つける行為と紙一重でもある。様々な個性や生き方への配慮が求められる時代、ものまねもネタの切り取り方や表現の仕方などへの工夫が求められるだろう。
漫才やコントを披露しつつ、ものまねを武器とするお笑い芸人も珍しくなくなった昨今、ものまね芸はどこへ向かっていくのか。時代の機微を取り入れた新たな笑いが生まれることを心待ちにしている。
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