連載
#4 #ウイルス残酷物語
「自粛警察」を突き動かした「ケガレ」の論理 民俗学者が読み解く
ウイルスへの恐怖が引き起こした人権侵害
新型コロナウイルスの流行後、「自粛警察」という存在に注目が集まりました。感染拡大を防ぐため、本来であれば、自主的に行われるべき店舗の休業。しかし一部の人々は、営業を続ける小売店などに様々な嫌がらせをし、あたかも「制裁」を加えるかのように振る舞ったのです。「背景には感染症への恐怖と、予防に協力的でない人間を、『ケガレ』として排除しようとする心理がある」。民俗学者・畑中章宏さんは、そう読み解きます。古来続けられてきた、災禍をしのごうとする風習と比較しながら、その本質についてつづってもらいました。
新型コロナウイルスが広まり、政府や都道府県が外出自粛を呼びかける中、「自粛警察」と呼ばれる人々が各地で生まれた。彼らは自粛の要請に応じない店舗などに対し、嫌がらせや落書き、通報をするなどして、世の中を更に混乱させている。
古代から近世の日本には、目に見えない恐怖を「ケガレ」とみなして忌避する行動があった。しかし、「ケガレ」につながる差別意識が、現代社会でもなぜ生まれてしまうのか。そして自粛警察の行動が、これまでの「ケガレ」を免れようとする振る舞いと、どう違うのかについて考えてみたい。
千葉県八千代市では、自粛要請に従って休業していた駄菓子屋に貼り紙が見つかった。この駄菓子屋は緊急事態宣言が出される前から自主的に休業していたが、「コドモアツメルナ オミセシメロ マスクノムダ」と直線的な赤い文字で書かれた紙が、店の入り口に貼り付けられていた。
東京・吉祥寺の駅前商店街には、多くの買い物客が訪れていると報道されたことから、抗議の電話や手紙が殺到した。抗議の内容は、「全ての店を閉めさせろ」「ほかの店は閉めているのに利益をあげているのは最低だ」「武蔵野市の恥」といった乱暴なものが多かったという。
こうした不可解な行動については、「歪んだ自己顕示欲の発露」との見方がある。また、感染症に対する漠然とした不安やストレスを、「コロナ」や「ウイルス」という言葉に置き換えることで免れようとしているとも言えるだろう。
古代の日本には、あるものの「名前」を口にすることで、その実体を消し去ってしまうという考え方があった。また逆に、目に見えない存在を言葉にすることで可視化しようとすることもあった。いわゆる「言霊(ことだま)」だ。言葉は現実的には暴力性を伴い、民俗的には霊的な荒々しさを持つものなのである。
一般に、自粛警察の振る舞いは、未知のウイルスに対する恐怖感や、誤った正義感がもたらすものだと考えられている。しかし民俗学の見地から考察すると、ウイルスを暴力的なまでに忌避する感情と行為の背景には、ウイルスそのものや感染者を、あるいは予防しようとしない人々までをも、一種の「ケガレ(穢れ)」として捉える観念が働いている、と言えるのではないだろうか。
ケガレとは日本の民俗における禁忌(タブー)のひとつだ。科学的根拠がなく、今では倫理的にも支持されないが、出産や死、月経、家畜の死、病気などにより、当事者とその関係者に付与された状況をいう。
このケガレを避けようとする強迫的な観念は、ウイルス禍のさなかに、様々な形で常軌を逸する行動を生み出してきたのだ。
今年5月には、ウイルスへの感染が確認された女性がSNS上に個人情報をさらされるなど、非難や中傷がインターネットを介して広がった。
この女性は、4月29日に山梨県の実家に帰省し、5月1日にPCR検査を受けて、翌2日に陽性と判明。その後、高速バスで東京に戻ったという。当初は結果が判明する前に帰宅したと説明していたが、実際は判明後だった。
ネット空間には、名前や勤務先に関する真偽不明の情報が飛び交い、SNSには「見せしめにした方がいい」といった言葉が書き込まれた。また女性の勤務先だと名指しされた企業は、「事実無根」である旨をホームページに記載した。
山梨県はこの事態を重大な人権侵害と捉え、「感染したこと自体は本人の責任ではない。そのことは配慮してほしい」と記者会見で呼びかけた。これに対して県庁には、配慮要請を批判する電話が数多くかかってきたという。
都道府県をまたいだ移動の自粛が要請される中、感染者が少ない地域でも、様々な嫌がらせが横行した。県外ナンバーの自動車に傷をつける、運転手に暴言を吐く、あおり運転するなどといった振る舞いだ。一部の自治体はこのような行為に対し、ドライバーが県内在住者であることを明示できるシートを配布した。
ウイルスを可視化したいという気持ちが、感染者をウイルスそのものだと見て、人権を侵害するような行動に人々を駆り立てた。ウイルスという「ケガレ」は、それほどまでに強く忌避され、結果的に差別を発生させる要因となったのである。
古来の「ケガレ」観においては、穢れたものが神社に接近することや、祭りに参加することを禁止した。ケガレの対象を決められた小屋などに隔離し、食事などに用いる火を別にするなど、社会的な断絶が図られてきた経緯がある。
穢れをなくすには「禊(みそぎ)」「祓(はらい・はらえ)」が必要とされた。穢れの感染を防ぐしぐさで、子どもの間に普及したのが「エンガチョ」だ。
犬の糞を踏んだり、便器に触ったりした子どもが、汚れたところをほかの子にこすりつけるなどすると、穢れが移ったとみなされる。しかし、「エンガチョ」と唱えながら、両人差し指でバッテン印を結ぶなどすると“感染”を防御できる、というまじないだ。
歴史学者の網野善彦氏によると、エンガチョの「エン」は「穢」や「縁」を表し、「チョ」は擬音語の「チョン」が省略されたもので、「縁(穢)を(チョン)切る」を意味しているという。
「因果な性(いんがのしょう)」の転訛(てんか)や、「縁が千代(「永遠」の意味)切った」の略だという説もある。また、このまじないの言葉には、エンガチョのほかに、「ビビンチョ」「エンピ」「バリヤー」など、地方や時代により複数の呼び方がある。
エンガチョに類するしぐさの起源は古い。
『平治物語絵詞』(13世紀頃)には、なぎなたに結ばれた信西(しんぜい=「平治の乱」で討たれた後白河上皇の近臣・藤原通憲)の生首を見る人々が、人差し指と中指を交差させている様子が確認できる。つまり死穢(しえ・死の穢れ)を忌むことから、こうした印は発生したのだろう。
また霊柩車(れいきゅうしゃ)が目の前を通過したり、葬列を目撃したりしたとき、親指を隠さないと「親の死に目に会えない」「親が早死にする」という迷信がある。これも死やケガレを連想させるものに対して、「親指を隠すことが親を守ることになる」というものである。
エンガチョの印にも親指を隠すものがあり、このしぐさは日常的な死のイメージを忌避する風習と共通しているのだ。
一見たわいのないエンガチョにも、死の穢れをめぐる歴史があった。しかし今回のコロナ禍における自粛警察の行動は、あまりにも短絡的で文化として成立する可能性が感じられない。
災厄に際して、新たな文化や状況に応じたコミュニケーション手段を生み出していく“民俗的な力”が、現代では失われてしまっているのだろうか。
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